三条実忠
鎌倉時代後期~南北朝時代の公卿。従一位・内大臣。勅撰集『続後拾和歌集』以下に14首入集。三条家9代。
三条 実忠(さんじょう さねただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。太政大臣・三条実重の子。異母兄・公茂の養子となる。官位は従一位・内大臣。後三条内府と号す。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 嘉元2年(1304年) |
死没 | 正平2年/貞和3年1月4日(1347年2月14日) |
改名 | 公重(初名)→実忠 |
別名 | 後三条内府 |
官位 | 従一位、内大臣 |
主君 | 後宇多上皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇 |
氏族 | 三条家 |
父母 |
父:三条実重、母:家女房 養父:三条公茂 |
兄弟 | 公茂、実忠 |
妻 | 藤原公直[1]の娘 |
子 | 公忠、公音、今出川実尹室、九条経教室 |
経歴
編集以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 嘉元4年(1306年)1月5日、叙爵[2]。
- 延慶2年(1309年)2月19日、従五位上に昇叙。
- 延慶3年(1310年)3月9日、正五位下に昇叙。
- 延慶4年(1311年)1月5日、従四位下に昇叙[3]。
- 応長元年(1311年)10月24日、従四位上に昇叙。
- 正和2年(1313年)2月6日、正四位下に昇叙。
- 正和3年(1314年)6月3日、侍従に任ぜられる。同年10月21日、左中将に任ぜられる。
- 正和4年(1315年)7月21日、右中将に転任[4]。
- 正和5年(1316年)10月3日、美濃権介を兼ねる。同年12月23日、従三位に叙せられる。
- 文保2年(1318年)1月22日、下総権守を兼ねる。
- 元応元年(1319年)8月5日、参議に任ぜられる。右中将と下総権守はもとのまま。同月11日、左中将に転任。
- 元応2年(1320年)5月5日、正三位に昇叙。12月9日、権中納言に任ぜられる。
- 元亨3年(1323年)12月25日、勅授帯剣を許される。
- 正中2年(1325年)4月2日、従二位に昇叙。
- 嘉暦2年(1327年)3月24日、権大納言に任ぜられる。
- 嘉暦3年(1328年)1月5日、正二位に昇叙。3月16日、中宮大夫を兼ねる。
- 正慶元年/元弘2年(1332年)5月20日、中宮が女院号を与えられたために中宮大夫を止める。
- 正慶2年/元弘3年(1333年)5月17日、中宮大夫に戻り7月12日には皇后宮大夫となる。10月12日に皇后宮大夫を止める。
- 建武元年(1334年)12月7日、宮内卿を兼ねる。
- 建武3年/延元元年(1336年)5月25日、治部卿の兼任となる。
- 建武4年/延元2年(1337年)7月20日、治部卿を止める。
- 暦応2年/延元4年(1339年)12月27日、大納言に転正。
- 暦応3年(1340年)7月19日、右近衛大将を兼ねる[5]。
- 暦応5年(1342年)1月7日、右馬寮御監に補される。
- 康永2年(1343年)3月19日、大納言と右大将を辞したが、4月10日に内大臣に任ぜられた[6]。
- 康永3年(1344年)9月28日、大蔵卿雅仲が勅使として遣わされ、上表して内大臣を辞するよう仰せがあったが、その後重ねての沙汰とはならなかった。
- 康永4年(1345年)9月8日、内大臣を辞退した。
- 貞和2年(1346年)1月6日、従一位に叙せられる。
- 貞和3年(1347年)1月4日、虚労により薨去。