中院通重
1270-1322, 鎌倉時代中期~後期の公卿。中院通頼の長男。官位は従一位・内大臣。『扇次第』著。勅撰集『新後撰和歌集』以下に8首入集
中院 通重(なかのいん みちしげ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。官位は従一位・内大臣。
『天子摂関御影』 | |
時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
生誕 | 文永7年(1270年) |
死没 | 元亨2年9月15日(1322年10月26日) |
改名 | 通重→良乘(法名) |
官位 | 従一位、内大臣 |
主君 | 亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇 |
氏族 | 村上源氏中院家 |
父母 | 父:中院通頼、母:姉小路顕朝の娘 |
兄弟 | 通重、通時、鷹司冬平正室 |
妻 | 源通能の娘 |
子 | 通顕、成助、通持、道祐、寛恵 |
経歴
編集- 文永8年(1271年)従五位下に叙爵。
- 文永11年(1274年)従五位上に叙せられる。
- 文永12年(1275年)侍従に任ぜられる。
- 建治3年(1277年)正五位下
- 弘安元年(1278年)従四位下・左近衛少将に叙任される。
- 弘安2年(1279年)甲斐介を兼ねる。
- 弘安3年12月(1281年1月)従四位上に叙される。
- 弘安6年(1283年)正四位下に進む。
- 弘安7年(1284年)美作介・左近衛中将に任ぜられた。
- 弘安8年(1285年)従三位に叙せられ公卿に列す。
- 弘安10年(1287年)参議となり、左衛門督・検非違使別当を兼任した。
- 弘安11年(1288年)正三位・権中納言に叙任され、備中権守・中宮権大夫・左衛門督を兼任。
- 正応2年(1289年)従二位に昇叙。
- 正応4年(1291年)正二位に昇叙。
- 正応5年(1292年)権大納言に任ぜられる。
- 正安3年(1301年)には春宮大夫を兼ねる。
- 正和4年(1315年)に大納言に進んだ。
- 正和5年(1315年)大納言を辞退して従一位に叙せられる。
- 元応元年(1319年)内大臣に任ぜられ、淳和奨学両院別当に補任されるが、同年職を辞した。
- 元亨元年(1321年)9月15日に出家。法名は良乘。
- 元亨2年(1322年)9月15日薨去。享年53。
官歴
編集※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 文永8年(1271年)正月5日:従五位下に叙す。
- 文永11年(1274年)11月18日:従五位上に叙す。
- 文永12年(1275年)4月13日:侍従に任ず。
- 建治3年(1277年)正月5日:正五位下に叙す。
- 弘安元年(1278年)
- 4月19日:従四位下に叙す。
- 閏10月28日:禁色を聴す。
- 12月27日(1279年2月9日):左近衛少将に任ず。
- 弘安2年(1279年)正月24日:甲斐介を兼ぬ。
- 弘安3年12月13日(1281年1月5日):従四位上に叙す。
- 弘安6年(1283年)10月30日:正四位下に叙す。
- 弘安7年(1284年)
- 正月13日:美作介を兼ぬ。
- 6月23日:左近衛中将に転ず。
- 弘安8年(1285年)3月8日:従三位に叙す。左中将如元。
- 弘安10年(1287年)
- 正月13日:参議に任ず。
- 10月10日:左衛門督を兼ね、検非違使別当に補す。
- 弘安11年(1288年)
- 2月10日:備中権守を兼ぬ。
- 3月8日:正三位に叙す。
- 8月20日:中宮権大夫を兼ぬ。
- 10月27日:権中納言に任じ、更に左衛門督に任ず。
- 12月20日(1289年1月13日):左衛門督并びに使別当を辞す。
- 正応2年(1289年)7月16日:従二位に叙す。
- 正応4年(1291年)正月6日:正二位に叙す(石清水賀茂行幸行事賞)。
- 正応5年(1292年)
- 閏6月16日:権大納言に任じ、中宮大夫を兼ぬ。
- 7月10日:帯剣を聴す。
- 永仁6年(1298年)8月22日:大夫を止む。
- 正安3年(1301年)8月24日:春宮大夫を兼ぬ。
- 徳治2年(1307年)11月1日:辞退す。
- 延慶2年(1309年)10月15日:還任す。
- 応長2年(1312年)9月15日:服解す(父)。10月:復任す。
- 正和2年12月23日(1314年1月9日):淳和院別当に補す。
- 正和4年(1315年)
- 3月16日:大納言に任ず。
- 4月16日:奨学院別当に補す。
- 正和5年(1316年)10月4日:大納言を辞し、即ち従一位に叙す。
- 元応元年(1319年)
- 閏7月28日:内大臣に任ず。去る16日兼宣旨。
- 9月1日:奨学淳和両院別当に補す。
- 10月18日:辞す。上表せず。
- 元亨元年(1321年)9月15日:出家[1]