洞院公定
南北朝時代から室町時代初期の公家・公卿。洞院実夏の長男。従一位・左大臣。出家。洞院家6代。『尊卑分脈』の編者
洞院 公定(とういん きんさだ)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての公卿。内大臣・洞院実夏の長男。官位は従一位・左大臣。後中園左大臣と号す。太政大臣を務めた洞院公賢の孫にあたる。
時代 | 南北朝時代 - 室町時代初期 |
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生誕 | 暦応3年/延元5年1月26日(1340年2月24日) |
死没 | 応永6年6月15日(1399年7月18日) |
改名 | 公定→元貞(法名) |
別名 | 後中園左大臣 |
官位 | 従一位、左大臣 |
主君 | 光明天皇→崇光天皇→後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇 |
氏族 | 洞院家 |
父母 |
父:洞院実夏 母:花園院中納言典侍(持明院保藤の娘) |
兄弟 |
公定、公為、公頼、公夏、実厳、理真 養兄弟:洞院実世の娘、洞院実世の娘 |
子 | 養子:実信[1]、満季[2] |
生涯
編集暦応3年(1340年)11月21日叙爵。ところが後に父と不仲となって廃嫡され、替わりに弟・公頼が後継者とされた。ところが、貞治6年(1367年)5月10日に権中納言となっていた公頼が急死、続いて6月1日には実夏も薨去した。実夏は公頼に支障がある場合にはその弟を当主にするように命じていたが、朝廷は幼少を理由に保留、更に公賢が薨去の際に実夏との家督争いに敗れて吉野に奔った公賢の弟(養子)の洞院実守までが京都に帰還して当主に任ぜられるように動いたために洞院家の家督争いが紛糾した[3]。そのため、室町幕府は、応安3年(1370年)頃に3代将軍・足利義満の名で公定に洞院家を継がせて内紛を終結させるように武家執奏を行い、これを受けて応安4年1月19日後光厳天皇によって公定の洞院家門継承の勅裁が下されて洞院家を継ぐことになったのである[4]。
以後累進して従一位・左大臣に至る。日記に『洞院公定日記』があり、応安7年(1374年)と永和3年(1377年)の自筆断簡が残存する。永和2年(1376年)頃、諸家の系図を集めて『尊卑分脈』(『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』)を編んだ。また、日記の「洞院公定日記」については、当時の南北朝の動乱期の世情を鮮明に描いており、更に太平記の作者といわれる小島法師についても記されている。
経歴
編集以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 暦応2年(1340年)1月26日、誕生。同年11月21日、叙爵。
- 康永元年(1342年)9月7日、従五位上に昇叙。
- 康永3年(1344年)1月5日、正五位下に昇叙。
- 貞和元年(1345年)12月30日、侍従に任ぜられる。
- 貞和2年(1346年)2月2日、元服し12月には禁色を許される。
- 貞和3年(1347年)1月5日、従四位下に昇叙。12月27日には左少将に任ぜられる。
- 貞和4年(1348年)10月7日、従四位上に昇叙。
- 貞和5年(1349年)1月5日、正四位下に昇叙。2月15日、備後介を兼ねる。
- 観応元年(1350年)10月12日、左中将に昇任。
- 文和2年(1353年)4月23日、従三位に叙される。
- 文和3年(1354年)3月28日、遠江権守を兼ねる。
- 文和4年(1355年)8月13日、参議に任ぜられ、左中将は元の如し。
- 延文2年(1357年)4月15日、権中納言に任ぜられる。
- 延文3年(1358年)2月11日、母の喪に服す。
- 延文4(1359年)1月21日、復任する。
- 康安元年(1361年)1月5日、正三位に昇叙。4月15日、権中納言を辞退する。以後、前権中納言の状態が続く。
- 応安6年(1373年)1月6日、従二位に昇叙。
- 応安7年(1374年)12月13日、権中納言に還任。
- 永和2年(1376年)2月12日、権大納言に昇任。
- 永和3年(1377年)1月5日、正二位に昇叙。
- 永徳2年(1382年)10月、権大納言を辞した。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 文和2年/正平8年(1353年)に公定が非参議従三位となった時以降の記事。
- 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「洞院家」の項。
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