三条公茂
鎌倉時代後期の公卿。従一位・内大臣。勅撰集『続千載和歌集』以下に4首入集。三条家8代。
三条 公茂(さんじょう きんしげ)は、鎌倉時代後期の公卿。太政大臣・三条実重の子。官位は従一位・内大臣。押小路内府と号す。異母弟・実忠を養子とした。
『天子摂関御影』公茂公 | |
時代 | 鎌倉時代後期 |
生誕 | 弘安7年(1284年) |
死没 | 元亨4年1月9日(1324年2月4日) |
別名 | 押小路内府 |
官位 | 従一位、内大臣 |
主君 | 亀山上皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇 |
氏族 | 三条家 |
父母 | 父:三条実重、母:中院通成の娘 |
兄弟 | 公茂、実忠 |
子 | 養子:実忠 |
経歴
編集以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『花園天皇宸記』の記事に従って記述する。
- 弘安8年(1285年)1月5日、叙爵。
- 正応元年(1288年)1月5日、従五位上に昇叙。同年11月21日、正五位下に昇叙。
- 正応2年(1289年)2月24日、従四位下、同年3月26日には従四位上と進み、同年4月6日、侍従に任ぜられる。同年12月29日、禁色を許される。
- 正応3年(1290年)1月19日、左中将に任ぜられる。同年10月29日、正四位下に昇叙。
- 永仁4年(1296年)1月5日、従三位となる。左中将は元の如し。
- 永仁6年(1298年)5月23日、正三位に昇叙。
- 正安3年(1301年)4月5日、参議に任ぜられ左中将は元の如し。なお、同年中に従二位に昇叙されたか。
- 乾元元年(1302年)3月23日、権中納言に任ぜられる。
- 嘉元元年(1303年)9月28日、中宮権大夫を兼ねる。
- 嘉元3年(1305年)12月30日、権大納言に任ぜられ、中宮大夫に転じる。
- 徳治2年(1307年)1月5日、正二位に昇叙。
- 延慶3年(1310年)12月19日、中宮徳大寺忻子が女院(長楽門院)となるため中宮大夫を停止。
- 正和元年(1312年)8月10日、右近衛大将を兼ねる。
- 正和4年(1315年)7月21日、左大将に転じる。
- 文保元年(1317年)6月21日、内大臣に任ぜられ左大将は元の如し。同年8月24日、左大将を辞した。
- 文保2年(1318年)8月15日、上表して内大臣を辞した。
- 元応元年(1319年)1月5日、従一位に昇叙[1]。
- 元亨4年(1324年)1月9日、薨去[2]。