藤原高藤

平安時代前期の公卿。藤原北家、藤原良門の次男。正三位・内大臣、贈正一位・太政大臣。高藤流(勧修寺流)の祖。子に藤原定数(内舎人)

藤原 高藤(ふじわら の たかふじ)は、平安時代前期の公卿藤原北家左大臣藤原冬嗣の孫。内舎人藤原良門の次男。官位正三位内大臣正一位太政大臣小一条内大臣勧修寺内大臣と号した。

 
藤原 高藤
時代 平安時代前期
生誕 承和5年(838年
死没 昌泰3年3月12日900年4月18日
別名 小一条内大臣勧修寺内大臣
墓所 京都府京都市山科区勧修寺下ノ茶屋町鍋岡山山頂
官位 正三位内大臣
正一位太政大臣
主君 清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族 藤原北家冬嗣流
父母 父:藤原良門、母:高田春子高田沙弥麻呂の娘)
兄弟 利基高藤利世
宮道列子、大江元平の娘
定国定方定文定数胤子満子
特記
事項
醍醐天皇外祖父
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経歴

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右近衛将監六位蔵人美濃権大掾を経て、貞観10年(868年従五位下に叙せられる。清和朝から光孝朝にかけて、右兵衛権佐・左近衛少将・兵部大輔といった武官や尾張守など諸国の地方官を歴任したが、父・良門が微官のまま早逝したこともあり昇進は遅く、長らく位階は従五位に留まった。

仁和3年(887年)娘・胤子の夫である光孝天皇の第七皇子・源定省が皇族に復帰し即位宇多天皇)したことに伴い正五位下に叙せられると、寛平2年(890年)正五位上次いで従四位下と急速に昇進し、寛平5年(893年)の宇多天皇と胤子との間の皇子・敦仁親王の立太子を受け、寛平6年(894年)に三階級の昇叙により従三位に叙せられ公卿に列した。翌寛平7年(895年参議

寛平9年(897年)敦仁親王の即位(醍醐天皇)に前後して正三位中納言に叙任され、昌泰2年(899年大納言に至るが、参議昇進後は播磨権守近江守と地方官を兼帯するのみで、政治面で目立った活躍は見られなかった。

昌泰3年(900年)に危篤となる。時の天皇外祖父であることから、大臣への昇進が検討されたが、当時大臣の官職には左大臣藤原時平右大臣菅原道真がおり、いずれも太政大臣昇進の資格を満たしてはいなかったために、大臣の席を空席にすることは困難であった。そこで藤原魚名以来100年以上途絶えていた内大臣を復置して高藤をこれに任じた。しかし昇進後わずか2か月後の3月12日に薨去享年63。最終官位は内大臣正三位。没後まもなく、天皇の外祖父として正一位・太政大臣の官位が贈られた。

逸話

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高藤と妻の宮道列子が出会った経緯は『今昔物語』「高藤の内大臣の語」などに記されているが、中下級貴族の宮道弥益[注釈 1]の娘であった列子が上位身分の高藤と結ばれたことは当時の中流女性の成功譚としてみなされていたことが窺われる[2]。2人の子孫にあたる紫式部が著した『源氏物語』に登場する、光源氏明石の御方らの恋の話も、列子と高藤の話がモデルであるとされる。

官歴

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注記のないものは『日本三代実録』による。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ もともと宇治郡の大領であったが(国史大辞典・藤原胤子の項)、孫の藤原胤子が醍醐天皇の母となったことにより、宮内大輔に昇と説明されることが多い(日本人名大辞典)。しかし、これは『今昔物語集』の脚色であり、実際には、元慶元年(877年)正月3日の時点で、漏刻博士として内位である従五位下を賜っており(三代実録)、家柄相応の昇進であったことが指摘されている[1]

出典

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  1. ^ 池上, 洵一説話の虚構と虚構の説話 : 藤原高藤説話をめぐって(文学における虚構とは何か,文学の部,<特集>日本文学協会第40回大会報告)」『日本文学』第35巻第2号、日本文学協会、1986年2月10日、64-72頁、doi:10.20620/nihonbungaku.35.2_64ISSN 03869903 
  2. ^ 後藤, 昭雄交野少将物語についての一試論」『語文研究』第25号、九州大学国語国文学会、1968年3月、ISSN 04360982NAID 120000981855 p. 37
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 『公卿補任』

参考文献

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