酒井 忠宝(さかい ただみち)は、江戸末期大名明治から大正期の日本華族。位階は従三位

 
酒井忠宝
時代 江戸時代末期(幕末) - 大正時代
生誕 安政3年6月13日1856年7月14日
死没 大正10年(1921年9月17日
墓所 山形県鶴岡市家中新町の大督寺
官位 従五位
庄内藩
氏族 左衛門尉酒井家第14代当主
父母 父:酒井忠発、母:鐐子(徳川斉匡の八女)
兄弟 忠恕、忠篤忠宝、忠庸、忠利、娘(稲葉正邦正室娘)、娘(本多康穣正室)、娘(鳥居忠宝正室)娘、(大河内輝声正室)、娘(松平忠和正室のち戸沢正実継々室)
すず子遠藤胤城長女)
忠純、忠和、鑑子(稲葉順通室)、銑子(安田善次郎室)、鉐子(久須美東馬室)、淑子(西脇健治室)
忠良
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第9代出羽庄内藩酒井忠発の六男で、兄忠篤の蟄居後に酒井佐衛門尉家第18代当主となり、会津藩主、磐城平藩主を経て、庄内藩(大泉藩と改称)の藩主・知藩事を務めた。正室は遠藤胤城の娘。

経歴

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戊辰戦争で兄・酒井忠篤官軍に降伏し、永蟄居処分にされた後、御家再興を許されて忠宝が藩主に就任した。明治元年12月15日(1869年1月27日)に陸奥会津藩、明治2年6月15日(1869年7月23日)に陸奥磐城平藩に移封となるが、70万両[1]を献納したため同年7月22日に庄内藩へ戻る[2]

同年に版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官。明治13年(1880年)2月、隠居し、忠篤に家督を譲る。忠篤の当主復帰ということである。大正10年(1921年)、66歳で死去[2]。忠篤の長男である酒井忠良を養子としている。

栄典

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親族

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脚注

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  1. ^ 明治政府への嘆願により30万両まで減額されたという文献が存在する。
  2. ^ a b 『新編庄内人名辞典』p.329
  3. ^ 『官報』第2391号「叙任及辞令」1891年6月20日。
  4. ^ 『官報』第5089号「叙任及辞令」1900年6月21日。
  5. ^ a b c d e 酒井忠良 (男性)日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース(名古屋大学)
  6. ^ 小笠原忠幸の義父

参考文献

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  • 庄内人名辞典刊行会編『新編庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会、1986年。
先代
安藤信勇
酒井氏磐城平藩主
1869年
次代
安藤信勇