酒井忠直

若狭小浜藩2代藩主。小浜藩酒井家3代。酒井忠勝の四男。従五位下、修理大夫、従四位下、侍従

酒井 忠直(さかい ただなお)は、若狭小浜藩の第2代藩主。小浜藩酒井家3代。

 
酒井忠直
時代 江戸時代前期
生誕 寛永7年3月23日1630年5月5日
死没 天和2年7月10日1682年8月12日
改名 靭負(幼名)→忠直
戒名 勇厳院殿独立空山大居士
墓所 福井県小浜市男山の空印寺
官位 従五位下、修理大夫従四位下、侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
若狭小浜藩
氏族 雅楽頭酒井家
父母 父:酒井忠勝、母:松平親能の娘
兄弟 忠朝、忠経、青木可一忠直、ほか女子
正室:松平定頼の娘
忠隆忠稠忠與江見舎政忠艮直郷、本性院(秋田輝季正室)、娘(深栖季林室)、娘(田中常行室)、玄好院(毛利元賢正室のち植村家言継室)、娘(高木正純室)、娘(酒井忠徂室)、娘(三浦義職室)
養女:酒井忠朝の娘(亀井政直正室)
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空印寺の墓

生涯

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寛永7年(1630年)3月23日、小浜藩初代藩主となる(当時は武蔵川越藩主)酒井忠勝の四男として生まれた。正保元年(1644年)、従五位下、修理大夫に叙任する。慶安2年(1649年)、兄・忠朝廃嫡されたため嫡子となり、明暦2年(1656年)5月26日、父の隠居により家督を継いだ。

寛文8年(1668年)、甥(忠朝の子)の忠国に1万石を分与して支藩である安房勝山藩を立藩した。寛文12年(1672年)、元下総佐倉藩主であった甥の堀田正信を預かった(正信の弟で正信を預かっていた信濃飯田藩主・脇坂安政播磨龍野藩へ転封されたため)。延宝元年(1673年)には従四位下、侍従に昇進した。しかし延宝5年(1677年)、正信が密かに上洛し、清水寺石清水八幡宮に参拝したため、預かりの責任者である忠直は閉門処分となり、正信は阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に預け替えられた。

藩政においては父の政策を受け継いで、藩の諸制度の確立と整備、新田開発、寛文近江・若狭地震の被害復興(被災した小浜城の修理、三方五湖浦見川運河治水工事など)、文学の奨励などを行なって藩政を指導した。

天和2年(1682年)7月10日、小浜で死去した。享年53。跡を長男の忠隆が継いだ。

父の政策を受け継いで藩政を確立したのは、忠直が実直で守成の名君だったからだと言われている。

系譜

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