今出川公興
今出川 公興(いまでがわ きんおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿。左大臣の今出川教季の子。官位は従一位・左大臣。
時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 文安2年(1445年)[1]/文安3年(1446年)[2] |
死没 | 永正11年2月4日(1514年2月28日[1][2] |
改名 | 公尚(初名)→公興 |
別名 | 号:後法雲院 |
官位 | 従一位、左大臣 |
主君 | 後土御門天皇→後柏原天皇 |
氏族 | 今出川家 |
父母 | 父:今出川教季、母:高倉永豊の娘 |
兄弟 | 公興、伏見宮邦高親王妃 |
妻 | 勧修寺教秀の娘 |
子 | 季孝、興子 |
経歴
編集初名は公尚(きんなお)。文明5年(1473年)に従三位・左近衛中将となり、公卿に列する。文明6年(1474年)に公興と改名する。文明7年(1475年)に権中納言に任ぜられ、文明8年(1476年)には正三位に進む。文明12年(1480年)に権大納言となる。延徳元年(1489年)には従二位に進み、右近衛大将・内大臣に任ぜられる。延徳2年(1490年)には正二位に進む。延徳3年(1491年)に辞したが、明応4年(1495年)には従一位に進む。明応5年(1496年)に右大臣となる。明応6年(1497年)には左大臣へ昇格し、永正2年(1505年)まで同職にあった[1]。