寒河江氏(さがえうじ、さがえし)は、大江氏の支流である日本の氏族の一つ[1]寒河江荘を地盤とし鎌倉時代から室町時代初期までは藤原摂関家請所地頭請)として、それ以後は寒河江荘を国人領主として支配した。寒河江大江氏ともいう。南北朝時代末以降より寒河江の名字を称した。

寒河江氏
家紋
一文字に三つ星いちもんじにみつぼし
本姓 大江氏親広流[1]
種別 武家
士族
出身地 出羽国寒河江郷[1]
主な根拠地 出羽国寒河江荘
山形県
支流、分家 左沢氏武家
溝延氏(武家)
柴橋氏(武家)
白岩氏(武家)
出羽吉川氏(武家)
橋間氏(武家)
荻袋氏(武家)
高松氏(武家)
高屋氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

鎌倉時代

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寒河江荘及び長井荘
 
慈恩寺本堂

寒河江氏の祖である鎌倉幕府初代政所別当大江広元は、文治5年(1189年)の奥州合戦奥州藤原氏を滅亡させた際の論功行賞で、長井荘置賜郡:現在の置賜地方)および寒河江荘寒河江市および西村山郡北村山郡の一部)の地頭職を得て[2]、広大な領地を拝領した。文治6年(1190年)寒河江荘には目代として多田仁綱を送り、仁綱は当初本楯(寒河江市本楯)に起居するが後に吉川(西川町吉川)に居を移した。建久3年(1192年)広大な所領は広元の子らによって分割相続され、広元の嫡男大江親広寒河江荘の地頭職を相続するに至った。親広は寒河江八幡宮[注釈 1]産土神とし、長岡山山頂の観音堂を再興、建保2年(1214年)大沼大行院を再建した[3]。また、承久元年(1219年)末弟を慈恩寺別当坊とする[4]など民心の安定につとめた。目代は引続き多田仁綱がつとめ、親広は鎌倉幕府重臣として活躍した。しかし承久3年(1221年承久の乱が起こると、当時京都守護であった親広は後鳥羽上皇方に味方し、幕府側に付いた父広元や息子佐房と争うことになってしまう。広元は大軍による上京策を献策し、また佐房は東海道方面軍の先鋒として参加し、幕府軍の勝利に貢献した。敗れた親広は寒河江荘の内楯(現・寒河江市丸内)に逃れて隠棲する事になったが、父や息子が幕府軍の勝利に貢献したためか、親広に対する追及の手は厳しくなかったようである[5][注釈 2]。しかし親広が幕府に反旗を翻して失脚したため、大江氏の惣領は大江広元死後、長井氏がつとめることとなった。嘉禄元年(1225年)大江広元が鎌倉で息を引き取ると、親広は息子佐房に命じて阿弥陀如来の尊像を彫刻させ、胎内に広元の遺骨を納め、堂社を建てて吉川に安置した[6]。この堂舎は吉川阿弥陀堂と呼ばれ、後に多田仁綱が別当をつとめた。

貞永元年(1232年御成敗式目が制定され承久の乱の親広の罪が許される[注釈 3]仁治2年(1241年)親広から次男高元に伝領された寒河江荘であったが高元が早世したため、妻の藤原親実周防守)の娘に1代のみ相続された。周防守の娘が没すると寒河江荘北方は闕所となって北条氏の所領となり、高元の弟大江広時は北方を除く寒河江荘を相続した。広時および子の大江政広は鎌倉幕府の要職にあり鎌倉に定住していたため、寒河江には目代を送るにとどまった。文永3年(1266年)大沼大行院に大鐘を納めた[8]。建治元年(1275年)5月六条八幡新宮造営費用として15貫を納めた[注釈 4]

13世紀末頃(1200年代終盤)に政広の子の大江元顕が、大江氏族として初めて寒河江に入部したと言われている。弘安8年(1285年)鎌倉幕府内の内訌であった「霜月騒動」の結果、大江氏の一族である大江泰広(佐房の曾孫:殖田又太郎入道[10] )、大江盛広(泰広の子)、大江泰元(泰広の子)らが討死しており、執権北条氏の圧力を避けるための措置であったと推定される[注釈 5]

永仁4年(1296年慈恩寺で大火があり、本堂堂社や諸仏が焼失する。正安元年(1299年)造営が開始され嘉元4年(1306年)完成した。寒河江荘に定着した大江氏も尽力したものと考えられる[12]

正慶2年(1333年)鎌倉幕府が新田義貞に攻め込まれると、同族の大江(小沢)貞広・親顕が執権北条高時に殉じて討死した。貞広の弟懐顕や親顕の子顕広は寒河江氏を頼って落ち延びてきて、時茂の時貫見(大江町貫見)を領している。また後年大沼大行院を相続して雄尊と名乗った。

南北朝時代

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寒河江城概観
 
寒河江城の支城と周辺地形

寒河江大江氏は南北朝時代になると南朝に味方し、建武2年(1335年大江元政陸奥守鎮守府将軍北畠顕家とともに上京して足利尊氏軍と戦い京より追い出す。翌建武3年(1336年)1月、再度の入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏は九州へと落ち延びる(豊島河原合戦)。北畠顕家が延元3年(1338年)に摂津で戦死すると南朝は顕家の弟北畠顕信近衛中将兼陸奥介鎮守府将軍として下向させ、顕信は東北地方を転戦する。元政は顕信と共に主に出羽で戦闘に参加したと考えられ、観応2年/正平6年(1351年)の時点で、以前北条氏に没収された北寒河江荘の回復を果たしている。文和元年/正平7年(1352年足利尊氏が長井備前太郎に対して、寒河江氏が出羽国寒河江荘北方の円覚寺領を横領していることへの対処を求めた[13]がこの命令は不調に終わる。北朝側も延文元年/正平11年(1356年斯波兼頼を山形に下向させ、また延文2年/正平12年(1357年)北朝吉良貞経は寒河江荘における寒河江氏の収奪に対して、足利義詮から取締りを命じられる[14]。元政は数年間斯波兼頼と争ったものの正平14年(1359年)討死したという[注釈 6]。元政の子時茂は寒河江荘を子や兄弟に分割して城や楯を築かせ、北朝の攻撃に備えた[注釈 7]応安元年/正平23年(1368年鎌倉公方足利氏満羽州探題斯波兼頼・奥州管領大崎直持(斯波兼頼の兄)が攻め寄せると漆川(現・月布川)で戦闘となり、総大将溝延茂信はじめ一族61名が犠牲となる大敗を喫す(漆川の戦い)。その後、文中2年(1373年)時の当主大江時氏は北朝の鎌倉公方足利氏満に息子元時を人質として出し和を乞い、本領を安堵されたものの北寒河江荘は斯波兼頼の支配下となる。室町幕府への和睦と前後して、時氏は寒河江郷に移り「寒河江」を称するようになったという[15][16]。このころから寒河江城の整備が始まったと解される。

南北朝時代末期から室町時代初期にかけて、大江氏が寒河江城を整備するに当たり、堀に水を引く必要があることから二の堰(八鍬堰)の整備を行ったとされる[17]。寒河江城の整備と共に城の鬼門にあたる東北隅に惣持寺を建立し祈願寺とした。

室町時代

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天授6年/康暦2年(1380年)、伊達宗遠茂庭行朝らを率いて置賜郡に侵入し、出羽長井氏の本拠地長井荘の一部を占拠し、高畠城を長井荘進出の橋頭堡とした。伊達氏の長井荘侵攻に対して、鎌倉公方足利氏満は救援の兵を出すよう近隣の豪族に命じ、長井氏はその支援を受けて、伊達氏を退却させることに成功した。しかし、伊達氏の侵攻は執拗に続き、元中2年/至徳2年(1385年)宗遠の跡を継いだ伊達政宗 (大膳大夫)の攻撃によって長井荘を横領された。寒河江氏は同族の長井氏の領地を奪った伊達氏と隣接することとなる。

応永6年(1399年稲村篠川鎌倉方の御所が開設されると、伊達氏・大崎氏が反旗を翻し幕府(京都)側がこれを支持したため争いとなり、寒河江氏は鎌倉方につき室町幕府・伊達氏と対立することになった。応永9年(1402年)最上氏・白鳥氏左沢氏などとともに、伊達氏苅田城攻めに参加している[18]。この時の当主寒河江元時は一族の娘を最上氏に嫁がせるなどし、出羽守を称す。元時の頃から出羽吉川氏から別れ、浄土宗の吉川阿弥陀堂に葬られるのではなく、曹洞宗の菩提寺を建立するようになった(1448年頃)。室町初期以降、寒河江荘荘園としての機能を失ったようである(鎌倉円覚寺『領家年貢返抄』)。文明11年(1479年)、文明12年(1480年)伊達氏の侵攻を受けるが、伊達側大将桑折播磨守[注釈 8]を打ち取って撃退した(菖蒲沼の戦い)。ほどなく伊達氏と和議が結ばれたようで、同年慈恩寺そばの合戦場を見渡せる地に、桑折播磨守の子息らによって菩提を弔う時宗松蔵寺が開かれた[注釈 9]長享3年(1489年)13代知広は長門国大寧寺に寺領を寄進し子院として澄江院を建立した。当時住職を務めた大叔父の全岩東純を頼ったものである[19]

戦国時代

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永正元年(1504年寒河江宗広の死によって、幼少の正嫡(孝広)と庶長子の間で後継者争いが発生する。この混乱に乗じた最上氏にたびたび攻められるが、これを退けている(ただし、書籍によっては降伏したともいう[要出典])。このときの兵火で慈恩寺は一山が焼失してしまう。永正6年(1509年関東管領上杉顕定の越後遠征に対して伊達氏配下国分胤重 (平五郎)から派兵の要請があり、派兵している[20]。永正9年(1512年庄内大宝寺氏砂越氏が争うと、勝者の村山地方への進出を警戒し、最上義定が寒河江まで軍を進めた。永正11年(1514年伊達稙宗が最上氏領内に侵入すると寒河江氏は最上義定に援軍を出し、長谷堂(山形市)で戦闘となって楯岡・長瀞・山辺式部とともに一族の吉川政周が討ち死した。翌永正12年(1515年)最上氏と伊達氏の和睦が成立し、稙宗の妹が最上義定に嫁ぐこととなった。この和睦の仲介をしたのは寒河江氏一族の白岩満教であったという(『安中坊系譜』)。 永正17年(1520年)最上義定が嗣子のないまま死去すると、義定未亡人を介して伊達稙宗に影響力を行使されることを嫌った諸将が反旗を翻し、伊達氏と最上氏の対立が起こる。稙宗は破竹の勢いで上山山形天童高擶たかだま[注釈 10]を落とすと翌大永元年(1521年)寒河江を攻める。この時伊達軍は葛西相馬岩城会津宮城国分・最上の軍勢を集結し、高瀬山(現・寒河江市高瀬山)から八幡原(現・寒河江市元町)にかけて陣を敷いた。一か月に及ぶ滞陣の間に伊達氏と寒河江氏の間で和議を結び、戦火を交えず伊達軍は引き上げた。

その後伊達氏は天文の乱により勢力を減衰させるが、乱に介入した最上氏が自立し勢力を伸張するようになる。この頃、庄内の土佐林禅棟寒河江兼広最上義守間で同盟を結ぶ動きがある(土佐林禅棟八月六日付寒河江殿宛書状)。しかし、三月一日付書状によるとこの同盟はうまくいかなかったようである[21][22][注釈 11]

永禄3年(1560年)最上義守・義光に寒河江を攻められるが中野門田で戦い撃退する[23]。永禄8年(1565年)将軍足利義輝松永久秀らに弑逆しぎゃくされ、近侍していた蜷川親世[注釈 12]は所領を失って没落し寒河江氏庶流高松左門を頼って落ち延びた。親世は出羽国村山郡金谷原(現:寒河江市柴橋)で永禄12年(1569年)11月14日に亡くなり、金谷原の土佐壇に葬られた。蜷川氏の主君である伊勢氏と土佐林氏の関係と、前述の寒河江氏・土佐林禅棟のやり取りから、親世は土佐林氏を頼って出羽まで落ち延びたが、土佐林氏の都合により寒河江氏に身を寄せたとの説を寒河江市史は取っている[24]

元亀元年(1570年)頃から最上義守と子の義光の間で内紛がおこり、天正2年(1574年)義守の娘婿である伊達輝宗と義守連合軍は白岩氏・溝延氏・左沢氏(ともに寒河江氏の庶流)とともに義光派の寒河江城を攻め落としている。その後義光と伊達氏は和睦を結び寒河江氏は伊達氏にくみするようになる(天正最上の乱)。

家督を相続した最上義光は内紛で敵対した勢力を徹底して討伐し勢力を拡大した。寒河江兼広と最上義光の間には、義光の長男最上義康を兼広の娘婿とする密約があったが、家臣団はこれを反故にし、一門の吉川元綱の長子寒河江高基を婿として、当主に迎えた。しかしこれは、最上氏のみならず、同族の左沢氏政溝延氏勝の反発を招いた。天正9年(1581年)から天正10年(1582年)にかけて最上義光は新庄を中心に大宝寺氏(武藤氏)と争う。天正11年(1583年)大宝寺氏配下の前森氏(東禅寺義長東禅寺勝正)が謀反を起こし武藤氏の居城尾浦城(現・鶴岡市大山)は取り囲まれてしまう。高基は縁戚関係にあった大宝寺義氏の救援に自ら向かうが、到着前に義氏が自刃してしまったため引き返した。天正12年(1584年白鳥長久山形城で誘殺されると寒河江高基最上義光に攻められ、高基の弟柴橋頼綱(橋間勘十郎)を中心に迎え撃ったが敗北する。当主高基は自刃、約400年間にわたり寒河江荘を支配した寒河江氏は滅亡した。

その後

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この結果、寒河江氏嫡流は絶えたが、滅亡後蘆名氏のもとに逃れていた出羽吉川氏嫡流の寒河江良光(寿斎君)が最上氏の縁戚(外祖父天童頼澄の姉妹が最上義光側室)だったことや、寒河江旧家臣団の嘆願もあったことから、良光は最上義光の許しを得て大江氏の別当安中坊を再興し名跡を残した。慶長五年慶長出羽合戦谷地城攻防戦に出陣したという。その後寒河江城に入った最上義康の配下となり、「最上義光分限帳」によれば無役衆として一千石を領している。しかし慶長8年最上義康が討たれた際、息子共々討死したという(安中坊系譜)。また、一族の寒河江広俊(肥前守)[注釈 13]が最上家に仕え2万7千石の知行を得、寒河江光俊(外記)は徳川家康への使者や豊臣秀吉の出羽検地に伴う仙北一揆の鎮圧、由利十二頭の平定などで活躍した。山形城三の丸の最上家臣の敷地の中で寒河江氏の屋敷地が最も広く[25]、厚い信頼を受けていたことが分かる。

最上義光が没するとそれにしたがって4名が殉死するが、寒河江氏から寒河江肥前・寒河江十兵衛[注釈 14](墓所:共に山形市光禅寺)が殉死している。最上家が改易となると、寒河江氏を称する家臣たちは会津藩蒲生氏(寒河江親清)・水戸藩徳川氏(寒河江勝永)・前橋藩松平氏(寒河江勝昌)・福井藩松平氏(寒河江信安)などへ仕えた[26]。また、安中坊は金仲山無量寿院と名を変え、阿弥陀堂領として御朱印地を受け幕末まで続いた。

初代大江親広が再建したとされる長岡観音は、慶応3年(1867年)長岡山に寒河江・柴橋代官所を建設することになり長念寺に移された。また寒河江城主の祈願寺であった惣持寺は廃仏毀釈で廃れて廃寺となり、伝来の物品は末寺筆頭長念寺に譲渡された[要出典]菩提寺として安中坊(吉川阿弥陀堂跡)[注釈 15] ・長松寺跡[注釈 16]宝幢寺[注釈 17](現・祐林寺)・千手院(廃寺跡)[注釈 18]澄江寺[注釈 19]・法泉寺[注釈 20]・陽春院[注釈 21]・福泉寺[注釈 22]・常林寺[注釈 23]・光学院[注釈 24]などが残る。

系図

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正四位陸奥守
大江広元
 
正五位下武蔵守
大江親広(1)
 
木工助
大江広時(2)
 
少輔助太郎
大江政広(3)
 
上総介
大江元顕(4)
 
因幡守
大江元政(5)
 
上総介
大江時茂(6)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
左衛門尉
時広長井氏
 
 
高元
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊豆守
懐広(柴橋氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
掃部助
宗元那波氏
 
 
尾張守
佐房上田氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕広(高松氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
左近将監
季光毛利氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小沢広顕
 
貞広
 
顕広
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
刑部権少輔
忠成海東氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
懐広
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尊俊(慈恩寺別当)
 
 
 
 
 
 
重祐
 
元氏
 
幸海
 
 
 
 


時茂(6)
 
式部少輔
茂信(7)(溝延氏
 
大蔵少輔
寒河江時氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
備前守
家広(出羽吉川氏
 
備前守
元家
 
備前守
教広
 
弾正少弼伊予守
頼元
 
頼俊
 
兵部少輔
政周
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
政広(白岩氏
 
 
七郎
尊広(溝延氏
 
孝満
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
弾正忠
元時(左沢氏
 
式部少輔
氏政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
冬政(荻袋氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大蔵少輔
寒河江時氏(8)
 
出羽守
元時(9)
 
兵部大輔
元高(10)
 
 
宮内少輔
高重(11)
 
広重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上総介
元詮(高屋氏
 
 
 
 
 
 
右兵衛佐
為広(12)
 
出羽守
知広(13)
 
因幡守
宗広(14)
 
太郎四郎
孝広(15)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幸道
 
 
 
 
 
 
兵部大夫
広種(16)
 
 
 
 



兵部少輔
吉川政周
 
備前守
広政
 
兵部少輔
政時
 
民部少輔
元綱
 
少輔助二郎
隆広
 
安中坊壽齋
良光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋間勘十郎
柴橋頼綱
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寒河江広種(16)
 
太郎四朗
兼広(17)
 
 
少輔太郎
高基(18)
 
 


寒河江良光
 
吉長
 
道空
 
義綱
 
広興
 
広隆
 
広照
 
広顕
 
広秀
 
広親
 
広豊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


広豊
 
広信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広満
 
広丸
 
 
弘弥
 
 
 
 
 

支流

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譜代

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大江広元期

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大江親広期

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戦国時代

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寒河江城二の丸・三の丸に以下の家名が見える[27]

  • 工藤氏 - (八鍬)
    公平氏新田氏を祖とする)、富沢氏、安孫子氏、小泉氏、萩野氏、齋藤氏、逸見氏、大沼氏、片桐氏、和田氏、窪田氏、江目氏、三瓶氏、篠原氏、阿部氏など。

脚注

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注釈

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  1. ^ 寒河江八幡宮の由緒によると、1093年の創建当初は八幡原(寒河江市元町・若葉町)に存在したが親広によって再度勧請され現在地に社殿が建立されたという。
  2. ^ また大江一族の者や長崎中山氏の祖となる中山忠義なども共に下向している。
  3. ^ 親広の子広時が相続したのは寒河江荘の南方であり、寒河江荘北方は北条氏領となったため、乱の結果没収されたと考えられる[7]
  4. ^ 「造六条八幡新宮用途支配事」鎌倉中 少輔入道跡。大江氏一族では長井氏が180貫、毛利氏が20貫、那波氏が30貫。鎌倉住の近隣諸侯では中条氏小田島荘)が100貫、伊達氏伊達郡)が25貫、相馬氏小野寺氏が30貫[9]
  5. ^ 毛利季光の孫宗元も寒河江荘に下向したとみられる[11]
  6. ^ この戦いで元政の弟懐広・顕広も討死したとされる。
  7. ^ 寒河江城溝延城白岩城左沢楯山城および柴橋・小泉・高屋・荻袋・見附など各楯「金仲山眼明阿弥陀尊略縁起」
  8. ^ 桑折氏は伊達氏4代伊達政依の子親長を祖とする一族。
  9. ^ 後に慈恩寺三ヶ院の一つ最上院配下、滅罪の寺となった。『院坊の文化財 図録』
  10. ^ このとき援軍に赴いた寒河江氏家臣7名が捕虜となった。
  11. ^ これらの書状は年次を欠くが、武田喜八郎によれば、土佐林禅棟が出家して杖林斎を名乗った天文10年(1541年)から禅棟が死去した元亀2年(1571年)までのものであり、1560年以降寒河江氏および庄内大宝寺氏と最上氏の間では争いが続発することから年代はもう少し絞られる。
  12. ^ 幕府政所代(沙汰人)。
  13. ^ 戒名:眞庭是正居士。光禅寺墓石
  14. ^ 戒名:活翁快吉居士。光禅寺墓石
  15. ^ 初代親広から8代時氏および出羽吉川氏菩提寺
  16. ^ 大江時茂菩提寺
  17. ^ 寒河江元時菩提寺
  18. ^ 寒河江元高菩提寺
  19. ^ 寒河江知広菩提寺
  20. ^ 寒河江宗広菩提寺
  21. ^ 寒河江孝広菩提寺
  22. ^ 寒河江広種菩提寺
  23. ^ 寒河江兼広娘、高基妻の琴姫開基
  24. ^ 寒河江高基菩提寺

出典

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  1. ^ a b c 太田 1934, p. 2498.
  2. ^ 鈴木 1984, p. 247, 「安中坊系図」.
  3. ^ 寒河江市史編さん委員会 2001, p. 193, 「大沼大行院系図」.
  4. ^ 寒河江市史編さん委員会 1994, p. 425.
  5. ^ 寒河江市史編さん委員会 1994, p. 358.
  6. ^ 寒河江市史編さん委員会 2001, p. 92, 「安中坊系譜」.
  7. ^ 寒河江市史編さん委員会 1994, p. 366.
  8. ^ 寒河江市史編さん委員会 2001, p. 194, 「大沼大行院系図」.
  9. ^ 寒河江市史編さん委員会 2001, p. 390.
  10. ^ [熊谷直之所蔵文書]「安達泰盛乱自害者注文」、「安達泰盛乱聞書」
  11. ^ 寒河江市史編さん委員会 1994, p. 372.
  12. ^ 寒河江市史編さん委員会 1994, p. 376.
  13. ^ 「瑞泉寺文書」『大日本史料』第6編17冊4頁
  14. ^ 東京大学史料編纂所編 1924, p. 240.
  15. ^ 『安中坊系図』
  16. ^ 寒河江市史編さん委員会 2001, p. 284, 「金仲山眼明阿弥陀尊略縁起」.
  17. ^ 寒河江市史編さん委員会 1994, p. 416.
  18. ^ 寒河江市史編さん委員会 2001, p. 588, 「戸沢家譜」.
  19. ^ 寒河江市史編さん委員会 2001, p. 303, 「徳蔵院伝記」寒河江市教育委員会所蔵.
  20. ^ 寒河江市史編さん委員会 1994, pp. 703–704.
  21. ^ 寒河江市史編さん委員会 1994, pp. 755–758.
  22. ^ 武田喜八郎 1984, pp. 87–100.
  23. ^ 片桐繁雄ほか 1998, p. 223.
  24. ^ 寒河江市史編さん委員会 1994, p. 758.
  25. ^ 『山形城下絵図』、山形県立博物館所蔵
  26. ^ 伊藤 2016, p. 253.
  27. ^ 天文3年(1534年)制作(天正4年(1576年)銘)「寒河江城古絵図」『寒河江大江城古絵図 寒河江本郷六ケ村絵図寒河江村屋敷割図』

参考文献

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  • 伊藤清郎 著、日本歴史学会 編『最上義光』 通巻285、吉川弘文館〈人物叢書〉、2016年3月。ISBN 9784642052788NCID BB2085710X 
  •  太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 寒河江 サガエ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2498-2500頁。 NCID BN05000207OCLC 673726070全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/343 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 片桐繁雄ほか『最上義光合戦記』(再編復刻)株式会社ヨークベニマル、1998年9月。 NCID BA38541481 
  • 小林清治編 『戦国大名論集2 東北大名の研究』、吉川弘文館、1984
  • 寒河江市史編さん委員会 編『寒河江市史』 上巻 (原始・古代・中世編)、寒河江市、1994年5月。 NCID BN11533531全国書誌番号:95022560 
  • 寒河江市史編さん委員会 編『寒河江市史』 [史料編 2] (大江氏ならびに関係史料)、寒河江市、2001年3月。 NCID BA52392891OCLC 48077251全国書誌番号:20161764 
  • 寒河江郷土史研究会 『寒河江大江城古絵図 寒河江本郷六ケ村絵図寒河江村屋敷割図』 1985
  • 武田喜八郎「山形・曽根家の中世文書の写本について」『山形県地域史研究』第10号、山形県地域史研究協議会、1984年12月、87-100頁、ISSN 02877295全国書誌番号:00038235 
  •  東京大学史料編纂所編国立国会図書館デジタルコレクション 大日本史料』 第6編之21、東京大学、1924年11月30日。全国書誌番号:73016128https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450567/150 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 山形県寒河江市教育委員会 『院坊の文化財 図録』、2012

関連項目

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