酒井 忠恒(さかい ただつね)は、江戸時代後期の大名上野伊勢崎藩の第7代藩主。雅楽頭系酒井家支流7代。

 
酒井忠恒
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 文化8年10月15日1811年11月30日
死没 慶応4年6月14日1868年8月2日
改名 忠恒→培堂、寸舛(号)
戒名 柳鳳院殿
墓所 東京都葛飾区高砂町の崇福寺
官位 従五位下、出雲守、志摩
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
上野伊勢崎藩
氏族 雅楽頭酒井家
父母 父:酒井忠寧、母:多加(牧野宣成の四女)
養父:酒井忠良、養母:森忠賛の四女)
兄弟 忠良忠恒
正室:滝子(京極高賢の娘)
板倉勝全忠強忠彰忠邦
娘(前田安之丞室)、春子(前田利昭正室)
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文化8年(1811年)10月15日、第5代藩主・酒井忠寧の次男として生まれる。天保2年(1831年)5月、兄で第6代藩主の忠良が隠居したため、養子としてその跡を継いだ。天保5年(1834年)に勧農役を設置するなどして主に農政に尽力するが、天保7年(1836年)に伊勢崎大火が起こって大被害を受け、財政難に陥った。嘉永4年(1851年)4月7日、四男の忠強に家督を譲って隠居して培堂と号し、以後は文学の世界に進んだ。

慶応4年(1868年)6月14日に死去。享年58。

系譜

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父母

正室

側室

  • 津田氏

子女