埼玉県立春日部高等学校

埼玉県春日部市にある高等学校
春日部高校から転送)

埼玉県立春日部高等学校(さいたまけんりつ かすかべこうとうがっこう)は、埼玉県春日部市粕壁にある県立高等学校。通称は「春高」(かすこう)。スーパーサイエンスハイスクール (SSH) 指定校。

埼玉県立春日部高等学校
地図北緯35度58分45.5秒 東経139度44分30.1秒 / 北緯35.979306度 東経139.741694度 / 35.979306; 139.741694座標: 北緯35度58分45.5秒 東経139度44分30.1秒 / 北緯35.979306度 東経139.741694度 / 35.979306; 139.741694
過去の名称 埼玉縣第四尋常中學校
埼玉縣第四中學校
埼玉縣立粕壁中學校
埼玉県立粕壁高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者 埼玉県の旗 埼玉県
学区 全県学区
千葉県第3学区
校訓 質実剛健
設立年月日 1899年
創立記念日 5月25日
共学・別学 全日制:男子校
定時制:男女共学
課程 全日制課程
定時制課程
設置学科 普通科
学校コード D111210000049 ウィキデータを編集
高校コード 11104A
所在地 344-0061
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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概要

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1899年明治32年)に創設された男子校。校訓を「質実剛健」、教育方針を「文武両道」としている。制服は一般的な金ボタン5個の黒詰襟学生服制帽も制定されていたが現在は廃止している[注 1]

施設

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1955年昭和30年)竣工の木筋コンクリート製の旧校舎は1999年平成11年)に解体され、同年2学期より旧野球グラウンドに建設された新校舎に移転した。現在の設備は太陽発電が行えるほか、震災に備えて、非常食飲料も完備されている。2006年(平成18年)には、在学生保護者の出費により各教室は冷暖房完備となった。食堂と音楽ホールも設置されている。

旧校舎跡地には外野に芝生が敷設された新・野球グラウンドが設置された。

学校行事

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5月にバレーボール大会、6月に文化祭である「春高祭」、7月に水泳卓球大会、芸術鑑賞会、10月に体育祭である「大運動会」、11月に渡良瀬遊水地での1万メートル持久走大会、12月にサッカーバスケットボール大会が催される。各種スポーツイベントではクラス間で年間総合ポイントを競う。その他に文化行事として、二年次の修学旅行広島京都)などの行事がある。6月の「春高祭」については、各クラス部活動の行事のほか、春高生によるミス・コンテスト女子高生とのフォークダンスや女子高招待企画と、女子高との交流が行われる。また、10月の大運動会の入場行進では、3年生による仮装行列が行われる。

部活動

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陸上競技部はインターハイ累積得点は埼玉県で第1位。2006年度(平成18年度)の大阪インターハイでは、男子100mで優勝した。また、春高の行事・試合で活動する応援指導部は1924年大正13年)創部で、浦和川越熊谷松山不動岡の各高校の応援団と六校合同(六校応援団連盟として組織化)しており、東京六大学応援団連盟主催の「六旗の下に」にならって、毎年1回2月に「日輪の下に」を開催する。埼玉県立浦和高校川越高校熊谷高校との交流がある。またオーストラリアビクトリア州立メルボルン・ハイスクール(en: Melbourne High School)と国際的な交流を行っている。

立地

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粕壁旧市街地の西方に位置しており、学校用地の周辺はかつて主に農地であったが[1]、今日では新市街地の拡大により周辺は住宅地などとなっている[2]東武野田線八木崎駅より約100mの位置に所在しており、北東に浜川戸郵便局・春日部八幡神社・春日部稲荷神社・浜川戸砂丘などが所在している。西方には春日部市消防本部浜川戸分署・国道16号岩槻春日部バイパス古隅田川蛇行流路跡の付け替え水路などが所在している。

沿革

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著名な出身者

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政界

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官界

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財界

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学術

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文芸

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芸術

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芸能

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メディア

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スポーツ

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著名な教職員

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  • 加藤楸邨 - 旧制中学校時代に1929年から8年間、同校の教員を勤めており、俳句を始めたのはこの時期とされる。
  • 川内優輝 - 新規採用から2013年度(平成25年度)まで同校の定時制職員だった。2014年度(平成26年度)より久喜高校定時制へ異動。

出来事

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2002年6月に同校の定時制課程に当時在学していた1年生の男子生徒が同じ学校に通う上級生・同級生から集団暴行を受けて死亡する事件が起こり、暴行に関わった同級生・上級生らが逮捕された。警察の調べに対して少年らは、「借金を返すよう呼び出したが、待ち合わせ時間に遅れたので暴行した」と供述していた。[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 正確には廃止ではなく着用の自由であり、学生運動後の昭和だけでなく少なくとも平成までは購買で学生帽用の学校章の販売がされており、平成元年卒の当時の昭和63年度任期の生徒会長が学生帽着用で通学していたことが確認されている。

出典

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  1. ^ 所在地周辺(1947年10月28日撮影) - 地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院ホームページ
  2. ^ 所在地周辺(2019年9月10日撮影) - 地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院ホームページ
  3. ^ 社会ニュース(6/21)”. www.rain.hyarc.nagoya-u.ac.jp. 2024年10月7日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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