酒井 忠匡(さかい ただまさ)は、江戸末期の大名、明治期の日本華族子爵)。

 
酒井忠匡
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 安政3年12月19日1857年1月14日
死没 明治44年(1911年4月30日
墓所 谷中霊園天王寺墓地
官位 従五位下・大学頭、正三位子爵
幕府 江戸幕府
出羽松山藩8代(最後)藩主
氏族 左衛門尉酒井家分家
父母 父:酒井忠良、母:晴(大岡忠固五女)
植田稙乗の娘
大木喬任の娘、某氏
忠晄、長女・孝子(木村甚三郎妻)
次女・克子(賀島政一妻)
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左衛門尉酒井家分家8代目当主で、出羽松山藩第8代(最後)藩主、松嶺藩初代(最後)知藩事。

生涯

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安政3年(1856年12月19日に7代藩主・酒井忠良の三男として生まれる。明治元年(1868年12月、父が戊辰戦争幕府側に与したため強制隠居処分となり、家督を継いだ。

明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となる。このとき、松山を松嶺と改名した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県で免官される。

明治前期の忠匡の住居は東京市浅草区浅草にあった。当時の家扶は鈴木力、加藤寔守、中村一致[1]

明治17年(1884年)、華族に列して子爵となる。

明治44年(1911年4月30日、56歳で死去した。

家族

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父母

子女

脚注

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  1. ^ 石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/111 国立国会図書館デジタルコレクション 
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
松山酒井家初代
1884年 - 1911年
次代
酒井忠晄