酒井 忠進(さかい ただゆき)は、江戸時代後期の大名、老中若狭小浜藩第10代藩主。小浜藩酒井家11代。

 
酒井忠進
時代 江戸時代後期
生誕 明和7年3月9日1770年4月4日
死没 文政11年1月27日1828年3月12日
改名 八之助(幼名)→忠進
別名 与七郎、八郎(通称
墓所 福井県小浜市男山の空印寺
官位 従四位下、靭負佐、讃岐守、侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
若狭小浜藩
氏族 雅楽頭酒井家
父母 父:酒井忠香
養父:酒井忠貫
兄弟 忠恕、忠節水谷勝政忠言山名豊磐忠貞忠進
正室:高子奥平昌鹿の娘)
忠義(五男)、嗣(水野忠邦正室)、鑑(内藤信方正室のち西尾忠実室のち木下俊敦継室)
養子:忠順
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空印寺の墓

生涯

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越前敦賀藩主・酒井忠香の七男。第9代小浜藩主酒井忠貫の養嗣子となり、文化3年(1806年)に家督を相続した。幕府では寺社奉行京都所司代老中を歴任した。文化12年(1815年)に焼失した日光東照宮五重塔を文政元年(1818年)に再建した。

文政11年(1828年)に死去した。跡は先代・忠貫の次男の忠順が継いだ。

経歴

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系譜

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