ジャック・ヴィルヌーヴ

カナダのレースドライバー
Jacques Villeneuveから転送)

ジャック・ジョゼフ・シャルル・ヴィルヌーヴJacques Joseph Charles Villeneuve, 1971年4月9日 - )は、カナダ出身のレーシングドライバー。 1995年のインディカー・ワールド・シリーズチャンピオン、同年のインディ500優勝者、1997年のF1ワールドチャンピオン。一般的な愛称はJV

ジャック・ヴィルヌーヴ
ジャック・ヴィルヌーヴ (2010年)
基本情報
フルネーム ジャック・ジョゼフ・シャルル・ヴィルヌーヴ
略称表記 VIL
国籍 カナダの旗 カナダ
出身地 ケベック州の旗 ケベック州
サン=ジャン=シュル=リシュリュー
生年月日 (1971-04-09) 1971年4月9日(53歳)
F1での経歴
活動時期 1996-2006
過去の所属チーム '96-'98 ウィリアムズ
'99-'03 BAR
'04 ルノー
'05 ザウバー
'06 BMWザウバー
出走回数 165 (163スタート)
タイトル 1 (1997)
優勝回数 11
表彰台(3位以内)回数 23
通算獲得ポイント 235
ポールポジション 13
ファステストラップ 9
初戦 1996年オーストラリアGP
初勝利 1996年ヨーロッパGP
最終勝利 1997年ルクセンブルクGP
最終戦 2006年ドイツGP
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略歴

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レースキャリアの始まり

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1971年4月9日、カナダ・ケベック州に生まれる。7歳の時、伝説的なF1レーサーである父ジルと共にヨーロッパに渡り、11歳の時に父を事故で失った後も、家族と共に在住した。しかし、母ジョアンが父と同じレーサーの道を歩むことを嫌ったため、スイスの寄宿学校に入学することになった。成績は優秀で、特に数学と物理の成績が秀でていた。また運動神経も優れており、スキーの腕前も秀でていたため、プロスキーヤーを目指していたともされる。なお、この寄宿学校の体育教師が、のちにマネージャーを務める事になるクレイグ・ポロックである。

しかし15歳になると、ドライバーを育成するジム・ラッセル・レーシングスクールの3日間コースを経験。翌年にはスペナ・デービッド・レーシングスクール(: Spenard-David Racing School)に入学し、父と同じ道をたどる事を決意する。1990年代以降、F1のトップドライバーは幼少期からカートでレースキャリアを積む例が多い中で、ジャックは遅めのスタートを切ったと言える。このことはヨーロッパのレース界でニュースとなり、ジルが伝説を築いたフェラーリの地元イタリアにも流れ、イタリアのツーリングカーレースに出場するチャンスを獲得した。

「ヴィルヌーヴ」の名を持つジャックがスポンサー探しに苦労する事もなく[1]、彼にとってレースキャリアを始める事は比較的容易なものであった。しかし、それと同時に大いに苦しめらめる事もあった。ジャック自身の将来に周囲が大きな期待を寄せるのは明白であり、父との共通点を探そうと必死なパパラッチ、父のファンの期待に応えなければならないという責任感、そして父の存在は当時17歳の自身にとって計り知れないほどのプレッシャーとなった。

フォーミュラ3

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1989年にイタリアF3選手権で本格的にレースデビューを果たすが、初めの2年間は目立った成績を残せなかった。しかし、3年目の1991年になると結果が出始め、日本トムスからオファーを受けた。父の親友であるパトリック・タンベイのアドバイスもあり、翌1992年から全日本F3選手権に参戦する事を決意する。

空前のF1ブームに沸く日本では、1991年日本GP開催時に伝説の2代目ことジャック・ヴィルヌーヴの全日本F3デビューを報じるマスコミもあった。 この時期、東京都目黒区都立大周辺に住んでいた。

日本では父親が神格化されたヨーロッパと違ってジャック自身がさほど注目されることがなく、故に街中で注目を集めたり騒がれたりすることもなく、ミカ・サロエディ・アーバインなど、同じく日本で活躍する外国人レーサーとの交友や、自身の趣味に没頭することなどが出来た。このシーズンは3勝を挙げ、アンソニー・レイドに次ぐ総合2位と好成績を残した。そして、この年には高校時代の恩師であり親友でもあるクレッグ・ポロックと再会し、彼をマネージャーとした。以後、ジャックは急速に頭角を現すことになる。

北米での活躍

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1995年のインディ500優勝マシン

1993年にはポロックの手引きもあり、北米レースの登竜門フォーミュラ・アトランティックフォーサイス・グリーン・レーシングから参戦し、シーズン15戦中5勝を挙げ総合3位に入る。モントリオールジル・ヴィルヌーヴ・サーキットで行われたレースで優勝したことにより、自国の英雄である父の名を冠したサーキットで、その息子が表彰台の頂点に登ることとなった。

1994年には、チームとともに当時のアメリカン・フォーミュラの最高峰であるインディカー・ワールド・シリーズにステップアップ。第4戦インディ500では2位に入り、第14戦ロード・アメリカでは強豪ペンスキーチームのアル・アンサーJr.エマーソン・フィッティパルディポール・トレーシーとバトルを繰り広げて追い抜き、初優勝を飾るなど[2]好成績を収めた。最終的に総合6位に入り、この年のルーキーオブザイヤーを獲得。

1995年には体制変更によりチーム・グリーンとして参戦。父ジルの象徴でもあったカーナンバー27を背負い、インディ500では途中2周(5マイル)のペナルティを受けながらも計505マイルを走りきり優勝した。これを含めシーズン4勝を上げ、参戦2年目にしてインディカー史上最年少のシリーズチャンピオンという偉業を成し遂げた。

F1デビューから王者へ

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1996年 カナダGP

バーニー・エクレストンの後押しもあり、1996年からF1に転向。当時屈指の強豪であったウィリアムズルノーから参戦を開始し、初年度からその才能を遺憾なく発揮する。デビュー戦となった開幕戦オーストラリアGPでは、史上3人目となるデビュー戦でのポールポジション獲得[3]という偉業を達成。決勝でもファステストラップを記録しながら残り5周までトップを快走し、史上初[4]のデビュー戦ポール・トゥ・ウィンおよびハットトリックを達成するかと思われたが、レース終盤に発生したオイル漏れによりペースダウンを余儀なくされ(後ろにつけていたチームメイトのデイモン・ヒルは「ジャックのファッションセンスは大雑把に見えるが、レース運びも似たようなものがあるんだ。レース中にコースアウトした際にどこかをぶつけたようで、オイル漏れが発生したように見えた」と分析している[5]。)、惜しくも2位に終わる。第4戦ヨーロッパGPでは、前年王者のミハエル・シューマッハとの接近戦を制してF1初優勝を達成。その後はコースによる得意不得意の差が出る事もあったが、後半戦で3勝を加えるなど、チームメイトであるヒルを猛追。最終戦日本GPまでチャンピオン争いを繰り広げるが、前半戦での結果の差が響いて最終的にはヒルに次ぐランキング2位に終わった。

参戦2年目となる1997年には、ヒルの放出によりチームメイトにハインツ・ハラルド・フレンツェンが加入。皮肉にも名実共にエースドライバーとなり、チャンピオン最有力候補に挙げられた。しかしチーフデザイナーだったエイドリアン・ニューウェイがヒル放出劇に激怒[6]、更にチーム株保有を巡る意見の不一致から、前年11月にウィリアムズを喧嘩別れの形で離脱する。その結果、ニューマシンFW19の戦闘力が前年と比べて安定性を欠き、自身やチームの戦術のミスなども目立ち、タイトル争いは急速に戦力を上げたフェラーリのミハエル・シューマッハとの混戦模様となる。第16戦日本GPではフリー走行中の黄旗無視により、過去の違反累積から「執行猶予付き1戦出場停止」の立場にあったため、レース後に失格処分を受け、1点差のランキング2位で最終戦ヨーロッパGPを迎える。スタートで先行したシューマッハを追い上げ、ヘアピンコーナーでインからオーバーテイクを試みる。これをブロックしたシューマッハと接触し、マシンにダメージを負いながらも3位で完走し、父ジルが果たせなかったF1ワールドチャンピオンの夢を実現した(接触後にリタイアしたシューマッハはシーズン後、国際自動車連盟 (FIA) から選手権からの除外処分を受けた)。なお、シューマッハとはこの年、奇遇なことに一緒に表彰台に立つことはなかった。2020年現在、非ヨーロッパ人のF1チャンピオンはこの年のヴィルヌーヴが最後である。前年のデイモン・ヒル、2016年のニコ・ロズベルグはそれぞれ親子2代でチャンピオンとなっているが、「2世ドライバーのチャンピオン」はジャックが2人目である。

1998年は、前年限りのルノーがワークス活動から撤退したことにより、FW20は1997年のルノーエンジンであるRS9をベースに改良したメカクロームエンジンを搭載したことや、1996年11月のニューウェイ離脱によるシャシーの戦闘力低下などによりウィリアムズはコンストラクターズ3位と前年の1位から低迷することになった。その結果ジャックは未勝利に終わり、表彰台も第11戦ドイツGP第12戦ハンガリーGPで獲得した3位2回と、不本意な結果でシーズンを終えた。

B・A・R時代

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BAR時代のヴィルヌーヴ(2001年カナダGP)

1999年、マネージャーであるポロックがブリティッシュ・アメリカン・タバコ (BAT) とレイナードと協力し、名門ティレルを買収して「ブリティッシュ・アメリカン・レーシング(B・A・R)」を設立した。ジャックはB・A・Rに移籍したが、新参チームにありがちなトラブルが多発。予選では7回トップ10に食い込んだものの、開幕戦から11戦連続リタイアという不名誉な記録を残し、ベルギーGPではチームメイトのリカルド・ゾンタ共々オールージュで大クラッシュを演じたこともあった。この年の最高位はイタリアGPの8位完走に終わり、ゾンタ共々この年は1ポイントも獲得できなかった。

2000年、B・A・Rはシャシーコンストラクターとしての参戦を見送ったホンダからエンジン提供を受け、昨年に比べるとマシン性能も飛躍的に向上した。トップチームを脅かすまでには至らなかったが、リタイアは4回と大幅に減少し、7回ポイントを獲得するなどの活躍を見せた。

2001年には第5戦スペインGPで3位入賞してチームに初表彰台をもたらし、第12戦ドイツグランプリでも3位表彰台を獲得したが、優勝争いに絡むまでには至らず、それどころかシーズンを通しての入賞は4回に留まり、成績自体は前年よりも下がってしまった。2001年の11月にはポロックがB・A・Rのチーム代表を辞任し、代わってデビッド・リチャーズが就任したことで、チームとの関係が悪化する。

2002年はさらに成績が落ち、入賞はわずか2回で4ポイントのみの獲得と不本意なシーズンに終わり、高給取りであるジャックに対する風当たりが強まっていく。シーズンオフにはCARTでも所属したフォーサイス・レーシングから3年5000万ドルでのオファーがあったが、ポラックがそれ以上の金額を要求したこともあって交渉は決裂となった。

2003年は若手イギリス人ドライバーのジェンソン・バトンが新加入し、バトンが着実に結果を残していくとチームの支持がバトンに移り、最終戦日本GP直前にはチームが翌年のレギュラーシートを佐藤琢磨に与えると発表すると、ジャックは急遽参戦を取り止め、そのままチームを去った。翌年に向けてルノーやザウバー、かつての古巣ウィリアムズと交渉を持ったものの不調に終わり、しばしの浪人生活を送ることとなった。

F1からの離脱

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ザウバー時代のヴィルヌーヴ(2005年カナダGP)
F1ラストレースとなった2006年ドイツGPのリタイアシーン

2004年は、シーズン終盤にルノーがヤルノ・トゥルーリを放出したことを受け、中国GPからブラジルGPまでの3戦に出走。BARとのコンストラクターズ2位争いの助っ人として期待された。ほぼ1年のブランクがあったことも影響したのか、復帰直後はフェルナンド・アロンソとの差が大きかったが、ブラジルGPではアロンソのベストラップに迫る記録を残した[7]

2005年は、中堅ザウバーのレギュラーシートを獲得。しかし、本人曰くチームの資金不足もあってエンジンブレーキの改善に苦戦し、若いチームメイトのフェリペ・マッサにパフォーマンスで劣ることも少なくなく、最高位はサンマリノGPの4位だった。その後BMWへのチーム売却が決まると放出の噂が付きまとったが、BMWはヴィルヌーヴがザウバーと交わした2年契約を尊重したため、翌年も残留が叶った。

2006年シーズンは、第2戦で新生BMWザウバーに初のポイントをもたらし、予選でも速さを見せ存在感を示した。しかし、チームメイトのニック・ハイドフェルドに対して決勝レースで遅れを取ることも少なくなく、第11戦フランスGPを終えた時点でハイドフェルトが入賞6回13ポイントを獲得していたのに対し、入賞4回7ポイントに留まっていた。第12戦ドイツGPではハイドフェルドと接触しリタイアとなり、レース後クラッシュの後遺症による次戦の欠場が発表された。その際にレース中のハイドフェルドとの接触を巡りチームと衝突したとの報道もあり、新鋭ロバート・クビサにシートを譲る形で、8月にBMWザウバーから離脱した。このドイツグランプリが結果としてヴィルヌーヴのF1での最後のレースとなっている。

各種レースへの挑戦

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NASCAR・スプリントカップに参戦するヴィルヌーヴ(2008年)

F1離脱後はドイツツーリングカー選手権 (DTM) への参戦が噂されたが、2007年はプジョーと契約し、ル・マン24時間レースに出場した。インディ500、インディカー・ワールド・シリーズ(CART)、F1に続く史上初の4冠達成が期待されたが、リタイアに終わった。

2007年シーズン終盤にはアメリカのストックカーレースであるNASCARネクステルカップシリーズおよびブッシュシリーズにビル・デイビス・レーシングから参戦したが、上位入賞は果たせなかった。

2008年は、長年のマネージャーであるグレイグ・ポロックと決別し、インディカー時代の所属チームの監督でもあるバリー・グリーンと再スタートを切ることになった。しかしスポンサー関係のトラブルが明らかになり、ネクステルカップ開幕戦のデイトナ500で予選落ちした直後に、2008年シーズン無期限の欠場が所属チームから発表された。

 
NASCAR参戦中のヴィルヌーヴ(2012年)

その後、ストックカーによって争われるスピードカー・シリーズへのスポット参戦が決定し、F1バーレーンGPと併催されたバーレーンラウンドと、最終戦であるドバイラウンドに参戦したが下位入賞に留まった。

また、前年に続いてプジョーからル・マン24時間レースに出場し、総合2位を獲得。スポット参戦となったル・マン・シリーズ第3戦(スパ・フランコルシャン)で、F1時代の1997年ルクセンブルクGP以来、実に11年ぶりとなる優勝を果たした。

2009年以降、NASCARのスプリントカップ・シリーズネイションワイド・シリーズにスポット参戦し続けているが、フル参戦は実現していない。2011年には地元カナダのジル・ヴィルヌーヴ・サーキットにてポールポジションを獲得したが、クラッシュにより勝利を逃した。

その他には、オーストラリアのV8スーパーカーやアルゼンチンのトップレースV6シリーズにスポット参戦している。2012年よりi1スーパーカー・シリーズ英語版へ参戦することが発表されたが、シリーズ開幕が2013年に延期となった[8]

また、2010年より氷上レースのアンドロス・トロフィー英語版シュコダから参戦。2012-2013シーズンにはシトロエンから参戦し、第6戦で初優勝した。

2014年は19年ぶりにインディ500に参戦する。

2015年はヴェンチュリーと契約しフォーミュラEに参戦。しかしクラッシュによるリタイアなどが原因でチームとの関係が悪化、第4戦を前に契約を解除した。

2023年は52歳ながらコデワからWEC世界耐久選手権)のLMハイパーカーであるヴァンウォール・ヴァンダーヴェル 680をドライブするが、ル・マン24時間レースを目前に突如解雇された。ヴィルヌーヴには直接の通知はなく、娘の出産に立ち会うタイミングで公式リリースを知ったという[9]

F1への復帰をうかがう

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他のカテゴリーで戦っていながらも、新参チームの登場や、ストーブリーグの噂の中には常にヴィルヌーヴの名前があり、しばしばメディアに大きく取りざたされた。

2010年にはステファンGPより参戦が噂されそのシートの獲得が濃厚となった。ただし、ステファンGPは正式な参戦権を承認されておらず、このF1復帰に関しては流動的であった。マシンも完成し、シート合わせも完了していたが、最終的にはFIAにチームの参戦が認められなかった[10]

その後、元GP2チームのデュランゴと提携し、「ヴィルヌーヴ・レーシング」として2011年の新規参戦チームにエントリーした[11](スピードカーにはデュランゴから参戦していた)。US F1の消滅で開いた13番目のチーム枠をエプシロン・ユースカディとの間で争ったが、最終的にFIAは新チームを採用しないと発表した[12]。その後、参戦権を持つ既存のF1チームを買収する方向に転換したが[13]、2010年10月末に「F1参戦を断念し、NASCARに集中する」と語った[14]

2013年より、有料テレビ局であるスカイ・イタリアカナル+と契約し、テレビ解説者としてF1に関与している。

人物

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  • カナダのフランス語圏出身(フレンチ・カナディアン)で、フランス語以外に英語、イタリア語に堪能、多少の日本語も理解できる。
  • 血液型は、Rh-O。
  • 一般的な愛称はJVで、国内外のスポーツ記事でよく用いられている。一方で親しい友人からは「New Town(注:Villeneuve の英語訳)」と呼ばれており、自身が経営するモントリオールのレストランにもその名が使われている。
  • 自分のスタイルに拘り、周囲に迎合することを好まない。ウィリアムズでのF1初テストの際には、新人ながらヒルと異なるセッティングを要求し、好タイムをマークした。一方でF1で初めてチームメイトとなったヒルとの関係は良好で、1997年のハンガリーGPではファイナルラップでそれまでトップ独走しながらマシントラブルで急激にラップタイムが失速したアロウズ・ヤマハのマシンを駆るヒルをオーバーテイクしようとした際、ヒルに幅寄せされてダートに乗り上げながら抜き去って優勝した一幕もあったが、レース後は何事もなくお互いの健闘を称え合い、表彰台に登る光景が見られた。この2人には、2世レーサーであること、父親を若くして失っている境遇、さらに音楽が趣味といった共通項がある。
  • 歯に衣着せぬ発言で物議を醸すことが多く、チームメイトへの辛辣な批評をすることもあった。同時期に参戦していた友人エディ・アーバインと並んで、優等生的な現代ドライバーの中では異端児的存在である。とりわけミハエル・シューマッハへの舌鋒は鋭く、そのドライビングマナーを度々攻撃している。2006年10月にはイギリスのインデペンデント紙において、アイルトン・セナアラン・プロストナイジェル・マンセルは長く人々の記憶に残る英雄だが、シューマッハはただのレーサーでしかなく、ヘルメットを脱いだらすぐ忘れ去られてしまうだろうと述べた[15](ただその後両者は和解しており、2010年にシューマッハがF1に現役復帰した際にはシューマッハを称賛するコメントも度々していた[16])。また2017年にヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得したウィリアムズでデビューした同郷の後輩ドライバー、ランス・ストロールに対して「F1史上最悪のルーキー」と酷評しており、ウィリアムズからチームのホスピタリティへの立ち入りが禁止されるほどの批判を繰り返している[17]。また2018年ザウバーからデビュー後に評価を上げたシャルル・ルクレールキミ・ライコネンに代わってフェラーリの正ドライバーに昇格する報道が流れた[18]ことに対し、「フェラーリの来季ルクレール起用は時期尚早、ライコネンの力はまだ必要とされる」「僕ならルクレールの昇格を1年待たせる」と言う見解を示している[19]
  • 記者会見の席上、所属チーム名に冠スポンサー名をつけて表現する(例:ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー)ことを常としており、またシーズンオフのスキーの際にはスポンサーロゴの入ったウェアを着用するなどサービスを忘れなかった。
  • 1997年カナダGPで起きたオリビエ・パニスの大事故について、骨折して戦線離脱を余儀なくされたパニスに関係者・ドライバーらが同情の声を送る中、「(骨折は)スキーではよくあること」と発言している。
  • 交友関係としては、上記のデイモン・ヒルやミカ・サロ、エディ・アーバインのほかに、デビッド・クルサードオリビエ・パニスなどと仲が良い。一方でファン・パブロ・モントーヤとは2001年のF1初対面の時から仲が悪く、この年のカナダGP英語版ではモントーヤが「お前はオーストラリアでマーシャルを殺したな!(同年の同GPでクラッシュしたヴィルヌーヴのマシンがマーシャルを巻き込む死亡事故を起こした一件から)」と暴言を吐いたため、レース前のミーティング時に掴み合いの喧嘩まで発展している。ただ2019年現在はモントーヤとの関係も改善しており、F1のパドックで普通に談笑する仲である[20]
  • 着崩したカジュアルファッションを好み、ウィリアムズのパトリック・ヘッドはそのセンスを「ハイ・グランジ」と呼んだ。レーシングスーツもサイズの大きいダボダボしたものを着用している(耐火安全性の観点からはフィットしたスーツよりも、ダボダボが推奨されている。このチョイスはむしろ高い職業・安全意識に由来するものであり、むしろルックスを安全性より優先させている他のドライバー達への啓蒙・警鐘という説もある)。
  • 趣味のひとつに音楽があり、2006年にCDデビューもしている。
  • 知的な面があり、小説や詩を好み、パソコンマニア、ゲームマニアの顔も持つオタクである。F1参戦時はゲームでコースを覚えたと言って周囲の失笑を買った。しかしながら、現実に、デビュー戦のメルボルンほか、難コースのスパ・フランコルシャンなど、「ゲームでしか走ったことのなかった」コースでポール・ポジションやファステスト・ラップを記録してみせた。これも2000年代に入る頃になると、新コースが増え、またレギュレーションの変更でフリー走行時に多く周回を重ねられない事もあってか、ゲームを含むコンピュータ上でのシミュレーションで事前にコースに慣れるドライバーは多くなっている。
  • 何かと話題になった頭髪については、F1デビュー前後から薄毛が目立つようになった(全日本F3時代には豊かな長髪を後ろで縛るヘアスタイルだった)。1996年の最終戦日本GP後には、友人のミカ・サロ、デビッド・クルサードと共にスキンヘッドになり周囲を驚かせた。以後も「毛根を痛める」と言われながらも、髪をブロンドや紫色に染める事を繰り返した。父ジルがその晩年、周囲からは全然減っていないと言われていたにもかかわらず、しきりと脱毛を気にしていたエピソードとは好対照をなす。
  • 1997年のヨーロッパGPミハエル・シューマッハとの接触後、シューマッハのリタイアで6位以内入賞でチャンピオンが決定するジャックは、クルマの状態を心配して様子を窺いながら走行した。その後、フロントタイヤのブリスターに悩まされたジャックは、マクラーレンミカ・ハッキネンに1周およそ1秒のペースで追い上げられ、最終ラップで抜かれた。ジャックが3位でチェッカーを受けてパルクフェルメにマシンを止めた後、真っ先に駆け寄って来たのは、家族でもチーム関係者でもなく、マクラーレンのチーム代表であるロン・デニスであった[要出典]
  • 自身の父親の名を冠したジル・ヴィルヌーヴ・サーキットでの成績は、上述の通り北米フォーミュラで優勝を遂げてはいるものの、一方でF1では参戦初年度の1996年に獲得した2位が最高であり、それ以降はトラブルやリタイヤなどにより良い成績を残せておらず、当該サーキットとの相性はあまり良くない。
  • ピットイン中にウィングの角度調整する機能を、F1で最初にチームにリクエストし採り入れさせたのはジャックである。(採り入れられたのは1996年アルゼンチンGPの前後)。この機能は前年まで参戦していたインディカーでは既に常識となっていたものである。
  • 2010年バンクーバーオリンピック開会式にて、オリンピック旗を掲揚する際の旗手を務めた。

評価

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思い切りの良いドライビングをよく見せ、深いブレーキを見せることもたびたびである。ただしこのブレーキングスタイルが電気系統を重視した現代のF1と相性が悪かったとされ、2005年移籍後のザウバー時代には「ブレーキング時、電気が勝手に運転している感じで、マシンの挙動が自分の体で感じられない」 とコメントを残している。

1996年のポルトガルGPでは、高速の最終コーナーでフェラーリのミハエル・シューマッハを外側から被せ、並走して追い抜くという大胆なパフォーマンスを見せた。インディカーで培った技術にも定評があり、ベルギーGPやイタリアGPのような高速サーキットやブラジルGPのような左回りのサーキットも得意としていた。一方でモナコGPや雨中のレースは苦手としていた。

フラビオ・ブリアトーレは、ヴィルヌーヴのことを「ファン・パブロ・モントーヤと共に最後のF1のスターであった」と2006年シーズン終盤に評価した[21](奇しくも2人ともシーズン中にF1から離脱)。また、バーニー・エクレストンは「もし、ビルヌーブ(元BMWザウバー)がいいマシンに乗り続けていたら・・・。もし、ミカ(ハッキネン)が現役を続けていたら・・・。(シューマッハが)支配してきたようになったかどうかは、誰にも分からないだろうね[22]」とも語った。

ウィリアムズ離脱後はキャリアの長い期間をB・A・Rで過ごしたが、幾度か移籍の噂もあった。特に父ジルがこの世を去るまで乗り続けたフェラーリに加入する事を望む声も出ていた[23]

そのアグレッシブなドライビング・スタイルとユニークなキャラクターから根強いファンが多く、F1引退後も、「No Jacques, No F1 (ジャックがいなきゃF1じゃない)」 といった旗を掲げるファンもいた。

家族

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2006年にフランス人のジョアンナ・マルチネスと結婚。直後のイギリスGPではBMWザウバーチームが"Just Married"(新婚)と書かれた特製リアウィングをマシンに装着した[24]。その後2児を授かったが、2009年に離婚[25]。2012年にブラジル人のカミーラ・ロペスと再婚した。なお、かつては歌手ダニー・ミノーグカイリー・ミノーグの妹)と交際し、婚約もしていた[26]

ヴィルヌーヴ家は両親、ジャック、妹メラニーという家族構成で、幼少期には家族と共にキャンピングカーでサーキットを転戦していた。父について聞かれるたびに「幼い頃に亡くなったのであまり思い出がない」と答えており、同様な境遇である盟友デイモンが父グラハムの思慕の情を素直に語っているのとは対照的に多くを語ろうとはしなかった。しかし、近年では父にまつわる行事に参加するなど、心境の変化を感じさせている。2004年のクラシックカーイベント、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードでは、父が1978年に乗ったフェラーリ・312T3を、父と同じデザインの赤いヘルメットを被って運転した。2006年には父のセレモニーにもフェラーリ関係者と共に参加。ミュージシャンとしてのデビューアルバム「Private Paradise」には、メラニーとの共作で「Father」という一曲を収めている。没後30周年となる2012年には、フェラーリのテストコース、フィオラノ・サーキットフェラーリ312T4をドライブした[27]

前述の通り母ジョアンは幼い息子をレースから遠ざけようとしたが、ジャック自らがレーサーの道を選んだことについて「ヴィルヌーヴ家の運命」と悟り、後にその活動を応援するようになった。

ちなみに、F1ドライバーとしての「ジャック・ヴィルヌーヴ」は、叔父が「初代」である[28]。後に自身がレースデビューしたため、叔父はジャック・ヴィルヌーヴSr.(-シニア)と表記されるようになった。

なお、ジャックが誕生した当初、ジルは名前を決めかねていた。しかし、妻ジョアンに弟(ジャック・ヴィルヌーヴSr.)の話題をしている時に赤ん坊が笑い出したため、弟と同じ名前にすることを決めたと言われている。

経歴年表

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  • 1989年 イタリアF3選手権参戦
  • 1990年 イタリアF3選手権(チーム:Prema Racing)(マシン:レイナード903アルファロメオ)シリーズ 13位
  • 1991年 イタリアF3選手権(チーム:Prema Racing)(マシン:レイナード913&ラルトRT35アルファロメオ)シリーズ6位
  • 1992年 全日本F3選手権参戦(チーム:トムス)(マシン:トムス032Fトヨタ)3勝 シリーズ2位
  • 1993年 フォーミュラアトランテック参戦(マシン:ラルトRT40トヨタ)2勝 シリーズ3位,ルーキーオブザイヤー獲得
  • 1994年 インディカー・ワールド・シリーズ参戦(チーム:フォーサイス-グリーン(Forsythe-Green))(マシン:レイナード94Iフォード)1勝 シリーズ6位,インディ500総合2位
  • 1995年 インディカー・ワールド・シリーズ(チーム:フォーサイス-グリーン)(マシン:レイナード95Iフォード)3勝 シリーズチャンピオン,インディ500総合優勝,F1テストドライブ ウィリアムズのテストに参加する

レース戦績

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イタリア・フォーミュラ3選手権

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チーム エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1989年 プレマ・レーシング アルファロメオ VLL
DNQ
MAG
DNQ
VAR
DNQ
PER
10
MNZ
Ret
VLL
DNQ
MIS
DNQ
MIS
19
MNZ
Ret
IMO
16
VLL
Ret
NC 0
1990年 VLL
Ret
PER
6
MAG
8
VAR
Ret
IMO
5
MNZ
Ret
BIN
2
MIS
Ret
MNZ
Ret
VAR
10
VLL VLL
14
14位 10
1991年 MIS
Ret
BIN
Ret
PER
8
VLL
Ret
MAG
4
IMO
4
VAR MNZ
2
MUG
24
MNZ
3
MUG
Ret
VLL
3
6位 20

全日本フォーミュラ3選手権

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チーム エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1992年 ITOHAM RACING with TOM'S トヨタ SUZ
6
TSU
4
FSW
3
SUZ
3
SEN
1
TAI
3
MIN
1
SUG
4
SUZ
2
SUZ
1
2位 45

(key)

アメリカン・オープンホイール

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トヨタ・アトランティック・チャンピオンシップ

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チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 順位 ポイント
1992年 コンプレップ・プレイヤーズ MIA PHX LBH LIM MTL WGL TOR TRR
3
VAN MDO MOS NAZ LS1 LS2 14位 28
1993年 フォーサイス・グリーン・レーシング PHX
18
LBH
2
ATL
1
MIL
17
MTL
1
MOS
2
HAL
7
TOR
3
NHM
2
TRR
14
VAN
19
MDO
1
NAZ
11
LS1
1
LS2
1
3位 185

インディカー・ワールド・シリーズ(CART)

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チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位 ポイント
1994年 フォーサイス・グリーン・レーシング レイナード・94i フォード SRF
17
PHX
25
LBH
15
INDY
2
MIL
9
DET
7
POR
6
CLE
4
TOR
9
MIS
20
MDO
9
NHM
24
VAN
24
ROA
1
NAZ
7
LS
3
6位 94
1995年 チーム・グリーン レイナード・95i MIA
1
SRF
20
PHX
5
LBH
25
NAZ
2
INDY
1
MIL
6
DET
9
POR
20
ROA
1
TOR
3
CLE
1
MIS
10
MDO
3
NHM
4
VAN
11
LS
12
1位 172

インディカー・シリーズ

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チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
2014年 シュミット・ピーターソン・モータースポーツ ダラーラ・DW12 ホンダ STP
LBH
ALA
IMS
INDY
14
DET1
DET2
TXS
HOU1
HOU2
POC
IOW
TOR1
TOR2
MDO
MIL
SNM
FON
30位 29

インディ500

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シャシー エンジン スタート フィニッシュ チーム
1994年 レイナード フォードコスワース 4 2 フォーサイス・グリーン・レーシング
1995年 5 1 チーム・グリーン
2014年 ダラーラ ホンダ 27 14 シュミット・ピーターソン・モータースポーツ
チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 WDC ポイント
1996年 ウィリアムズ FW18 AUS
2
BRA
Ret
ARG
2
EUR
1
SMR
11
MON
Ret
ESP
3
CAN
2
FRA
2
GBR
1
GER
3
HUN
1
BEL
2
ITA
7
POR
1
JPN
Ret
2位 78
1997年 FW19 AUS
Ret
BRA
1
ARG
1
SMR
Ret
MON
Ret
ESP
1
CAN
Ret
FRA
4
GBR
1
GER
Ret
HUN
1
BEL
5
ITA
5
AUT
1
LUX
1
JPN
DSQ
EUR
3
1位 81
1998年 FW20 AUS
5
BRA
7
ARG
Ret
SMR
4
ESP
6
MON
5
CAN
10
FRA
4
GBR
7
AUT
6
GER
3
HUN
3
BEL
Ret
ITA
Ret
LUX
8
JPN
6
5位 21
1999年 B・A・R 01 AUS
Ret
BRA
Ret
SMR
Ret
MON
Ret
ESP
Ret
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
AUT
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
15
ITA
8
EUR
10
MAL
Ret
JPN
9
NC
(21位)
0
2000年 002 AUS
4
BRA
Ret
SMR
5
GBR
16
ESP
Ret
EUR
Ret
MON
7
CAN
15
FRA
4
AUT
4
GER
8
HUN
12
BEL
7
ITA
Ret
USA
4
JPN
6
MAL
5
7位 17
2001年 003 AUS
Ret
MAL
Ret
BRA
7
SMR
Ret
ESP
3
AUT
8
MON
4
CAN
Ret
EUR
9
FRA
Ret
GBR
8
GER
3
HUN
9
BEL
8
ITA
6
USA
Ret
JPN
10
7位 12
2002年 004 AUS
Ret
MAL
8
BRA
10
SMR
7
ESP
7
AUT
10
MON
Ret
CAN
Ret
EUR
12
GBR
4
FRA
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
8
ITA
9
USA
6
JPN
Ret
12位 4
2003年 005 AUS
9
MAL
Ret
BRA
6
SMR
Ret
ESP
Ret
AUT
4
MON
Ret
CAN
Ret
EUR
Ret
FRA
9
GBR
10
GER
9
HUN
Ret
ITA
6
USA
Ret
JPN 16位 6
2004年 ルノー R24 AUS MAL BHR SMR ESP MON EUR CAN USA FRA GBR GER HUN BEL ITA CHN
11
JPN
10
BRA
10
21位 0
2005年 ザウバー C24 AUS
13
MAL
Ret
BHR
11
SMR
4
ESP
Ret
MON
11
EUR
13
CAN
9
USA
DNS
FRA
8
GBR
14
GER
15
HUN
Ret
TUR
11
ITA
11
BEL
6
BRA
12
JPN
12
CHN
10
14位 9
2006年 BMWザウバー F1.06 BHR
Ret
MAL
7
AUS
6
SMR
12
EUR
8
ESP
12
MON
14
GBR
8
CAN
Ret
USA
Ret
FRA
11
GER
Ret
HUN TUR ITA CHN JPN BRA 15位 7

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー クラス 周回 総合順位 クラス順位
2007年   プジョー・スポール トタル   ニコラ・ミナシアン
  マルク・ジェネ
プジョー・908 HDi FAP LMP1 338 DNF DNF
2008年   ニコラ・ミナシアン
  マルク・ジェネ
LMP1 381 2位 2位

フォーミュラE

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チーム 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
2015年-2016年 ヴェンチュリー・グランプリ スパーク-ヴェンチュリー・VM200-FE-01 BEI
14
PUT
11
PDE
DNS
BNA
MEX
LBH
PAR
BER
LON
LON
19位 0

(key)

脚注

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  1. ^ 「F1グランプリ特集」 vol.83 、p.43、ソニーマガジンズ、1996年。
  2. ^ ジャック・ビルヌーブ、ロード・アメリカで見事初優勝 Racing On No.176 1994年10月7日号 19頁
  3. ^ 「全員がデビュー戦」であったF1世界選手権開幕戦(1950年イギリスGP)で獲得したジュゼッペ・ファリーナを除外した場合。マリオ・アンドレッティカルロス・ロイテマンに続く3人目、24年ぶり。
  4. ^ こちらも「全員がデビュー戦」であった1950年イギリスGPで獲得したジュゼッペ・ファリーナを除外した場合。
  5. ^ 1996年のF1王者デイモン・ヒルに聞くウイリアムズFW18。「少しも複雑じゃないところが最大の美徳」 auto sport web 2019年10月10日、同28日閲覧。
  6. ^ いぶし銀のデイモン・ヒル、1996年の鈴鹿でビルヌーブを退け初戴冠 Web Sportiva(集英社) 2018年8月21日。
  7. ^ Yahoo! Formula !:ブラジルGP ファステストラップ/スピードトラップ
  8. ^ "i1スーパーカーの開幕が2013年まで延期". オートスポーツ.(2012年2月2日)2013年2月1日閲覧。
  9. ^ ル・マン前に事実上“クビ”のジャック・ビルヌーブ、チームに失望「不当かつ恣意的に機会が奪われた」
  10. ^ "F1 Gate.com ジャック・ヴィルヌーヴ、2010年レースシートに空席ができるのを待つ". F1-Gate.com.(2010年3月5日)2017年4月4日閲覧。
  11. ^ "デュランゴ、ヴィルヌーヴ・レーシングとの提携を認める". F1-Gate.com.(2010年7月18日)2017年4月11日閲覧。
  12. ^ "FIA、2011年の新規F1チームを採用しないことに決定 ". F1-Gate.com.(2010年9月9日)2013年2月1日閲覧。
  13. ^ "ビルヌーブの標的はHRTとヴァージン". ESPN F1.(20年9月15日)2013年2月1日閲覧。
  14. ^ "ビルヌーブ、F1参戦を断念。NASCARに集中". オートスポーツ.(2010年10月29日)2013年2月1日閲覧。
  15. ^ Hero or villain? Schumacher reaches the end of the road
  16. ^ http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/36449.html
  17. ^ https://f1-gate.com/williams/f1_37676.html
  18. ^ フェラーリ、2019年にライコネンに代えてルクレール起用を決断? F1-Gate 2018年6月22日、同7月2日閲覧。
  19. ^ 「ルクレールの来季フェラーリF1昇格は双方にとってリスキー」とビルヌーブが主張 F1速報 2018年7月4日、同7月9日閲覧。
  20. ^ 【あなたは何しに?】ヨーロッパに足を運んだモントーヤ。犬猿の仲から一転、あのドライバーと談笑 - オートスポーツ・2019年8月15日
  21. ^ Briatore: Schumacher lacks star appeal, autosport.com, September 9th 2006.
  22. ^ エクレストン、シューマッハに苦言、F1-Live.com、2006年10月22日。
  23. ^ F1第16戦 最終戦日本GPトピックス F1を去るのか!?ビルヌーブ、OCNスポーツ・モータースポーツ・F1、2003年10月12日。
  24. ^ "Special rear wing for JV". F1 Technical. 2013年2月1日閲覧。
  25. ^ "ジャック・ヴィルヌーヴ離婚 F1復帰へ意欲". F1-Gate.com.(2009年8月15日)2013年2月1日閲覧。
  26. ^ "ダニー・ミノーグ、子供が生まれた幸福に結婚も考えられるようになった!?". セレブリティニュース. 2013年2月1日閲覧。
  27. ^ "ジャック・ヴィルヌーヴ、父親ジルのフェラーリ 312T4をドライブ". F1-Gate.com.(2012年5月9日)2013年2月1日閲覧。
  28. ^ 1981年にアロウズから、1983年にRAMからスポット参戦したが、予選落ちなどF1では成功できなかったドライバー

関連項目

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外部リンク

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先代
デイモン・ヒル
F1ドライバーズチャンピオン
1997年
次代
ミカ・ハッキネン