内大臣

日本の律令官制における令外官の一つ

内大臣(ないだいじん)は、日本律令官制太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。

沿革

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令外官ではあるが、起源は制以前にさかのぼり、大化元年(645年)から孝徳斉明天智の3代において内臣に任じられた中臣鎌足(藤原鎌足)が薨去の前日に大臣位を授けられたことに始まる。内臣は天皇に近侍して政務に参画した要職であり、鎌足の後、元正天皇朝に藤原房前が、光仁天皇朝には藤原良継魚名が内臣に任じられ、良継・魚名は内大臣に昇っている[1]。令制大臣に次ぐ常置の官として定着したのは平安中期の藤原道隆からであり[2]、その後の内大臣は主として、

  1. 摂関家の若手公卿摂政関白就任資格を付与するための任命
  2. 宿老もしくは功績多大な公卿[3]に対する礼遇のための任命
  3. 単に筆頭大納言に相当する公卿への待遇が「3番目の大臣(太政大臣を除く)」に改められた任命
  4. 武家政権の長あるいはそれに次ぐ地位の者に対して与えられる任命[4]

の4つに分けられるようになる。

内大臣は左右両大臣が不在の際に代行して上卿として政務や儀式を主宰するものであり、あるいは左右両大臣と分担して職務を行う場合があった[5]太政官の実質的な首班であった一上に任ぜられたのは承保4年(1077年)の藤原信長のみであった[6]。相当位階は平安時代には三位で任じられた例も見られるが、中世以後は二位相当に固定された[7]。内大臣の封禄は左右大臣と大納言の中間的な待遇を受けている。『拾芥抄』によれば内大臣は年給が諸国目1人1分2人封戸800戸職田なしとされている[8]また、平安時代の左右大臣にはよく見られた牛車宣旨を内大臣(摂政関白を兼ねる例は除く)が受けた例は見られないなど左右大臣との待遇差が存在していた。

安土桃山時代豊臣政権下、五大老筆頭で最大の大名であった徳川家康も叙任された。以後も徳川家光等の歴代将軍が任命されている。江戸時代に入ると禁中並公家諸法度によって内大臣は三公には含まれないものとされ、宮中座次も三公、宮家親王、三公経験者の下に置かれた。更に摂家の昇進が優先された結果、摂家が大臣職を独占する時期が長期化したため、清華家といえども任官されることが困難となり、摂家の内大臣の交替の合間に数日から数ヶ月間、非摂家の長老もしくは功労者・外戚などなどの特殊な立場にあった者が交替で任官される場合もあるなど、その政治的権威は降下していった[9]明治維新に際して廃止されたが、1885年に内大臣府が創設された。

内大臣の一覧

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  • 原則『公卿補任』に基づき、適宜別史料によって補訂した。南朝での補任者は史料に在職徴証がある人物のみ掲出した。
  • 藤原房前藤原仲麻呂道鏡は内大臣には就任していないが、内廷に近侍する同様の重職に就任した者として掲出した。
就任 辞任
印は死没と同日)
在職時の天皇 号・典拠
内臣に大臣格が付与された官職としての内大臣
藤原鎌足 皇極天皇4年6月14日[10]
645年7月12日
天智天皇8年10月16日
669年11月14日
孝徳斉明天智 初め内臣
藤原内大臣
藤原房前 養老5年10月24日
721年11月18日
天平9年4月17日
737年5月25日
元正聖武 内臣
藤原仲麻呂 天平勝宝9歳5月20日
757年6月11日
天平宝字2年8月25日
758年10月1日
孝謙淳仁 紫微内相
道鏡 天平宝字8年9月20日
764年10月19日
天平神護元年10月1日
765年10月19日
淳仁、称徳 大臣禅師
藤原良継 宝亀2年3月13日[11]
771年4月2日
宝亀8年9月18日
777年10月23日
光仁 初め内臣
弘福院
藤原魚名 宝亀9年3月3日[12]
778年4月4日
天応元年6月27日
781年7月22日
光仁、桓武 初め内臣忠臣
令制の左大臣右大臣に次ぐ官職としての内大臣
藤原高藤 昌泰3年1月28日
900年3月2日
昌泰3年3月12日
(900年4月13日
醍醐 小一条、勧修寺
藤原兼通 天禄3年11月27日
973年1月4日
天延2年2月28日
974年3月24日
円融 堀川
藤原道隆 永延3年2月23日
989年4月1日
正暦2年7月23日
991年9月4日
一条 南院、二条
藤原道兼 正暦2年9月7日
(991年10月17日
正暦5年8月28日
994年10月5日
粟田、二条
藤原伊周 正暦5年8月28日
(994年10月5日)
長徳2年4月24日
996年5月14日
帥内大臣
藤原公季 長徳3年7月5日
997年8月10日
長和6年3月4日
1017年4月3日
一条、三条後一条 閑院
藤原頼通 長和6年3月4日
(1017年4月3日)
治安元年7月25日
1021年9月4日
後一条 宇治
藤原教通 治安元年7月25日
(1021年9月4日)
永承2年8月1日
1047年8月24日
後一条、後朱雀後冷泉 大二条
藤原頼宗 永承2年8月1日
(1047年8月24日)
康平3年7月17日
1060年8月15日
後冷泉 堀河
藤原師実 康平3年7月17日
(1060年8月15日)
康平8年6月3日
1065年7月8日
京極、後宇治
源師房 康平8年6月3日
(1065年7月8日)
延久元年8月22日
1069年9月10日
後冷泉、後三条 土御門
藤原信長 延久元年8月22日
(1069年9月10日)
承暦4年8月14日
1080年8月31日
後三条、白河 九条
藤原能長 承暦4年8月14日
(1080年8月31日)
永保2年11月14日
1082年12月6日
白河 三条
藤原師通 永保3年1月26日
1083年2月15日
承徳3年6月28日
1099年7月18日
白河、堀河 後二条
源雅実 康和2年7月17日
1100年8月24日
永久3年4月28日
1115年5月23日
堀河、鳥羽 久我
藤原忠通 永久3年4月28日
(1115年5月23日)
保安3年12月17日
1123年1月16日
鳥羽 法性寺
源有仁 保安3年12月17日
(1123年1月16日)
天承元年12月22日
1132年1月12日
鳥羽、崇徳 花園
藤原宗忠 天承元年12月22日
(1132年1月12日)
保延2年12月9日
1137年1月2日
崇徳 中御門
藤原頼長 保延2年12月9日
(1137年1月2日)
久安5年7月28日
1149年9月1日
崇徳、近衛 宇治
源雅定 久安5年7月28日
(1149年9月1日)
久安6年8月21日
1150年9月13日
近衛 中院
徳大寺実能 久安6年8月21日
(1150年9月13日)
保元元年9月13日
1156年9月29日
近衛、後白河 徳大寺
藤原伊通 保元元年9月13日
(1156年9月29日)
保元2年8月19日
1157年9月24日
後白河 九条、大宮
三条公教 保元2年8月19日
(1157年9月24日)
永暦元年7月9日
1160年8月12日
後白河、二条 高倉
松殿基房 永暦元年8月11日
(1160年9月12日
応保元年9月13日
1161年10月3日
二条 中山、菩提院
藤原宗能 応保元年9月13日
(1161年10月3日)
長寛2年閏10月13日
1164年11月28日
中御門
九条兼実 長寛2年閏10月23日
(1164年12月8日
仁安元年11月11日
1166年12月5日
二条、六条 後法性寺、月輪
平清盛 仁安元年11月11日
(1166年12月5日)
仁安2年2月11日
1167年3月4日
六条 六波羅、平相国
花山院忠雅 仁安2年2月11日
(1167年3月4日)
仁安3年8月10日
1168年9月13日
六条、高倉 花山院
源雅通 仁安3年8月10日
(1168年9月13日)
承安5年2月27日
1175年3月21日
高倉 久我
藤原師長 安元元年11月28日
1176年1月11日
安元3年3月5日
1177年4月5日
妙音院
平重盛 安元3年3月5日
(1177年4月5日)
治承3年3月11日
1179年4月19日
小松
近衛基通 治承3年11月15日
(1179年12月15日
寿永元年6月27日
1182年7月29日
高倉、安徳 普賢寺
平宗盛 寿永元年10月3日
(1182年10月31日
寿永2年2月27日
1183年3月22日
安徳 屋島
徳大寺実定 寿永2年4月5日
(1183年4月28日
寿永2年11月21日
1184年1月5日
安徳、後鳥羽 後徳大寺
松殿師家 寿永2年11月21日
(1184年1月5日)
寿永3年1月22日
(1184年3月6日
後鳥羽 松殿、天王寺
徳大寺実定
(還任)
寿永3年1月22日
(1184年3月6日)
文治2年10月29日
1186年12月11日
後徳大寺
九条良通 文治2年10月29日
(1186年12月11日)
文治4年2月20日
1188年3月19日
冷泉
花山院兼雅 文治5年7月10日
1189年8月23日
建久元年7月17日
1190年8月19日
後花山院
藤原兼房 建久元年7月17日
(1190年8月19日)
建久2年3月28日
1191年4月23日
禅林寺、高野
中山忠親 建久2年3月28日
(1191年4月23日)
建久5年7月26日
1194年8月14日
中山
九条良経 建久6年11月10日
1195年12月13日
正治元年6月22日
1199年7月16日
後鳥羽、土御門 後京極、中御門
源通親 正治元年6月22日
(1199年7月16日)
建仁2年10月21日
1202年11月7日
土御門 土御門
藤原隆忠 建仁2年閏10月20日
(1202年12月6日
元久元年12月14日
1205年1月5日
大覚寺
西園寺実宗 元久2年11月24日
1206年1月4日
元久3年3月13日
(1206年4月22日
大宮
花山院忠経 元久3年3月28日
(1206年5月7日
建永2年2月10日
1207年3月10日
花山院
近衛道経 建永2年2月10日
(1207年3月10日)
承元2年7月9日
1208年8月21日
智足院
九条良輔 承元2年7月9日
(1208年8月21日)
承元3年4月10日
1209年5月15日
八条
徳大寺公継 承元3年4月10日
(1209年5月15日)
建暦元年10月4日
1211年11月10日
土御門、順徳 野宮
坊門信清 建暦元年10月4日
(1211年11月10日)
建暦2年6月20日
1212年7月19日
順徳 太秦
九条道家 建暦2年6月29日
(1212年7月28日
建保3年12月10日
1215年12月31日
光明峯寺
三条公房 建保3年12月10日
(1215年12月31日)
建保6年10月9日
1218年10月29日
浄土寺
源実朝 建保6年10月9日
(1218年10月29日)
建保6年12月2日
(1218年12月21日
鎌倉
鎌倉幕府3代将軍
近衛家通 建保6年12月2日
(1218年12月21日)
建保7年3月4日
1219年4月19日
猪隈
久我通光 建保7年3月4日
(1219年4月19日)
承久3年7月3日
1221年7月23日
順徳、仲恭 後久我
西園寺公経 承久3年閏10月10日
(1221年11月25日
貞応元年8月13日
1222年9月19日
後堀河 一条、西園寺
大炊御門師経 貞応元年8月13日
(1222年9月19日)
元仁元年12月25日
1225年2月4日
大炊御門
九条良平 元仁元年12月25日
(1225年2月4日)
嘉禄3年4月9日
1227年5月25日
醍醐
近衛兼経 嘉禄3年4月9日
(1227年5月25日)
寛喜3年4月26日
1231年5月29日
岡屋
西園寺実氏 寛喜3年4月26日
(1231年5月29日)
嘉禎元年10月2日
1235年11月13日
後堀河、四条 常盤井
二条良実 嘉禎元年10月2日
(1235年11月13日)
嘉禎2年6月9日
1236年7月13日
四条 普光園院
土御門定通 嘉禎2年6月9日
(1236年7月13日)
嘉禎3年12月18日
1238年1月5日
後土御門
九条基家 嘉禎3年12月25日
(1238年1月12日
嘉禎4年6月7日
(1238年7月19日
後九条、鶴殿
大炊御門家嗣 嘉禎4年7月20日
(1238年8月31日
仁治元年10月9日
1240年10月25日
嵯峨
衣笠家良 仁治元年10月20日
(1240年11月5日
仁治2年4月5日
1241年5月17日
衣笠
鷹司兼平 仁治2年4月17日
(1241年5月29日
寛元2年6月13日
1244年7月19日
四条、後嵯峨 称念院
九条忠家 寛元2年6月13日
(1244年7月19日)
寛元4年12月24日
1247年2月1日
後嵯峨、後深草 一音院
徳大寺実基 寛元4年12月24日
(1247年2月1日)
建長2年4月29日
1250年5月31日
後深草 後徳大寺、水本
堀川具実 建長2年5月17日
(1250年6月18日
建長2年11月28日
(1250年12月22日
岩倉、久我
二条道良 建長2年12月15日
1251年1月8日
建長4年7月20日
1252年8月26日
九条
花山院定雅 建長4年7月20日
(1252年8月26日)
建長4年11月3日
(1252年12月5日
粟田口
西園寺公相 建長4年11月13日
(1252年12月15日
建長6年12月25日
1255年2月3日
冷泉
西園寺公基 建長6年12月25日
(1255年2月3日)
正嘉元年11月26日
1258年1月2日
万里小路、京極
山階実雄 正嘉元年11月26日
(1258年1月2日)
正嘉2年11月1日
(1258年11月27日
山階
近衛基平 正嘉2年11月1日
(1258年11月27日)
弘長元年3月27日
1261年4月28日
後深草、亀山 深心院、西谷
三条公親 弘長元年3月27日
(1261年4月28日)
弘長2年1月20日
1262年2月10日
亀山 後三条、白川
鷹司基忠 弘長2年1月26日
(1262年2月16日
文永2年10月5日
1265年11月14日
円光院
大炊御門冬忠 文永2年10月5日
(1265年11月14日)
文永4年1月19日
1267年2月14日
香隆寺
一条家経 文永4年2月23日
(1267年3月20日
文永5年12月2日
1269年1月5日
後光明峰寺
花山院通雅 文永5年12月2日
(1269年1月5日)
文永6年4月23日
(1269年5月25日
後花山院
中院通成 文永6年4月23日
(1269年5月25日)
文永6年11月9日
(1269年12月3日
三条、中院
二条師忠 文永6年11月28日
(1269年12月22日
文永8年3月27日
1271年5月7日
香園院
花山院師継 文永8年3月27日
(1271年5月7日)
建治元年12月8日
1275年12月26日
亀山、後宇多 花山院
近衛家基 建治元年12月22日
1276年1月9日
正応元年7月11日
1288年8月9日
後宇多、伏見 高山寺、浄妙寺
久我通基 正応元年7月11日
(1288年8月9日)
正応元年10月27日
(1288年11月22日
伏見 後久我
鷹司兼忠 正応元年10月27日
(1288年11月22日)
正応2年10月18日
1289年11月2日
猪隈、歓喜園院
西園寺実兼 正応2年10月18日
(1289年11月2日)
正応3年4月25日
1290年6月4日
後西園寺
大炊御門信嗣 正応3年6月8日
(1290年7月15日
正応3年12月20日
1291年1月21日
嵯峨
洞院公守 正応3年12月25日
(1291年1月26日
正応4年7月2日
(1291年7月28日
山本、正親町
二条兼基 正応4年7月29日
(1291年8月24日
正応4年12月25日
1292年1月16日
光明照院
徳大寺公孝 正応4年12月25日
(1292年1月16日)
正応5年8月8日
(1292年9月20日
後徳大寺
三条実重 正応5年11月5日
(1292年12月14日
正応6年1月21日
1293年2月28日
三条
九条師教 正応6年1月28日
(1293年3月7日
永仁4年12月27日
1297年1月21日
浄土寺、己心院
土御門定実 永仁4年12月27日
(1297年1月21日)
永仁5年10月16日
(1297年11月2日
土御門
久我通雄 永仁5年10月16日
(1297年11月2日)
永仁6年6月12日
1298年7月21日
中院
西園寺公衡 永仁6年6月23日
(1298年8月1日
正安元年4月26日
1299年5月26日
伏見、後伏見 竹林院
鷹司冬平 正安元年4月26日
(1299年5月26日)
乾元元年11月22日
1302年12月11日
後伏見、後二条 後照念院
一条内実 乾元元年11月22日
(1302年12月11日)
嘉元2年12月17日
1305年1月13日
後二条 棲心院
近衛家平 嘉元3年1月29日
(1305年2月23日
嘉元3年閏12月21日
1306年2月5日
岡本
一条実家 嘉元3年閏12月21日
(1306年2月5日)
嘉元4年12月6日
1307年1月10日
一条
二条道平 嘉元4年12月6日
(1307年1月10日)
延慶2年10月15日
1309年11月17日
後二条、花園 後光明照院
近衛経平 延慶2年10月15日
(1309年11月17日)
正和2年12月26日
1314年1月12日
花園 後浄妙寺
堀川具守 正和2年12月26日
(1314年1月12日)
正和3年12月2日
1315年1月8日
堀川、後岩倉
洞院実泰 正和4年3月13日
(1315年4月17日
正和5年10月22日
1316年11月7日
後山本
西園寺公顕 正和5年10月22日
(1316年11月7日)
文保元年6月21日
1317年7月30日
今出河
三条公茂 文保元年6月21日
(1317年7月30日)
文保2年8月15日
1318年9月10日
花園、後醍醐 押小路
一条内経 文保2年8月24日
(1318年9月19日
元応元年6月27日
1319年7月15日
後醍醐 芬陀利華院
六条有房 元応元年6月28日
(1319年7月16日
元応元年7月1日
(1319年7月18日
六条
中院通重 元応元年閏7月28日
(1319年9月12日
元応元年10月18日
(1319年11月30日
後三条、後中院
花山院師信 元応元年10月18日
(1319年11月30日)
元亨元年11月1日
1321年11月20日
後花山院
大炊御門冬氏 元亨2年6月29日
1322年8月12日
元亨2年8月8日
(1322年9月19日
光福寺
鷹司冬教 元亨2年8月11日
(1322年9月22日
元亨4年4月27日
1324年5月20日
後円光院
西園寺実衡 元亨4年4月27日
(1324年5月20日)
嘉暦元年10月23日
1326年11月18日
今出川
近衛基嗣 嘉暦元年11月1日
(1326年11月26日
元徳2年2月26日
1330年3月16日
後岡屋
久我長通 元徳2年2月26日
(1330年3月16日)
元徳2年3月5日
(1330年3月24日
後中院
洞院公賢 元徳2年3月5日
(1330年3月24日)
元徳3年2月1日
1331年3月10日
中園
大宮季衡 元徳3年2月1日
(1331年3月10日)
正慶元年10月14日
1332年11月2日
後醍醐、光厳 大宮
中院通顕 正慶元年10月14日
(1332年11月2日)
正慶2年5月8日
1333年6月20日
光厳 如法三宝院
洞院公賢
(還任)
元弘3年6月12日
(1333年7月24日
建武元年9月9日
1334年10月7日
後醍醐 中園
吉田定房 建武元年9月9日
(1334年10月7日)
建武2年2月16日
1335年3月11日
吉田
一条経通 建武2年2月16日
(1335年3月11日)
建武4年7月12日
1337年8月8日
後醍醐、光明 後芬陀利華院
鷹司師平 建武4年7月12日
(1337年8月8日)
暦応2年12月27日
1340年1月26日
光明 昭光院
堀川具親 暦応2年12月27日
(1340年1月26日)
暦応3年7月8日
(1340年8月1日
堀川
二条良基 暦応3年7月19日
(1340年8月12日
康永2年4月10日
1343年5月4日
後普光園院
三条実忠 康永2年4月10日
(1343年5月4日)
康永4年9月8日
1345年10月4日
後三条
大炊御門冬信 康永4年9月8日
(1345年10月4日)
貞和2年2月18日
1346年3月11日
随心自由院
徳大寺公清 貞和2年2月18日
(1346年3月11日)
貞和3年8月16日
1347年9月21日
後野宮
近衛道嗣 貞和3年9月16日
(1347年10月20日
貞和5年9月13日
1349年10月25日
光明、崇光 後深心院
西園寺公重 貞和5年9月13日
(1349年10月25日)
観応2年4月10日
1351年5月6日
崇光 竹林院
花山院長定 観応2年6月26日
(1351年7月19日
観応2年9月19日
(1351年10月9日
護法院
正親町三条公秀 文和元年11月27日
1353年1月3日
文和2年7月2日
(1353年8月1日
後光厳 正親町、八条
久我通相 延文元年7月21日
1356年8月17日
延文5年9月30日
1360年11月9日
後光厳 千種
三条公忠 延文5年9月30日
(1360年11月9日)
貞治元年12月20日
1363年1月5日
後押小路
洞院実夏 貞治2年3月29日
(1363年5月13日
貞治3年2月19日
1364年3月23日
後山階
西園寺実俊 貞治3年3月14日
(1364年4月16日
貞治5年8月29日
1366年10月4日
後常盤井
二条師良 貞治5年8月29日
(1366年10月4日)
貞治6年9月29日
1367年10月23日
是心院
正親町三条実継 貞治6年9月29日
(1367年10月23日)
応安3年3月16日
1370年4月12日
後八条
勧修寺経顕 応安3年3月16日
(1370年4月12日)
応安4年7月12日
1371年8月22日
後光厳、後円融 芝山、後勧修寺
近衛兼嗣 永和元年11月18日
1375年12月11日
永和4年8月27日
1378年9月19日
後円融 後六条
今出川公直 永和4年8月27日
(1378年9月19日)
永徳元年7月
1381年-月)
今出川
足利義満 永徳元年7月23日
(1381年8月13日
永徳2年1月26日
1382年2月9日
鹿苑院
室町幕府3代将軍
徳大寺実時 永徳2年1月26日
(1382年2月9日)
嘉慶2年5月26日
1388年6月30日
後円融、後小松 野宮
一条経嗣 嘉慶2年5月26日
(1388年6月30日)
明徳5年6月5日
1394年7月3日
後小松 成恩寺
四辻善成 明徳5年6月5日
(1394年7月3日)
応永元年12月25日
1395年1月16日
四辻、松岩寺
花山院通定 応永元年12月25日
(1395年1月16日)
応永2年3月24日
(1395年4月14日
如住院
洞院公定 応永2年3月24日
(1395年4月14日)
応永2年9月12日
(1395年10月25日
後中園
正親町三条公豊 応永2年9月12日
(1395年10月25日)
応永2年11月28日
1396年1月9日
称名院
三条実冬 応永2年12月27日
(1396年2月6日
応永3年7月24日
(1396年8月27日
後三条
万里小路嗣房 応永3年7月24日
(1396年8月27日)
応永3年10月5日
(1396年11月6日
冷誉院
九条教嗣 応永3年10月21日
(1396年11月22日
応永6年2月22日
1399年3月29日
中山
近衛良嗣 応永6年2月22日
(1399年3月29日)
応永9年8月22日
1402年9月19日
後普賢寺
今出川公行 応永9年8月22日
(1402年9月19日)
応永10年8月19日
1403年9月5日
後今出川
二条満基 応永10年8月19日
(1403年9月5日)
応永16年3月21日
1409年4月6日
福照院
足利義持 応永16年7月23日
(1409年9月2日
応永26年8月29日
1419年9月18日
後小松、称光 勝定院
室町幕府4代将軍
西園寺実永 応永26年12月5日
(1419年12月21日
応永27年閏1月13日
1420年2月26日
称光 慶寿院
三条公冬 応永27年閏1月13日
(1420年2月26日)
応永27年12月5日
1421年1月8日
後白川
大炊御門宗氏 応永27年12月5日
(1421年1月8日)
応永28年4月6日
(1421年5月7日
瑞慶院
一条兼良 応永28年7月5日
(1421年8月3日
応永31年4月20日
1424年5月18日
後成恩寺
洞院満季 応永31年4月20日
(1424年5月18日)
応永33年7月24日
1426年8月27日
西山
近衛房嗣 応永33年7月24日
(1426年8月27日)
正長2年8月4日
1429年9月2日
称光、後花園 後知足院
久我清通 正長2年8月4日
(1429年9月2日)
永享4年7月25日
1432年8月21日
後花園 後久世
足利義教 永享4年7月25日
(1432年8月21日)
永享4年8月28日
(1432年9月22日
普広院
室町幕府6代将軍
大炊御門信宗 永享4年8月28日
(1432年9月22日)
永享5年10月4日
1433年11月15日
後瑞慶院
鷹司房平 永享7年4月22日
1435年5月20日
永享10年9月4日
1438年9月23日
後昭光院
西園寺公名 永享10年9月4日
(1438年9月23日)
嘉吉元年11月
1441年12月
観音寺
花山院持忠 嘉吉元年12月7日
1442年1月18日
嘉吉3年6月
1443年-月)
鳳栖院
万里小路時房 文安2年12月29日
1446年1月26日
文安3年1月16日
(1446年2月11日
建聖院
洞院実熙 文安3年1月29日
(1446年2月24日
宝徳2年5月7日
1450年6月16日
東山
三条西公保 宝徳2年5月14日
(1450年6月23日
宝徳2年6月22日
(1450年7月30日
後称名院
三条実量 宝徳2年6月27日
(1450年8月4日
享徳元年10月3日
1452年11月14日
後三条
一条教房 享徳元年10月10日
(1452年11月21日
康正元年8月27日
1455年10月8日
妙華寺
近衛教基 康正元年8月27日
(1455年10月8日)
康正3年9月8日
1457年9月26日
後九条
正親町三条実雅 康正3年9月8日
(1457年9月26日)
長禄2年3月5日
1458年4月18日
青蓮華院
足利義政 長禄2年7月25日
(1458年9月2日
長禄4年8月27日
1460年9月12日
慈照院
室町幕府8代将軍
徳大寺公有 長禄4年8月27日
(1460年9月12日)
寛正2年7月23日
1461年8月28日
後野宮
久我通尚 寛正2年8月11日
(1461年9月15日
寛正5年1月
1464年-月)
東久世
九条政忠 寛正5年7月5日
(1464年8月7日
寛正6年9月
1465年-月)
後花園、後土御門 普門寺
今出川教季 寛正6年9月26日
(1465年10月16日
寛正7年2月8日
1466年2月22日
後土御門 法雲院
西園寺実遠 文正元年閏2月5日
(1466年3月21日
文正2年1月
1467年-月)
後竹林院
日野勝光 文正2年2月6日
(1467年3月11日
応仁2年12月12日
1469年1月24日
唯称院
鷹司政平 応仁2年12月29日
(1469年2月10日
文明7年3月10日
1475年4月15日
専称院
近衛政家 文明7年3月10日
(1475年4月15日)
文明8年8月28日
1476年9月16日
後法興院
三条公敦 文明8年8月28日
(1476年9月16日)
文明11年4月19日
1479年5月10日
龍翔院
大炊御門信量 文明11年4月19日
(1479年5月10日)
文明13年5月23日
1481年6月20日
深草
徳大寺実淳 文明13年6月8日
(1481年7月4日
文明17年3月24日
1485年4月9日
禅光院
中院通秀 文明17年3月25日
(1485年4月10日
文明17年3月27日
(1485年4月12日
十輪院
花山院政長 文明17年閏3月10日
(1485年4月24日
文明18年12月19日
1487年1月13日
後鳳栖院
一条冬良 文明18年12月19日
(1487年1月13日)
長享2年9月17日
1488年10月21日
後妙華寺
足利義煕 長享2年9月17日
(1488年10月21日)
長享3年3月26日
1489年4月26日
常徳院
室町幕府9代将軍
今出川公興 長享3年7月8日
(1489年8月4日
延徳3年3月15日
1491年4月23日
後法雲院
二条尚基 延徳3年4月5日
(1491年5月13日
明応6年5月10日
1497年6月10日
後如法寿院
久我豊通 明応6年6月18日
(1497年7月17日
明応8年5月28日
1499年7月6日
志禅院
九条尚経 明応8年8月13日
(1499年9月18日
明応10年2月19日
1501年3月8日
後土御門、後柏原 後慈眼院
西園寺公藤 文亀元年3月18日
(1501年4月5日
永正3年2月5日
1506年2月27日
後柏原 得生院
三条西実隆 永正3年2月5日
(1506年2月27日)
永正3年4月5日
(1506年4月27日
逍遥院
鷹司兼輔 永正3年4月16日
(1506年5月8日
永正4年4月6日
1507年5月17日
法音院
三条実香 永正4年4月9日
(1507年5月20日
永正12年4月16日
1515年5月29日
後浄土寺
正親町三条実望 永正12年4月16日
(1515年5月29日)
永正12年12月6日
1516年1月9日
慈光院
二条尹房 永正12年12月9日
(1516年1月12日
永正15年5月28日
1518年7月5日
後大染金剛院
大炊御門経名 永正15年5月28日
(1518年7月5日)
永正18年7月1日
1521年8月3日
自性院
徳大寺公胤 永正18年7月1日
(1521年8月3日)
大永3年3月9日
1523年3月25日
後野宮
久我通言 大永3年3月9日
(1523年3月25日)
享禄元年8月20日
1528年9月3日
後柏原、後奈良 陽春院
九条稙通 享禄元年8月20日
(1528年9月3日)
天文3年11月21日
1534年12月26日
後奈良 東光院
西園寺実宣 天文4年12月4日
1535年12月28日
天文6年12月21日
1538年1月21日
後観音寺
一条房通 天文8年8月10日
1539年9月22日
天文10年1月12日
1541年2月7日
唯心院
三条西公条 天文10年1月12日
(1541年2月7日)
天文10年3月17日
(1541年4月13日
称名院
三条公頼 天文10年3月28日
(1541年4月24日
天文12年7月28日
1543年8月28日
後龍翔院
今出川公彦 天文12年7月28日
(1543年8月28日)
天文14年6月2日
1545年7月10日
上善院
二条晴良 天文14年6月2日
(1545年7月10日)
天文15年3月13日
1546年4月13日
浄明珠院
万里小路秀房 天文15年3月13日
(1546年4月13日)
天文15年7月27日
(1546年8月23日
能証院
一条兼冬 天文15年7月27日
(1546年8月23日)
天文16年2月17日
1547年3月8日
後円明寺
近衛晴嗣 天文16年2月17日
(1547年3月8日)
天文22年1月26日
1553年2月8日
東求院
西園寺公朝 天文22年1月26日
(1553年2月8日)
天文23年4月11日
1554年5月12日
慈光院
正親町三条公兄 天文23年4月11日
(1554年5月12日)
天文23年4月27日
(1554年5月28日
廓然院
花山院家輔 弘治3年3月23日
1557年4月22日
弘治3年9月2日
(1557年9月24日
法雲院
広橋兼秀 弘治3年9月2日
(1557年9月24日)
弘治3年9月5日
(1557年9月27日
如雲院
中院通為[13] 永禄8年9月3日
1565年9月26日
正親町 慈西院
勧修寺尹豊 元亀3年閏1月6日
1572年2月19日
元亀3年閏1月13日
(1572年2月26日
長寿院
万里小路惟房 元亀4年6月9日
1573年7月7日
崇恩院
一条内基 天正3年11月14日
1575年12月16日
天正4年11月21日
1576年12月11日
自浄心院
織田信長 天正4年11月21日
(1576年12月11日)
天正5年11月20日
1577年12月29日
総見院
二条昭実 天正5年11月20日
(1577年12月29日)
天正7年1月20日
1579年2月15日
後中院
三条西実枝 天正7年1月20日
(1579年2月15日)
天正7年1月22日
(1579年2月17日
三光院
今出川晴季 天正7年1月27日
(1579年2月22日
天正8年2月21日
1580年3月6日
景光院
徳大寺公維 天正8年2月21日
(1580年3月6日)
天正8年7月8日
(1580年8月18日
雲厳院
今出川晴季
(還任)
天正8年7月8日
(1580年8月18日)
天正8年11月3日
(1580年12月9日
景光院
近衛信輔 天正8年11月3日
(1580年12月9日)
天正13年3月10日
1585年4月9日
三藐院
豊臣秀吉 天正13年3月10日
(1585年4月9日)
天正14年12月19日
1587年1月27日
正親町、後陽成 国泰祐松院
織田信雄 天正15年11月19日
(1587年12月18日
天正18年8月
1590年-月)
後陽成 徳源院
三条西公国   天正15年12月9日[14]
1588年1月7日
円智院
豊臣秀次 天正19年12月4日
1592年1月18日
天正20年1月29日
(1592年3月12日
瑞泉寺
徳川家康 文禄5年5月8日
1596年6月3日
慶長8年2月12日
1603年3月24日
安国院
江戸幕府初代将軍
豊臣秀頼 慶長8年4月22日
(1603年6月1日
慶長10年4月12日
1605年5月29日
嵩陽寺
徳川秀忠 慶長10年4月16日
(1605年6月2日
慶長11年9月[15]
1606年10月
台徳院
江戸幕府2代将軍
鷹司信房 慶長11年9月22日
(1606年10月23日
慶長11年11月10日
(1606年12月9日
後法音院
鷹司信尚 慶長16年3月12日
1611年4月24日
慶長17年3月18日
1612年4月18日
後陽成、後水尾 景皓院
近衛信尋 慶長17年4月26日
(1612年5月26日
慶長19年1月14日
1614年2月22日
後水尾 本源自性院
西園寺実益 慶長19年1月14日
(1614年2月22日)
元和4年11月14日
1618年12月30日
一真院
広橋兼勝 元和4年11月14日
(1618年12月30日)
元和5年2月17日
1619年4月1日
後是称院
花山院定熙 元和5年2月17日
(1619年4月1日)
元和5年12月28日
1620年2月1日
霜松院
一条兼遐 元和5年12月28日
(1620年2月1日)
元和7年1月12日
1621年3月5日
智徳院
二条康道 元和7年1月12日
(1621年3月5日)
寛永6年9月13日
1629年10月29日
後浄明珠院
三条西実条 寛永6年11月6日
(1629年12月20日
寛永8年12月6日
(1632年1月27日
後水尾、明正 香雲院
西園寺公益 寛永8年12月15日
(1632年2月5日
寛永9年1月6日
(1632年2月25日
明正 真空院
鷹司教平 寛永9年1月9日
(1632年2月28日
寛永9年12月28日
1633年2月6日
一致院
九条道房 寛永9年12月28日
(1633年2月6日)
寛永17年11月3日
1640年12月15日
後浄土寺
近衛尚嗣 寛永17年11月3日
(1640年12月15日)
寛永18年12月2日
1642年1月2日
妙有真空院
二条光平 寛永18年12月2日
(1642年1月2日)
正保4年7月3日
1647年8月3日
明正、後光明 後是心院
中院通村 正保4年7月28日
(1647年8月28日
正保4年11月18日
(1647年12月14日
後光明 後十輪院
三条実秀 正保5年閏1月20日
1648年3月14日
慶安元年12月13日
1649年1月25日
己心院
花山院定好 慶安2年2月25日
(1649年4月6日
慶安2年9月30日
(1649年11月4日
淳貞院
西園寺実晴 慶安2年12月2日
1650年1月4日
慶安3年閏10月23日
(1650年12月16日
大忠院
一条教輔 慶安3年12月21日
1651年2月11日
承応4年1月25日
1655年3月3日
後光明、後西 後唯心院
徳大寺公信 承応4年1月25日
(1655年3月3日)
明暦2年5月3日
1656年6月25日
後西 正桂院
大炊御門経孝 明暦2年6月1日
(1656年7月22日
明暦2年12月1日
1657年1月15日
後光福寺
三条公富 明暦2年12月26日
(1657年2月9日
万治元年9月6日
1658年10月2日
唯心院
鷹司房輔 万治元年9月11日
(1658年10月7日
寛文元年5月23日
1661年6月19日
後景皓院
清閑寺共房 寛文元年5月23日
(1661年6月19日)
寛文元年7月24日
(1661年8月18日
清徳院
久我広通 寛文元年9月23日
(1661年11月14日
寛文3年2月16日
1663年3月25日
後西、霊元 妙雲院
九条兼晴 寛文4年5月2日
1664年5月27日
寛文5年3月6日
1665年4月21日
霊元 後往生院
近衛基熙 寛文5年6月1日
(1665年7月13日
寛文11年5月25日
1671年7月1日
応円満院
徳大寺実維 寛文11年8月5日
(1671年9月7日
寛文12年1月30日
1672年2月28日
温潤院
一条内房 寛文12年閏6月29日
(1672年8月21日
延宝5年12月24日
1678年1月17日
円成寺
大炊御門経光 延宝5年12月26日
(1678年1月19日
延宝9年7月10日
1681年8月23日
後香隆寺
鷹司兼熙 延宝9年7月10日
(1681年8月23日)
天和3年1月13日
1683年2月9日
心空華院
今出川公規 天和3年1月13日
(1683年2月9日)
貞享元年11月19日
1684年12月25日
一林院
花山院定誠 貞享元年12月12日
1685年1月16日
貞享3年3月24日
1686年4月16日
文恭院
近衛家熙 貞享3年3月26日
(1686年4月18日
貞享5年2月1日
1688年3月2日
霊元、東山 予楽院
松木宗条 貞享5年2月1日
(1688年3月2日)
貞享5年2月16日
(1688年3月17日
東山 浩妙院
近衛家熙
(還任)
貞享5年2月16日
(1688年3月17日)
元禄6年8月7日
1693年9月6日
予楽院
三条実治 元禄6年8月7日
(1693年9月6日)
元禄6年12月16日
1694年1月11日
暁心院
九条輔実 元禄6年12月18日
(1694年1月13日
元禄17年2月5日
1704年3月10日
後洞院
中院通茂 元禄17年2月23日
(1704年3月28日
元禄17年2月26日
(1704年3月31日
渓雲院
二条綱平 元禄17年2月26日
(1704年3月31日)
宝永5年1月21日
1708年2月12日
円覚敬信院
今出川伊季 宝永5年1月21日
(1708年2月12日)
宝永6年2月26日
1709年4月5日
深修院
久我通誠 宝永6年3月18日
(1709年4月27日
宝永8年2月25日
1711年4月12日
東山、中御門 得自性寺
近衛家久 宝永8年2月25日
(1711年4月12日)
正徳5年8月12日
1715年9月9日
中御門 如是観院
二条吉忠 正徳5年8月12日
(1715年9月9日)
享保4年11月30日
1720年1月9日
安祥院
徳大寺公全 享保4年11月30日
(1720年1月9日)
天性院
二条吉忠
(還任)
享保4年12月1日
(1720年1月10日
享保7年5月3日
1722年6月16日
安祥院
一条兼香 享保7年5月3日
(1722年6月16日)
享保8年2月1日
1723年3月7日
後円成寺
櫛笥隆賀 享保8年2月1日
(1723年3月7日)
享保8年2月4日
(1723年3月10日
成足院
広幡豊忠 享保8年2月4日
(1723年3月10日)
享保8年2月8日
(1723年3月14日
自浄光院
一条兼香
(還任)
享保8年2月8日
(1723年3月14日)
享保11年9月15日
1726年10月10日
後円成寺
松木宗顕 享保11年9月15日
(1726年10月10日)
享保11年9月18日
(1726年10月13日
九品院
中院通躬 享保11年9月18日
(1726年10月13日)
享保11年9月21日
(1726年10月16日
歓喜光院
九条幸教 享保11年9月21日
(1726年10月16日)
享保13年5月23日
1728年6月30日
無量信院
西園寺致季 享保13年7月1日
(1728年8月6日
享保13年7月27日
(1728年9月1日
円寿光院
醍醐冬熙 享保13年7月27日
(1728年9月1日)
享保13年10月26日
(1728年11月27日
後信性普明寺
鷹司房熙 享保13年10月26日
(1728年11月27日)
享保15年4月24日
1730年6月9日
清浄林院
久我惟通 享保15年7月22日
(1730年9月4日
享保21年1月23日
1736年3月5日
中御門、桜町 後志禅院
花山院常雅 享保21年1月23日
(1736年3月5日)
元文2年6月29日
1737年7月26日
桜町 順正院
二条宗熙 元文2年6月29日
(1737年7月26日)
元文3年1月24日
1738年3月14日
常観喜院
一条道香 元文3年1月24日
(1738年3月14日)
元文3年8月19日
(1738年10月2日
得成寺
花山院常雅
(還任)
元文3年8月19日
(1738年10月2日)
元文4年2月3日
1739年3月12日
順正院
九条稙基 元文4年2月3日
(1739年3月12日)
寛保3年2月21日
1743年3月16日
後東光院
鷹司基輝 寛保3年5月12日
(1743年7月3日
寛保3年5月13日
(1743年7月4日
住心院
近衛内前 寛保3年6月29日
(1743年8月18日
延享2年閏12月24日
1746年2月14日
大解脱院
二条宗基 延享2年閏12月24日
(1746年2月14日)
延享5年3月7日
1748年4月4日
桜町、桃園 後敬心院
烏丸光栄 延享5年3月7日
(1748年4月4日)
延享5年3月9日
(1748年4月6日
桃園 不昧真院
二条宗基
(還任)
延享5年3月9日
(1748年4月6日)
寛延2年11月15日
1749年12月24日
後敬心院
大炊御門経秀 寛延2年11月15日
(1749年12月24日)
寛延2年12月19日
1750年1月26日
法台寺
三条実顕 寛延2年12月24日
(1750年1月31日
寛延3年8月5日
(1750年9月5日
誠心院
久我通兄 寛延3年8月10日
(1750年9月10日
寛延3年12月20日
1751年1月17日
含華光院
九条尚実 寛延3年12月21日
(1751年1月18日
宝暦5年1月29日
1755年3月11日
遍照金剛寺
醍醐兼潔 宝暦5年1月29日
(1755年3月11日)
宝暦5年11月18日
(1755年12月20日
妙観寺
西園寺公晃 宝暦5年11月19日
(1755年12月21日
宝暦6年5月8日
1756年6月5日
遍照光院
鷹司輔平 宝暦6年5月10日
(1756年6月7日
宝暦9年11月26日
1760年1月13日
後心空院
九条道前 宝暦9年11月26日
(1760年1月13日)
明和7年閏6月5日
1770年7月27日
桃園、後桜町 盛光院
三条季晴 明和7年8月4日
(1770年9月22日
明和8年4月16日
1771年5月29日
後桜町、後桃園 後誠心院
一条輝良 明和8年4月18日
(1771年5月31日
安永4年12月27日
1776年1月18日
後桃園 後得成寺
広幡前豊 安永4年閏12月2日
(1776年1月22日
安永4年閏12月11日
(1776年1月31日
楽円樹院
西園寺賞季 安永4年閏12月11日
(1776年1月31日)
安永4年閏12月24日
(1776年2月13日
後大忠院
一条輝良
(還任)
安永4年閏12月24日
(1776年2月13日)
安永8年3月29日
1779年5月15日
後得成寺
近衛経熙 安永8年3月29日
(1779年5月15日)
天明7年5月26日
1787年7月11日
後桃園、光格 後予楽院
大炊御門家孝 天明7年5月26日
(1787年7月11日)
寛政元年5月22日
1789年6月15日
光格 瑶台寺
鷹司政熙 寛政元年5月22日
(1789年6月15日)
寛政3年11月28日
1791年12月23日
文思恭院
久我信通 寛政3年11月28日
(1791年12月23日)
寛政4年1月6日
1792年1月29日
惟克念院
大炊御門家孝
(還任)
寛政4年1月6日
(1792年1月29日)
寛政4年1月14日
(1792年2月6日
瑶台寺
西園寺賞季
(還任)
寛政4年1月14日
(1792年2月6日)
寛政4年2月6日
(1792年2月27日
後大忠院
一条忠良 寛政4年2月6日
(1792年2月27日)
寛政8年12月22日
1797年1月19日
大勝寺
三条実起 寛政8年12月22日
(1797年1月19日)
寛政9年3月27日
(1797年4月23日
後暁心院
二条斉通 寛政9年3月27日
(1797年4月23日)
寛政10年5月21日
1798年7月4日
恭徳院
徳大寺実祖 寛政10年7月19日
(1798年8月30日
寛政10年12月13日
1799年1月18日
摩尼珠院
今出川実種 寛政10年12月13日
(1799年1月18日)
寛政11年3月16日
(1799年4月20日
後一林院
近衛基前 寛政11年3月16日
(1799年4月20日)
文化11年9月28日
1814年11月9日
証常楽院
花山院愛徳 文化11年9月28日
(1814年11月9日)
文化12年2月26日
1815年4月5日
温恭院
二条斉信 文化12年2月26日
(1815年4月5日)
文政3年10月15日
1820年11月20日
光格、仁孝 成徳院
三条公修 文政3年10月15日
(1820年11月20日)
文政4年4月7日
1821年5月8日
仁孝 後己心院
九条尚忠 文政4年4月7日
(1821年5月8日)
文政7年1月5日
1824年2月4日
後遍照金剛寺
大炊御門経久 文政7年1月5日
(1824年2月4日)
文政7年5月18日
(1824年6月14日
後瑶台寺
久我通明 文政7年5月18日
(1824年6月14日)
文政7年6月4日
(1824年6月30日
後陽春院
広幡経豊 文政7年6月4日
(1824年6月30日)
文政7年6月28日
(1824年7月24日
瑞応華院
近衛忠熙 文政7年6月28日
(1824年7月24日)
弘化4年6月15日
1847年7月26日
仁孝、孝明  
花山院家厚 弘化4年6月15日
(1847年7月26日)
弘化4年12月27日
1848年2月1日
孝明 寛恭院
醍醐輝弘 弘化4年12月27日
(1848年2月1日)
弘化5年2月11日
(1848年3月15日
後妙観寺
徳大寺実堅 弘化5年2月11日
(1848年3月15日)
嘉永元年3月21日
(1848年4月24日
後正桂院
鷹司輔熙 嘉永元年3月21日
(1848年4月24日)
安政4年2月8日
1857年3月3日
 
広幡基豊 安政4年2月8日
(1857年3月3日)
安政4年5月15日
(1857年6月6日
大宝蔵院
三条実万 安政4年5月15日
(1857年6月6日)
安政5年3月21日
1858年5月4日
 
一条忠香 安政5年3月21日
(1858年5月4日)
安政6年3月28日
1859年4月30日
 
二条斉敬 安政6年3月28日
(1859年4月30日)
文久2年1月4日
1862年2月2日
 
久我建通 文久2年1月4日
(1862年2月2日)
文久2年8月25日
(1862年9月18日
 
徳大寺公純 文久2年9月21日
(1862年11月12日
文久3年12月23日
1864年1月31日
 
近衛忠房 文久3年12月23日
(1864年1月31日)
慶応3年9月27日
1867年10月24日
孝明、明治  
大炊御門家信 慶応3年9月27日
(1867年10月24日)
慶応3年11月30日
(1867年12月25日
明治  
広幡忠礼 慶応3年11月30日
(1867年12月25日)
明治2年7月8日
1869年8月15日
 
南朝(吉野朝廷)の内大臣
二条師基 延元3年(1338年)?任 - 後醍醐、後村上 南方紀伝
北畠顕信   後村上 大物忌神社文書』
二条教基   新葉和歌集
洞院実守   吉野拾遺
北畠顕能 正平16年(1361年)?任 - 古和文書
二条教頼 - 正平21年4月1366年6月)見 - 二条家本『玉葉』奥書
花山院家賢 - 正平21年(1366年)辞 『新葉和歌集』
四条隆俊   長慶 『新葉和歌集』
北畠顕統 天授2年(1376年)任 - 『新葉和歌集』
北畠顕成   仁和寺諸院家記
阿野実為   後亀山 観心寺文書
花山院長親 - 元中6年1月1389年-月)見 - 耕雲千首』奥書
花山院師兼   常楽記
武家官位としての内大臣[16]
徳川家光 元和9年7月27日
1623年8月23日
寛永3年8月19日
1626年10月9日
後水尾 江戸幕府3代将軍
徳川家綱 慶安4年7月26日
1651年9月10日
承応2年7月10日
1653年9月1日
後光明 江戸幕府4代将軍
徳川綱吉 延宝8年7月21日
1680年8月15日
宝永2年2月5日
1705年2月28日
霊元、東山 江戸幕府5代将軍
徳川家宣 宝永6年4月2日
1709年5月11日
正徳2年10月14日
1712年11月12日
東山、中御門 江戸幕府6代将軍
徳川家継 正徳3年3月4日
1713年3月29日
正徳6年4月30日
1716年6月19日
中御門 江戸幕府7代将軍
徳川吉宗 享保元年7月18日
(1716年9月3日
寛保元年7月7日
1741年8月17日
中御門、桜町 江戸幕府8代将軍
徳川家重 延享2年10月7日
1745年10月31日
宝暦10年1月11日
1760年2月27日
桜町、桃園 江戸幕府9代将軍
徳川家治 宝暦10年7月2日
(1760年8月12日
安永9年8月2日
1780年8月31日
桃園、後桜町、後桃園、光格 江戸幕府10代将軍
徳川家斉 天明7年3月6日
1787年4月23日
文化13年3月11日
1816年4月8日
光格 江戸幕府11代将軍
徳川家慶 文政5年2月6日
1822年3月28日
天保8年8月5日
1837年9月4日
仁孝 江戸幕府12代将軍
徳川家定 嘉永6年10月23日
1853年11月23日
安政5年7月6日
1858年8月14日
孝明 江戸幕府13代将軍
徳川家茂 安政5年10月25日
(1858年11月30日
文久4年1月21日
1864年2月28日
江戸幕府14代将軍
徳川慶喜 慶応3年9月21日
1867年10月18日
慶応3年12月30日
1868年1月24日
明治 江戸幕府15代将軍

贈内大臣の一覧

編集

没後に内大臣を追贈された人物の一覧。

追贈 生前の官位 典拠
正親町三条公雅 永享5年8月6日1433年9月19日 権大納言正二位 看聞日記
日野家秀 康正2年5月30日1456年7月2日 権大納言・従三位 師郷記
烏丸豊光 寛正2年2月18日1461年3月29日 権中納言・正二位 尊卑分脈
広橋兼宣 寛正2年8月19日(1461年9月23日 准大臣従一位 管見記
日野重政 文明2年12月(1471年1月) 右少弁正五位上 親長卿記
広橋綱光 文明9年2月14日1477年3月28日 准大臣・従一位 公卿補任
庭田長賢 明応4年(1495年)以前 権大納言・従二位 『庭田家譜』
広橋守光 天文7年4月1日1538年4月29日[17] 准大臣・従一位 『公卿補任』
中院通為[13] 永禄10年9月(1567年10月) 権大納言・正二位 広橋家本『公卿補任』
勧修寺晴右 天正14年12月(1587年1月) 権大納言・従一位 諸家伝
三条実綱[18] 慶長8年2月7日1603年3月19日 権中納言・正三位 『諸家伝』
勧修寺晴豊 慶長19年12月8日1615年1月7日 准大臣・従一位 『諸家伝』
広橋国光 元和3年11月12日1617年12月9日 権大納言・正二位 『広橋家譜』
勧修寺光豊 元和4年10月27日1618年12月13日 権大納言・従二位 『諸家伝』
徳川家基 安永9年11月10日1780年12月5日 権大納言・従二位 公卿補任
徳川治済 文政11年1月20日1828年3月5日 准大臣・従一位
勧修寺経逸 天保15年2月27日1844年4月14日 権大納言・正二位 実久卿記
存疑
源義朝 左馬頭従四位下 平家物語』巻12[19]

脚注

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  1. ^ 藤原良継・魚名の例は位階序列が上位の先任の大臣(右大臣大中臣清麻呂)と実際の太政官首班との地位のバランスを取るための措置、藤原高藤は危篤となった天皇の外祖父である大納言への礼遇措置、藤原兼通は序列下位の公卿(当時兼通は権中納言)が次期関白に内定したために大臣に就任して関白就任資格を整えるための措置であり、いずれも律令制が想定する規定から外れた大臣任官を実現させるための臨時の措置であり、事態が解消すれば廃止される性質のものであった(実際に、魚名は左大臣、兼通は太政大臣就任に伴い、良継・高藤は病死によって廃止されている)。
  2. ^ 当時の摂政藤原兼家は、自分の没後に自分の子弟が摂政関白を継承できなくなることを憂慮して、万が一に備えて長男道隆を大臣に任じようとしたが、太政大臣藤原頼忠左大臣源雅信右大臣藤原為光がいずれも健在であった。そのため、道隆を内大臣に据えようとしたのである。これに対して円融法皇一条天皇実父)は、律令に定められた大臣定員3名を無視するものとして強く反対したため、兼家が法皇に奏上を行って漸く許可されている(『小右記永祚元年2月5日条)。道隆は関白就任後に内大臣を辞任したが、そのまま弟の道兼、次いで道隆嫡男の伊周が内大臣に任命され、これを先例としてそれ以後も断続的に後任の内大臣が任命された。
  3. ^ この場合の「功績」には天皇外戚や側近の権臣も含まれる。
  4. ^ 内大臣廃止後に左大臣となった島津久光を例外とすれば、武家の大臣任官者は全て最初は内大臣に任じられている(ただし、平重盛宗盛は、高倉天皇中宮平徳子の兄弟であり、外戚としての側面も有する)。
  5. ^ 寛治4年(1090年)の例では、正月の節会内弁のうち、元日節会を左大臣、白馬節会を右大臣、踏歌節会を内大臣が分担した例がある(松本、1994年、P186)。
  6. ^ これは、太政大臣右大臣が空席で、左大臣藤原師実)が関白を兼ねていて一上の資格がなかったことによる。
  7. ^ これは右大臣正二位以上でないと任じられなくなったことに対応していると考えられている(松本、1994年、P184-185)
  8. ^ これに対して左右両大臣は年給は内大臣と同じであるが封戸1500戸職田30町であり、大納言は年給が諸国目1人1分1人年給600戸職田20町とされている。
  9. ^ 李元雨 『幕末の公家社会』 吉川弘文館2005年、P128-131 ISBN 978-4-642-03402-9
  10. ^ 天智天皇8年10月15日669年11月13日)内大臣に就任。
  11. ^ 宝亀8年1月3日777年2月15日)内大臣に就任。
  12. ^ 宝亀10年1月10日779年1月31日)内大臣に就任。
  13. ^ a b 諸家伝』によれば、権大納言中院通為は永禄8年(1565年)8月「所労危急」のため書状で大臣昇任を嘆願し、天皇の勅許を得たが、9月3日加賀在国のまま没したので、後日、朝廷で薨日付の任大臣宣下が行われたという。しかし、このような任官は異例であり、中には贈官として記載する史料もある(広橋家本『公卿補任』)。
  14. ^ 『諸家伝』が天正15年11月9日1587年12月8日)就任、同日死没とするのは誤り。『中院通村日記』寛永3年10月6日条によれば、公国は内大臣任官の際、現職の織田信雄から一時的に「借渡」したといい、恐らく臨終に際してこのような異例の措置が取られたのだろう。差し当たり『兼見卿記』に基づき、死没日を就任日と推定する。
  15. ^ 続本朝通鑑』は慶長11年9月1日1606年10月2日)、『歴朝要紀』は同年9月17日10月18日)とする。
  16. ^ ここでの就任日は、朝廷で任大臣宣下が行われた日を指す。
  17. ^ 公卿補任』『諸家伝』は3月30日とするが、当月は小の月であるため30日が存在しない。差し当たり十三年忌に当たる4月1日を追贈日と推定する。
  18. ^ 大日本史料稿本』は存疑とする。
  19. ^ 文治元年(1185年)8月に義朝の首が源頼朝の許に届けられた際、勅使を墓前に派遣して内大臣正二位を追贈した旨が見える(「紺掻之沙汰」)。これが史実であれば、武家に対する鎮魂の贈位・贈官の早い例として注目されるが、『玉海』『吾妻鏡』などの一次史料で確認されないばかりか、後世の事例にも全く引用が見られない。

参考文献

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関連項目

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