酒井氏

日本の氏族
酒井家から転送)

酒井氏(さかいし)は、武家華族だった日本氏族三河国在地領主から、江戸時代には譜代大名となり、老中大老が選任された。維新後、酒井氏からは9家が華族に列した(伯爵家3家、子爵家4家、男爵家2家)[2]

酒井氏
家紋
片喰紋、片喰かたばみ
本姓 大江氏海東氏?[1]
清和源氏新田氏大舘氏[1]
家祖 酒井忠明
種別 武家
華族伯爵子爵男爵
出身地 三河国碧海郡酒井郷[1]
主な根拠地 三河国幡豆郡坂井郷
出羽国鶴ヶ岡
播磨国姫路
若狭国小浜
山形県鶴岡市
東京府東京市など
著名な人物 酒井忠次
酒井忠世
酒井忠清
酒井忠績
酒井忠正
凡例 / Category:日本の氏族

概要

編集

西三河の坂井郷から起こった土豪で松平氏の別流[3]

戦国期に松平氏とともに勢力を広げ、近世には井伊氏本多氏榊原氏とともに譜代大名中最高の家格の門閥譜代層を構成し[3]、一族から多数の大老老中を出している。雅楽頭酒井氏と左衛門尉酒井氏の2系統があるが、いずれも大名家、旗本家を分出[4]

明治維新後、現米5万石以上の中藩知事だった姫路酒井家、大泉(庄内)酒井家、小浜酒井家の3家が伯爵、現米5万石未満の小藩知事だった敦賀酒井家、鞠山(伊勢崎)酒井家、加知山(勝山)酒井家(明治32年爵位返上)、松嶺(松山)酒井家の4家は子爵に叙せられた。また姫路酒井伯爵家の分家の酒井忠惇酒井忠績男爵に叙せられた[2]

出自

編集
 
酒井氏の始祖とされる酒井広親の石宝塔(愛知県岡崎市岩津町

酒井氏は元来、大江忠成の子孫を称する海東氏で、三河国碧海郡酒井郷あるいは同国幡豆郡坂井郷の在地領主である。14世紀の末頃に酒井郷の領主であった酒井忠明の子が酒井忠時(酒井太郎左衛門少尉忠時)で、さらに忠時の子に当たる酒井忠則は、新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を娘婿に迎えたという。その間に生まれた子が酒井広親(庶長子)で、成長した広親は親氏系の酒井氏の始祖となったとされる。

もとよりこれらは、松平氏の出自に関するのと同類の仮冒であって、松平氏と同族の清和源氏新田氏流であることを主張するために、家康の時代以降に創作されたものとされる。その真意は不明だが、愛知県西尾市吉良町荻原字小野の酒井氏先祖の墓に長阿弥(新田有親)の墓も設けられた。

酒井広親は松平郷にて松平氏に仕え、譜代家臣となったとされる。その後の酒井氏は、広親の子から2家に分かれる(あるいは、広親の子の酒井五郎親時の子の時ともされる)。

大名家

編集

左衛門尉家系統

編集

左衛門尉家さえもんのじょうけは、酒井広親の長子氏忠の家系であると伝わっているが[5]、左衛門尉系は徳川家康に仕えた酒井忠次の父から系譜が書かれており、その間の系譜は明確ではない[4]

1564年(永禄7年)に忠次は家康より三河吉田城主に取り立てられ[6]、家康が三河を支配する過程で東三河は忠次が旗頭に任命されて支配した[7]。忠次の子家次の代の天正18年(1590年)に家康は豊臣秀吉の命で関東に移封され、それに従って家次も関東へ移住して下総国臼井城主となり、3万石を領した[6]

関ヶ原の戦い後、家康が豊臣氏から権力を簒奪すると家次は慶長9年(1604年)に2万石加増されて上野国高崎藩5万石に移封された[6]。さらに元和2年(1616年)に5万石加増されて越後国高田藩10万石に移封された[6]

家次の子酒井忠勝は元和8年(1622年)に3万石加増されて出羽国庄内藩(鶴岡藩)に移封された。さらに寛永9年(1632年)にも1万2000石が加増されて都合14万石余となった[6]。幕末の庄内藩主忠篤は、元治元年(1864年)8月18日に2万7000石加増されて都合17万石となったが、戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟に参加して政府軍に抗したことにより、官位褫奪・蟄居となり、庄内藩は明治元年(1868年)12月7日に改易となった[8]。しかし、同月15日にはその弟忠宝岩代国会津藩12万石が与えられて家名再興が許された。翌年6月には磐城国平藩に転封となり、版籍奉還で平藩知事に就任したが、その翌月には羽前国庄内藩に再移封となり、9月に藩名を大泉藩に改名し、その後1871年(明治4年)の廃藩置県まで大泉藩知事を務めた[9]。明治以降は華族伯爵家に列した(→酒井伯爵家(大泉)へ)。

また正保4年(1647年)には忠勝の子忠当が弟酒井忠恒に新田2万石を分与した(出羽松山藩)[6]。安永8年(1779年)に5000石加増があり、都合2万5000石を領した[10]。分家の松山藩主忠良も忠篤と共に官位褫奪・蟄居となったが、その息子忠匡に2500石減封の2万2500石の領地が与えられて家名存続が許された。明治2年(1869年)の版籍奉還の際に藩名を松山から松嶺に改名して松嶺藩知事に就任。明治4年の廃藩置県まで藩知事を務めた[11]。明治以降は華族子爵家に列する(→酒井子爵家(松嶺)へ)。

左衛門尉系統の大名家一覧

雅楽頭家系統

編集
 
酒井忠世

広親の次男とされる酒井家忠の家系は、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭家うたのかみけと呼ばれる[12]酒井雅楽助正親は左衛門尉家の忠次と同じく家康青年期の重臣のひとりで、永禄4年(1561年)もしくは永禄5年(1562年)に家康の三河支配の過程で三河西尾城主に取り立てられた[13]

その子重忠は家康の関東移封で武蔵国川越城を与えられて1万石を領した[13]。重忠の子忠世は家督前に自身に与えられた領地と合わせて家督後に前橋藩主8万5000石を領し、幕府の老中となり、加増されて12万石を領したが、家光の代になると疎まれて老中を解任された[14][15]

 
酒井雅楽頭家上屋敷跡
千代田区丸の内

忠世の孫忠清は寛永14年(1637年)の家督の際に弟忠能に2万2500石を分与して(上野国伊勢崎藩、のち駿河国田中藩主)、10万石となったが[16]徳川家綱の代に老中首座(大老とも)として権勢をふるい「下馬将軍」と称され、加増により15万石を領した。忠清は家綱死去時に有栖川宮幸仁親王の宮将軍擁立を図ったとする説もあるが、定かではない。その後徳川綱吉に疎まれて失脚した[17]。また駿河田中藩主4万石になっていた弟の酒井忠能は綱吉に改易された[18]

忠清の子忠挙は弟忠寛に2万石を分与し(上野国伊勢崎藩)、13万石となる[16]忠相の代の宝永4年(1707年)に新田2万石が本領に加えられて15万石に戻った[19]忠恭の代の寛延2年(1749年)に播磨国姫路藩へ移封した[20]

幕末の姫路藩主酒井忠績は江戸幕府の最後の大老となった。彼は明治時代に姫路酒井家から分家して華族男爵となる(→酒井男爵家(忠績)へ)。

慶応3年(1867年)に忠績から家督を継いだ弟酒井忠惇は老中となり、王政復古直後に徳川慶喜らが起こした鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に参加して大敗し慶喜とともに江戸に逃走。これにより姫路藩は官軍の備前藩軍から追討を受け、家臣が開城して謝罪。忠惇も直ちに老中を辞したが、朝廷により官位を褫奪され、養子の忠邦に家督を譲って蟄居。この際に官軍に軍資金15万両を献上した。忠惇も明治時代に姫路酒井家から分家して華族の男爵となっている[21][22](→酒井男爵家(忠惇)へ)。

忠邦は減封なく家督を相続し、明治2年(1869年)の版籍奉還で姫路藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[23]。姫路酒井家は明治に華族の伯爵家に列する(→酒井伯爵家(姫路)へ)。

伊勢崎藩の方は本藩と違い、ただちに新政府に恭順している[24]。そのため特に問題なく、最後の伊勢崎藩主酒井忠彰は、明治2年(1869年)の版籍奉還で伊勢崎藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[25]。同家は明治に華族の子爵家に列した(→酒井子爵家(伊勢崎)へ)。

また、重忠の弟の忠利は別家して取り立てられ、川越藩主江戸城留守居・老中となる。忠利の子の酒井忠勝 (小浜藩主)は老中・大老になり、小浜藩12万3500石の藩主となった[26]。同藩は廃藩置県まで存続し、明治に華族の伯爵家に列せられた(→酒井伯爵家(小浜)へ)。

寛文8年(1668年)に2代小浜藩主忠直が甥忠国に1万石を分与(安房勝山藩)、また天和2年(1682年)にも3代小浜藩主酒井忠隆が弟酒井忠稠に1万石を分与した(越前国敦賀藩[26]。いずれも廃藩置県まで存続するが、明治維新後、勝山藩は加知山藩、敦賀藩は鞠山藩と改名している。両家とも華族の子爵家に列している(→酒井子爵家(加知山)、→酒井子爵家(鞠山)へ)。

雅楽頭家系統の大名家一覧

華族

編集

明治維新後、酒井氏からは9家の華族家が出、3家が伯爵家、4家が子爵家、2家が男爵家に列した。

酒井伯爵家(大泉)

編集

明治元年に庄内藩主酒井忠篤が改易となった後、会津藩12万石を与えられて家名再興を許された弟の忠宝は、磐城国平藩主だった時の明治2年(1869年)に版籍奉還を迎えて同藩知事になるとともに華族に列した。その後羽前国庄内藩に再移封され、大泉藩と改称して廃藩置県まで藩知事を務めた[9]

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で6937石[27][28][注釈 1][29]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は12万6078円20銭6厘(華族受給者中57位)[28]。当時の忠宝の住居は東京市牛込区揚場町にあった[30]

忠宝は明治13年に隠居し、謹慎の明けていた兄忠篤が再家督[31]。明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により、忠篤は旧中藩知事[注釈 2]として伯爵に叙された[33]。忠篤は陸軍軍人となり、中尉まで昇進した[31]

大正4年に忠篤が死去し、長男の忠良が伯爵位を継承。彼の代の昭和前期に大泉酒井伯爵家の邸宅は山形県鶴岡市家中新町にあった[34]。富裕な華族だった忠良は山形県の多額納税者になっている[35]

その息子忠明は、平成前期に松岡機業代表取締役や到道博物館名誉館長を務める[36]

酒井伯爵家(姫路)

編集
 
昭和7年(1932年)の酒井忠正伯爵

鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜に与したことで蟄居となった酒井忠惇の代わりに最後の姫路藩主となった養子の酒井忠邦は、明治2年(1869年)の版籍奉還で姫路藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[23]

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で8321石[27][28][注釈 1][29]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は24万2971円24銭7厘(華族受給者中26位)[37]

忠邦は明治12年3月25日に死去。当時忠邦の長男忠興はまだ生まれていなかったので(同年6月6日生)、酒井忠顕未亡人だった文子が女戸主となった[38]。明治14年時の文子の住居は東京市神田区神田佐久間町にあった。当時の家扶は安藤貫吉[39]

明治17年(1884年)7月7日に華族令が施行されて華族が五爵制になった際も戸主は文子だったため、授爵が遅れたが、明治20年(1887年)6月6日に忠興が家督したことで、同月23日に旧中藩知事[注釈 3]として伯爵に叙された[40]

大正8年9月22日に忠興が死去したが、忠興には男子がなかったため、阿部正桓伯爵の次男酒井忠正が忠興長女の秋子と結婚することで婿養子として伯爵位と家督を相続[38]。忠正は貴族院の伯爵議員に当選して務め、昭和前期の阿部内閣農林大臣として入閣した[38]。政治思想的には右翼として知られ、東洋人の自覚と文化の普及に努めるためとして亜細亜文化協会を結成し、後に黒維会に改組、黒維会は1931年(昭和6年)の満州事変以降に親軍的反政党政治的「新官僚」運動の思想的な母体となった[41]。1930年にドイツを訪問して国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の幹部ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書官と会談した忠正は機関紙『黒維』で「独逸国民社会党の真相」という論文を出すなど日本でも高まってきた国家社会主義運動を形式的模倣で終わらせないようナチス理解を広める役割も果たしていた[42]。その後、黒維会は日本全国各地に勢力を伸ばし、当時日本領だった朝鮮半島にも勢力を広げた[43]。戦後に占領軍によって一時逮捕され、不起訴釈放になった後も公職追放にされたが、解除後日本相撲協会会長などを務めた[44]

忠正の代の昭和前期に姫路酒井伯爵家の邸宅は東京市小石川区原町にあった[45]

忠正の子は忠元(大正10年8月5日生、平成2年8月17日没)、平成前期の当主は忠元の子忠紀(昭和20年12月1日生)[38]

なお姫路酒井伯爵家からは、忠邦の前々当主である忠績、および前当主だった忠惇がそれぞれ分家して華族の男爵に叙せられている(→#酒井男爵家(忠惇)#酒井男爵家(忠績))。

酒井伯爵家(小浜)

編集

最後の小浜藩主酒井忠禄は明治2年(1869年)の版籍奉還で小浜藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[46]

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で5573石[27][28][注釈 1][29]

忠禄は明治6年12月5日に死去し、長男忠道が家督相続[47]

明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は14万4556円30銭6厘(華族受給者中45位)[37]

忠道は、華族令施行後の明治17年(1884年)7月7日に旧中藩知事[注釈 4]として伯爵に叙された[33]。忠道は貴族院の伯爵議員に当選して務めた[47]

忠道は大正9年2月1日に死去し、長男の忠克が伯爵位を継承。彼も貴族院の伯爵議員に当選して務めた[47]

忠克が昭和14年7月15日に死去した後、その長男忠博が爵位を継承[47]

酒井子爵家(松嶺)

編集

最後の藩主酒井忠匡は、明治2年(1869年)の版籍奉還の際に藩名を松山から松嶺に改名して松嶺藩知事に就任。明治4年の廃藩置県まで藩知事を務めた[11]

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で1242石[27][28][注釈 1][29]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は2万6771円17銭6厘(華族受給者中178位)[48]。明治14年時の忠匡の住居は東京市浅草区浅草にあった。当時の家扶は鈴木力、加藤寔守、中村一致[49]

忠匡は華族令施行後の明治17年(1884年)7月8日に旧小藩知事[注釈 5]として子爵に叙せられた[51]

明治44年4月30日に忠匡は死去し、長男の忠晄が爵位継承。大正12年1月18日に忠晄が死去した後は、長男の忠康が爵位継承。彼は掌典を務めた[52]。彼の代の昭和前期に松嶺酒井子爵家の邸宅は東京市本郷区駒込千駄木町にあった[53]

酒井子爵家(伊勢崎)

編集

最後の藩主酒井忠彰は、明治2年(1869年)の版籍奉還で姫路藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[25]

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で551石[27][注釈 1][29]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は2万4904円30銭8厘(華族受給者中188位)[54]。明治14年時の忠匡の住居は東京市本所区北本所にあった。当時の家扶は重田乙蔵[55]

忠彰は華族令施行後の明治17年(1884年)7月8日に旧小藩知事[注釈 6]として子爵に叙された[56]

忠彰は明治29年7月31日に死去。長男の忠一が子爵位を継承[57]。彼の代の昭和前期に伊勢崎酒井子爵家の邸宅は東京市小石川区高田老松町にあった[58]

忠一が昭和17年11月22日に死去した後には長男の忠壽が子爵位を継承[57]

酒井子爵家(鞠山)

編集

最後の敦賀藩主酒井忠経は明治2年(1869年)の版籍奉還で敦賀藩知事となったが、同時期に藩名を鞠山藩に改名した。明治3年(1870年)に本藩の小浜藩に吸収合併され、小浜藩権知事に就任した[59]

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で495石[27][注釈 1][29]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は1万5407円58銭(華族受給者中277位)[60]。明治14年時の忠経の住居は東京市牛込区牛込にあった。当時の家扶は根岸定輝[61]

明治15年3月2日に忠経が隠居し、長男忠亮が家督相続[62]。忠亮は、華族令施行後の明治17年(1884年)7月8日に旧小藩知事[注釈 7]として子爵に列した[63]

忠亮は貴族院の子爵議員に当選して務めた。昭和3年8月1日に忠亮が死去した後、長男の忠英が子爵位を継承し、彼も貴族院の子爵議員を務めた[62]。彼の代に鞠山酒井子爵家の邸宅は東京市牛込区矢来町にあった[64]

忠英には男子がなく、忠英の娘明子と結婚した忠武(酒井忠克伯爵次男)が養子として相続[62]

酒井子爵家(加知山)

編集

最後の勝山藩主酒井忠美は明治2年(1869年)の版籍奉還で加知山藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[46]

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で428石[27][注釈 1][29]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は1万7886円66銭8厘(華族受給者中251位)[60]。忠美の住居は東京市神田区淡路町にあった[65]

忠美は明治12年8月6日に隠居。娘の瑞松院が一時的に女戸主となった後、明治14年11月17日に忠美の長男忠勇が家督相続。忠勇は、華族令施行後の明治17年(1884年)7月8日に旧小藩知事[注釈 8]として子爵に列した[63]

しかし忠勇は学習院在学中より素行の悪さで有名であり、明治32年(1899年)には偽造手形行使の廉で公訴が提起されたのに伴い爵位を返上している。その後東京地裁で有罪になったが、東京控訴院では無罪となり、それに伴って忠勇の弟酒井朗が復爵を申請しているが、不許可となり、華族に戻ることはできなかった[66]

酒井男爵家(忠惇)

編集

当家は姫路酒井伯爵家の分家に当たる。家祖の酒井忠惇は、慶応3年に姫路藩主を襲封して幕府老中となったが、翌年の鳥羽伏見の戦いの際に徳川慶喜に従って江戸へ逃亡したため、官位褫奪・蟄居となり、養子の忠邦が家督した。明治2年に赦免された忠惇は、明治13年11月に至って姫路酒井家から分家して別戸を編製、終身華族に叙されたのを経て、明治22年5月に至って永世華族として男爵位を与えられた[22]

忠惇が明治40年11月11日に死去した後、長男の忠精が男爵位を継承[22]。彼の代の昭和前期に惇男爵家の邸宅は東京市世田谷区玉川奥沢町にあった[67]

酒井男爵家(忠績)

編集

当家は姫路酒井伯爵家の分家に当たる。家祖の酒井忠績は、上記忠惇の前当主で姫路藩主・幕府大老だったが、慶応3年に弟の忠惇に家督を譲って隠居していた。明治13年11月に至って姫路酒井家から分家して別戸を編製し、終身華族に叙されたのを経て、明治22年5月に永世華族として男爵位を与えられた[68]

忠績は明治28年10月30日に死去し、長男の忠弘が男爵位を継承、忠弘は貴族院の男爵議員に当選して務めたが、大正9年6月に背任罪に問われて爵位返上に至っている[68]

また忠弘には子供がなかった[68]。そのため、染井霊園にあった忠績の墓地は、近年、無縁墓となり、管理料滞納で撤去が予定されていると報道されている[69]

系図

編集

左衛門尉酒井家系譜

編集
実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。※は同一人物。
1(太字)=庄内(大泉)藩主家→伯爵家の酒井家の歴代、①=松山(松嶺)藩主家→子爵家の酒井家の歴代。
大江広元
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寒河江氏
大江親広
長井氏
長井時広
毛利氏
毛利季光
海東氏
海東忠成
 
 
 
忠茂
 
 
 
広茂
 
 
 
忠房
 
 
 
忠賢
 
 
 
酒井忠明
 
 
 
忠時
 
 
 
忠則
 
 
 
 
 
 
松平氏
松平親氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
酒井広親松平郷松平家
信広
泰親
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[左衛門尉家]
氏忠1
[雅楽頭家]
家忠
 
 
 
忠勝2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
康忠3忠俊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠親4忠尚[旗本]
忠高
 
 
 
 
 
忠次5忠雄[系佐 1]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[庄内藩主家]
家次6
本多康俊小笠原信之松平甚三郎家
福釜松平久恒
[旗本]
忠知
忠盈※
[無嗣断絶]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠勝7[左沢藩主家]
直次
[無嗣断絶]
[旗本]
忠重
[改易]
[吉之允家]
了次
忠村高木貞則
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠当8[大山藩主家]
忠解
[無嗣断絶]
山名恒豊[奥之助家]
忠直
[松山藩主家]
忠恒
忠隆
 
 
 
 
 
 
 
忠義9忠予小笠原信成
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠真10
 
 
 
密姫[系佐 2]忠寄忠英忠休(直豫)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠辰忠寄11忠郷忠起水野忠体忠崇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠温12植村寿朝本多康伴本庄松平資尹忠夷忠禮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠徳13忠順[旗本]
忠恕
忠方甲斐庄正誼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠器14水野忠実黒田直侯市橋長富内藤政民小笠原長泰忠禮忠質※忠良森川俊方
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠発15増山正修忠中市橋長和忠寛米津政易米津政明[子爵家]
忠匡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠恕忠篤忠宝忠寛16忠利政明忠晄
 
 
 
 
 
 
 
[伯爵家]
忠篤17/19
[系佐 3]
酒井忠利忠康
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠宝18忠良忠孝[分家]
忠悌
忠暉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠純忠良20忠正忠一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠惇[系佐 4]忠明21[分家]
忠治
英一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠久22
 
 
 
天美忠人
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠順大沼賀世

庄内(大泉)酒井家一門

編集
1=酒井奥之助家歴代、①=酒井吉之允家歴代。
酒井忠次
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
家次松平甚三郎家
松平久恒[系佐 5]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠勝[旗本]
了次
 
 
 
 
 
[奥之助家]
忠直1
忠崇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直隆2[吉之允家]
重盈
重秋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直通3直豫(忠休)忠盈※重栄重喬直隆重頼重一
 
 
 
 
 
 
 
直豫(忠休)4重喬直恭
 
 
 
 
 
直恭5重頼
 
 
 
 
 
直豊6了知
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直寛7了安松平久中直寛烟林
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直方8直鳳了繁(右京)了明
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大山春治直興直温了恒調良白井久井黒崎研堂駒太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直次温理了敏駒太郎駿次
 
 
 
次武
  1. ^ 備後福山藩主・阿部正邦の子。
  2. ^ 肥後熊本藩主・細川綱利の娘。
  3. ^ 養嗣子・忠宝の隠居後に再相続。
  4. ^ 旧豊後杵築藩主家(子爵)・松平親信の2男。
  5. ^ 福釜松平家・松平親俊の養子。

雅楽頭酒井家系譜

編集
実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。※は同一人物。

姫路酒井家と分家酒井男爵家の系図

編集
1(太字)=姫路藩主家→伯爵家の酒井家歴代。
酒井広親
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[左衛門尉家]
氏忠
[雅楽頭家]
家忠1
 
 
 
信親2
 
 
 
家次3
 
 
 
清秀4
 
 
 
正親5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[姫路藩主家]
重忠6
[小浜藩主家]
忠利
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠世7忠正西尾忠永
 
 
 
 
 
 
 
忠行8忠洪忠照
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠清9[旗本寄合席]
忠能
忠英忠成
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠挙10[伊勢崎藩主家]
忠寛
忠佳※忠佳※酒井忠告
 
 
 
 
 
忠相11忠侯
 
 
 
 
 
親愛12忠和
 
 
 
 
 
親本13忠善
 
 
 
 
 
忠恭14弥門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠仰忠得[旗本]
忠啓
忠宜忠温[姫路新田藩主家]
忠交
忠以15忠誨
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠以忠因(抱一)忠求忠質忠道16忠実忠績[静岡藩士]
忠恕
忠惇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠欽忠全
[無嗣断絶]
忠実17忠学
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠氏喜代姫
[系雅 1]
 
 
 
忠学18藤井松平忠固西尾忠受忠讜三宅康直
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
文子忠宝19忠宝酒井忠顕酒井忠敬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠顕20
 
 
 
文子24
[系雅 2]
 
 
 
 
 
 
 
[男爵家]
[系雅 3]
忠績21
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠弘忠敬[男爵家]
[系雅 3]
忠惇22
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠邦23忠精
 
 
 
 
 
[伯爵家]
忠興25
宗武[系雅 4]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秋子
 
 
 
忠正26
[系雅 5]
菊子
 
 
 
前田利為
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠元27
 
 
 
 
 
 
酒井美意子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠紀28忠澄
 
 
 
忠輝29

上記分家の大名→華族の酒井家

編集
1=伊勢崎酒井家歴代、①=小浜酒井家歴代、i=勝山(加知山)酒井家歴代、I=敦賀(鞠山)酒井家家歴代。
酒井正親
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重忠[小浜藩主家]
忠利
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠世西尾忠永[旗本寄合席]
忠吉
忠勝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠行忠照忠経忠朝青木可一忠直
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠清忠成野々口為重久松松平定安[安房勝山藩主家]
忠国i
忠隆江見舎政[旗本]
忠根
[敦賀藩主家]
忠稠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[伊勢崎藩主家]
忠寛1
酒井忠告[旗本寄合席]
忠成
忠胤忠囿忠音忠菊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠告2忠篤忠音親本忠恭忠武忠香
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠儔忠温3忠大忠通忠存忠用忠与有馬則憑忠香
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠増忠哲4高力直忠忠鄰忠用忠節水谷勝政山名豊磐忠言忠進
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠寧5忠和忠与忠藎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠良6忠恒忠嗣忠貫遠藤胤相船越景範高木正直土井利亨忠毗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠恒7瑞松院
[系雅 6]
 
 
 
忠一忠進忠順忠経
[系雅 7]
万木忠之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板倉勝全忠強8忠彰忠邦忠美忠順忠義(忠禄)[子爵家]
忠亮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[子爵家]
忠彰9
忠勇忠尚※忠義(忠禄)
⑬/⑮
忠英
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠一10[子爵家]
忠尚※
忠氏[伯爵家]
忠道
忠武※
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠寿11xiii
[系雅 8]
忠克忠晴
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
xiv忠博忠武※忠明XIII忠幸
 
 
 
 
 
忠昭xv忠和
 
 
 
忠昭
  1. ^ 徳川家斉の25女。
  2. ^ 忠邦の死後、忠興の家督相続までの間、当主を務めた。
  3. ^ a b 宗家相続後、維新後に分家し男爵を授与された。
  4. ^ 旧陸奥仙台藩主(伯爵)・伊達邦宗の子。
  5. ^ 備後福山藩主(伯爵)・阿部正桓の2男。
  6. ^ 旗本寄合席(三河西端領主)・本多忠興の娘。
  7. ^ 敦賀藩が小浜藩に統合された際に酒井忠義(忠禄)から小浜藩知事の地位を譲られる。
  8. ^ 青木富吉の子。

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ a b c d e f g 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事の個人財産の家禄と定められた。
  2. ^ 旧大泉藩は現米6万9370石(表高12万石)で現米5万石以上15万石未満の中藩に該当[32]
  3. ^ 旧姫路藩は現米8万3210石(表高15万石)で現米5万石以上15万石未満の中藩に該当。
  4. ^ 旧小浜藩は現米5万5730石(表高10万3558石)で現米5万石以上15万石未満の中藩に該当[32]
  5. ^ 旧松嶺藩は現米1万2420石(表高2万2500石)で旧小藩に該当[50]
  6. ^ 旧伊勢崎藩は現米5510石(表高2万石)で現米5万石未満の小藩に該当[56]
  7. ^ 旧鞠山藩は現米4950石(表高1万石)で現米5万石未満の小藩に該当[56]
  8. ^ 旧加知山藩は現米4280石(表高1万2000石)で現米5万石未満の小藩に該当[56]

出典

編集
  1. ^ a b c 太田 1934, p. 2486.
  2. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 324/331-332/345.
  3. ^ a b 世界大百科事典 第2版『酒井氏』 - コトバンク
  4. ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)『酒井氏』 - コトバンク
  5. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『酒井氏』 - コトバンク
  6. ^ a b c d e f 新田完三 1984, p. 135.
  7. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『酒井忠次』 - コトバンク
  8. ^ 新田完三 1984, p. 138.
  9. ^ a b 新田完三 1984, p. 139.
  10. ^ 新田完三 1984, p. 769.
  11. ^ a b 新田完三 1984, p. 770.
  12. ^ 太田 1934, p. 2490.
  13. ^ a b 新田完三 1984, p. 689.
  14. ^ 朝日日本歴史人物事典『酒井忠世』 - コトバンク
  15. ^ 新田完三 1984, p. 690.
  16. ^ a b 新田完三 1984, p. 691.
  17. ^ 朝日日本歴史人物事典『酒井忠清』 - コトバンク
  18. ^ 朝日日本歴史人物事典『酒井忠能』 - コトバンク
  19. ^ 新田完三 1984, p. 692.
  20. ^ 新田完三 1984, p. 693.
  21. ^ 朝日日本歴史人物事典『酒井忠惇』 - コトバンク
  22. ^ a b c 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 641.
  23. ^ a b 新田完三 1984, p. 695.
  24. ^ 藩名・旧国名がわかる事典『伊勢崎藩』 - コトバンク
  25. ^ a b 新田完三 1984, p. 80.
  26. ^ a b 新田完三 1984, p. 196.
  27. ^ a b c d e f g 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 17.
  28. ^ a b c d e 石川健次郎 1972, p. 39.
  29. ^ a b c d e f g 刑部芳則 2014, pp. 105–106.
  30. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/111 国立国会図書館デジタルコレクション 
  31. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 634.
  32. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 123.
  33. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 324.
  34. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 102.
  35. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 103.
  36. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 633.
  37. ^ a b 石川健次郎 1972, p. 37.
  38. ^ a b c d 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 639.
  39. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/112 国立国会図書館デジタルコレクション 
  40. ^ 小田部雄次 2006, p. 344.
  41. ^ 小田部雄次 2006, p. 236.
  42. ^ 小田部雄次 2006, p. 236-238.
  43. ^ 小田部雄次 2006, p. 238.
  44. ^ 小田部雄次 2006, p. 237.
  45. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 116.
  46. ^ a b 新田完三 1984, p. 199.
  47. ^ a b c d 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 645.
  48. ^ 石川健次郎 1972, p. 47.
  49. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/111 国立国会図書館デジタルコレクション 
  50. ^ 浅見雅男 1994, p. 152.
  51. ^ 小田部雄次 2006, p. 332.
  52. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 636.
  53. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 400.
  54. ^ 石川健次郎 1972, p. 48.
  55. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/110 国立国会図書館デジタルコレクション 
  56. ^ a b c d 浅見雅男 1994, p. 151.
  57. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 644.
  58. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 243.
  59. ^ 新田完三 1984, p. 781.
  60. ^ a b 石川健次郎 1972, p. 54.
  61. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/110 国立国会図書館デジタルコレクション 
  62. ^ a b c 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 647.
  63. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 331-332.
  64. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 329.
  65. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/110 国立国会図書館デジタルコレクション 
  66. ^ 松田敬之 2015, p. 315.
  67. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 462.
  68. ^ a b c 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 642.
  69. ^ 「江戸幕府最後の大老、姫路城主・酒井忠績の墓が撤去危機 理由は…墓地の管理料滞納」 神戸新聞2019.2.25付(2020.1.23access)

参考文献

編集
  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。 
  • 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 酒井 サカヰ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2483-2494頁。全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/335 国立国会図書館デジタルコレクション   
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724 
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。