中院通為
中院 通為(なかのいん みちため)は、戦国時代の公卿。権中納言・中院通胤の子。官位は正二位・内大臣。父祖と同じく、たびたび加賀国に下向・在国し、家領額田庄などの直務支配に努めた。本名は通右・通量。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正14年11月24日(1518年1月5日) |
死没 | 永禄8年9月3日(1565年9月26日) |
改名 | 通右→通量→通為 |
戒名 | 慈西院月亭 |
官位 | 正二位、内大臣[1] |
主君 | 後柏原天皇→後奈良天皇→正親町天皇 |
氏族 | 中院家 |
父母 | 父:中院通胤、母:姉小路済継の娘 |
兄弟 | 通為、覚源 |
妻 | 三条西公条の娘、家女房 |
子 | 通総、岡島一吉室、白川雅朝王、通勝、公厳、女子、真祐 |
経歴
編集大永元年(1521年)9月に5歳で叙爵され、大永6年(1526年)10月侍従に任官。享禄4年(1531年)4月従四位下に叙されて元服し、天文2年(1533年)11月左権中将を兼ねた際に通量から通為へ改名した。天文3年(1534年)2月従四位上・参議に叙任されて公卿に列し、天文4年(1535年)2月正四位下、天文5年(1536年)4月従三位へと進む。天文6年(1537年)3月幕府が加賀額田庄の代官を主張する国人朝日氏の訴訟を退け、中院家による直務を命じたため、6月に同国へ下向。在国中の天文9年(1540年)6月所労のため辞職したが、天文10年(1541年)6月朝廷から在京継続の要請を受け、9月に上洛・参内し、12月参議に還任する。さらに天文11年(1542年)閏3月正三位・権中納言に叙任され、天文12年(1543年)3月侍従を兼ねた。同年11月年貢を未進した泉弥二郎なる者に対処すべく、再び加賀へ下向。通為は泉の田地を没収する強硬策に出るも、報復されて横領の暴挙に遭い、天文15年(1546年)5月幕府から額田庄の知行が安堵されている。その後の直務の動向は不明ながら、天文24年(1555年)9月加賀より再び上洛し、弘治2年(1556年)1月正二位、9月権大納言に叙任される。永禄元年(1558年)9月近臣となったが、どのような事情があってか、永禄2年(1559年)11月三度加賀へ下向。初め額田庄内の桑原(加賀市桑原町)に居住し、やがて越前国から一向衆が乱入した際、北上して能美郡山内へ逃れた。
永禄7年(1564年)12月在国のまま師秀親王の勅別当となる。永禄8年(1565年)8月万里小路惟房へ書状を送り、「所労危急」のため任槐(大臣に任じられること)を嘆願して勅許を得たが、これには条件が付され、もし本復すれば召し返すこと、逝去すればその日を以て任日とすべしとのことであった。しかして、通為は9月3日に癰腫(腫れ物)のため山内で薨去したので、後日、朝廷では同日付を以て任内大臣の宣下が行われたという(『公卿補任』『諸家伝』)。ただし、同時代の広橋兼秀の自筆と推定される『異本公卿補任』(広橋家本)にはこの注記が一切なく、通為は「腫物所労」で起居していた折、越前より乱入した一向衆に放火されて焼死し、永禄10年(1567年)9月内大臣を追贈されたとの異説が見える。何れにしても、祖父の通世と父の通胤の官が権中納言に留まった通為にとって、大臣昇任が悲願であったことは疑いない。
歌人としては『詠百首和歌』(京都大学附属図書館中院文庫蔵)を残しているが、この中には「いかばかり都の手ぶり忘れましひなのすまゐのとしも経ぬれば」など、在国の侘しさを詠んだ歌も見られ、戦国期公家の心情が窺える。この他、百韻連歌を嗜んだり、正親町天皇の命で源氏物語を校合したりすることもあった。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 加賀市史編纂委員会編 『加賀市史 通史 上巻』 加賀市、1978年、NCID BN0157205X
- 菅原正子 「公家衆の『在国』」(『中世公家の経済と文化』 吉川弘文館、1998年、ISBN 9784642027625)
- 橋本政宣編 『公家事典』 吉川弘文館、2010年、ISBN 9784642014427
外部リンク
編集- 『慈西院也足院百首』 - 京都大学電子図書館
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