徳大寺公孝
1253?-1305, 鎌倉時代の公卿。徳大寺実基の子。官位は従一位・太政大臣。勅撰集『新後撰和歌集』以下に4首入集
徳大寺 公孝(とくだいじ きんたか)は、鎌倉時代の公卿。徳大寺太政大臣と号する。従一位太政大臣。母は鷹司頼平(大炊御門頼実の子)の娘もしくは養女(鷹司頼基の娘)。
時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 建長5年(1253年)[1] |
死没 | 嘉元3年7月12日(1305年8月3日) |
別名 | 徳大寺太政大臣 |
官位 | 従一位、太政大臣 |
主君 | 後嵯峨上皇 → 後深草天皇 → 亀山天皇 → 伏見天皇 → 後伏見天皇 → 後二条天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流徳大寺家 |
父母 |
父:徳大寺実基 母:鷹司頼平娘もしくは鷹司頼基娘 |
妻 | 三条喜子 |
子 | 徳大寺実孝、徳大寺忻子 |
経歴
編集以下、『公卿補任』の記事に従って記述する。
- 正嘉元年(1257年)8月11日、従五位上に叙され、同年11月10日には侍従に任ぜられる。
- 正嘉2年(1258年)5月14日、正五位下に叙され、同年12月14日、右少将に任ぜられる。
- 正元元年(1259年)3月8日、従四位下に叙せられる。同年11月21日、従四位上に昇叙、同年12月5日には禁色を許される。
- 文応元年(1260年)3月29日、下野権介を兼ね左中将に任ぜられる。
- 弘長元年(1261年)2月8日、正四位下に昇叙、同年8月20日に中宮権亮を兼ねる。
- 文永元年(1264年)1月13日、相模権介を兼ねる。
- 文永4年(1267年)2月1日、参議に任ぜられる。同日左中将は元の如し。同年6月23日、左兵衛督兼検非違使別当となる。同年11月8日、従三位に昇叙。
- 文永5年(1268年)1月29日、近江権守を兼ねる。
- 文永6年(1269年)3月27日、権中納言に任じられ左兵衛督兼検非違使別当は元の如し。しかし同月30日には左兵衛督と検非違使別当を辞した。同年10月9日には帯剣を許される。
- 文永7年(1270年)閏9月4日、正三位に昇叙。文永8年(1271年)3月27日、春宮権大夫を兼任。
- 文永9年(1272年)1月5日、従二位に昇叙。
- 文永10年(1273年)2月14日、父徳大寺実基が薨去。
- 文永11年(1274年)1月26日、後宇多天皇即位により東宮権大夫を停止。
- 建治元年(1275年)4月22日、母の喪に服す。
- 弘安元年(1278年)2月10日、正二位に昇叙。
- 弘安6年(1283年)3月28日、権大納言に任ぜられる。またこの年、忻子が誕生。母は前内大臣三条公親の女従三位喜子。
- 弘安8年(1285年)8月19日、皇后宮大夫を兼任。
- 正応3年(1290年)7月21日、右近衛大将を兼ねるが、11月21日には権大納言、右近衛大将、皇后宮大夫全てを辞職。
- 正応4年(1291年)12月25日、内大臣に任ぜられる。
- 正応5年(1292年)5月7日、随身兵仗を給わった。同年8月8日、上表して内大臣を辞した。
- 正安元年(1299年)12月21日、兼宣旨が下り同月27日、右大臣に任ぜられる。
- 正安2年(1300年)1月5日、従一位昇叙。
- 乾元元年(1302年)11月22日、太政大臣に転任。同年12月8日、左右近衛府生各1名、番長各1名、近衛各3名を随身として賜った。
- 嘉元元年(1303年)兵仗を賜った。同年2月、女の忻子が従三位に叙され、同年8月には後二条天皇のもとに入内し女御となり、9月に中宮となった。
- 嘉元2年(1304年)3月13日、上表して太政大臣を辞した。
- 嘉元3年(1305年)7月8日、出家し同月12日に薨去。
系譜
編集『徒然草』の登場人物
編集徳大寺公孝は『徒然草』の第23段と第206段に登場する。また父実基も第206段と207段に登場し、怪異を恐れず合理的な人物である姿が描かれている。第206段では公孝が検非違使別当であった時の話であるから、公孝が若かったころの話である。