佐世保市 > 佐世保市の歴史

佐世保市の歴史(させぼしのれきし)では、現在の長崎県佐世保市に属する地域の歴史を詳述する。なお、行政区域の変遷については親記事を参照されたい。

概説

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現在の佐世保市域に人類が住み始めたのは有史以前、旧石器時代からで、世界最古であった縄文土器が出土した泉福寺洞窟豆粒文土器)・福井洞窟隆起線文土器)・直谷岩陰[1]岩下洞穴・下本山岩陰[2]等の洞窟・岩陰遺跡があり、その数は全国最多を誇る[3]相浦地域に於いて自然水銀 [4]角水銀鉱[5]辰砂黒辰砂(自然水銀よりも希少)の4種全てを国内で唯一産出し[6]黒曜石・サヌカイト・肥前六方石の産地でもあり、前記の遺跡群と共に、膨大な量の縄文土器・石鍋・石器類が出土し縄文土器の編年にも寄与するなどした門前遺跡[7] [8](国内最古の建築形式である胴張形掘立柱{エンタシス}建物跡・国内最古の木棺墓{朝鮮半島より古い}[9] [10]・透かし彫り装飾板など)と竹辺(武辺)遺跡群[11] [12]・小野遺跡群[13]・大潟遺跡群[14]宮の本遺跡(独自のイモガイ文化)・大野台遺跡・四反田遺跡など日本史を解明する上で重要な遺跡が相浦(相神浦)を中心とした旧北松浦郡地域に偏在する。

現在の佐世保市域は、古代中世には肥前国に属し松浦郡彼杵郡にあたる[15]

奈良時代に編纂された肥前国風土記によれば、現在の早岐地域付近に速来津姫 [16]をいただく土蜘蛛と呼ばれる土着豪族があり、景行天皇真珠を差し出し恭順したという。なお、同風土記には、早岐の特産品としてワカメが挙げられている。

平安時代の松浦郡相神浦地域には武辺胤明と相神浦氏の存在が見られる。平安末期、一族不和のため相神浦城城主の相神浦堅物が小城郡多久に移住し、名字も「相浦」と改めた。現在も北多久に相ノ浦という地名と相神浦から勧請した飯盛神社(相神浦権現)がある[17]

鎌倉時代になると松浦党が北松浦半島周辺に勢力を広げ、室町時代になると本家にあたる宗家松浦氏が相浦付近に武辺城を築いて一帯を支配した。一方、同族のうち現在の市域中心部に拠った者が佐世保城[18] [19]を築き、佐世保姓を名乗った。古文書には佐世保城主として「佐世保清」「佐世保諫」等の名が残っている。

戦国時代には平戸松浦氏・宗家松浦(相神浦松浦)氏・旧東彼杵郡域を領有していた大村氏等が激しく争いを繰り広げ、最終的には現市域の大半が平戸松浦氏の支配に帰し(→平戸藩地区は大村氏〈→大村藩〉・宇久地区は宇久氏改め五島氏〈→福江藩〉が支配})、そのまま廃藩置県に至った。

江戸時代には平戸往還が整備され、中里・佐世保・早岐に本陣が置かれた。この当時は相神浦(現在の相浦)と早岐に比較的大きな集落がある以外は農漁村地帯が広がっており、新田開発も各地で行われた。藩内で採れる石炭を、相神浦の港(賎津浦)から製塩の中心地であった本州・四国の瀬戸内海沿岸地域に輸出し財を築いた、塩屋松五郎・恋塚左平・草刈太一左衛門がいる(いずれも相神浦の人物)。

平戸松浦藩9代藩主松浦清(静山)の随筆甲子夜話」には、江戸中期享保時代(1720年頃)の藩内の名物として「針尾駒、早岐白荒生、焼酎。権成寺蓮、同浦白和布。三河内陶器。日宇真綿。佐世保葛粉。相神浦上米。知見寺の鶉、賎津浦伊勢海老。同浦恵美須嶋釣針松。白魚川白魚、鮎」と記してある。

明治時代に入ると海軍において九州西部に軍港の建設が求められた。いくつかの候補のうちから「廻れば七里」と謳われた日本最大の天然の良港[20]である佐世保湾に面した、当時人口千人余りの寒村だった東彼杵郡 佐世保村 [21]が適地とされ、鎮守府の設置決定以後急速に海軍施設と街の整備が進められた。1902年には村から一足飛びに市制を施行[22] [23]玉屋に代表されるように市民の8割が、同じ旧肥前国である隣の佐賀県からの移住者であった[24]。九州でも五指に入る大都市として発展していくが、第二次世界大戦末期に空襲で市中心部が焦土と化し、終戦と海軍解体とともに人口の急減をみた。これは市民の殆どを占めた移住者が転出したためである。

戦後、公選初代の市長中田正輔を中心に旧軍港市転換法による佐世保港の商港への転換と九十九島を中心とした西海国立公園の指定による観光地としての基盤整備を図るが、朝鮮戦争勃発とともに米軍を中心とした国連軍の朝鮮戦線に向けての前進基地として再び軍港としての機能を担うことになり、現在まで米軍及び海上自衛隊を中心とした軍港としての機能と商港としての機能の棲み分けが大きな課題となっている。

地名の由来

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郷土史家の澤正明は、佐世保という地名は松浦氏の一族とみられる“佐世保氏”の名前に由来するとして、現在も松浦市内に佐世保田代や佐世保崎という小字が残っていることから、15世紀に松浦氏が拠点を松浦市から相浦地区に移したときに一緒に移動してきた一族の「佐世保氏」の名前が定着したとしている[25]

一方、坂田直士の説では、狭い川瀬を意味する「狭瀬(させ)」に、保は中世の荘園公領制国衙との関わりで成立した「」がついたと推定している[26]

他にも「サセブ」と称する植物が繁茂した様子を由来とする説やアイヌ語由来の説などが云われており、はっきりとした事は判っていない[26]

年表(長崎県)

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中世

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  • 1179年治承3年)
    • 相神浦城主の相神浦堅、一族不和のため小城郡多久原(現在の佐賀県多久市北多久)に移住[17]
  • 1202年建仁2年)
    • 下松浦党の祖である松浦直の長男御厨清の系譜にある相神浦松浦家(宗家松浦氏)の4代当主・堯(めぐる)が武辺城を築城。
  • 1457年長禄元年)
    • 宗家松浦氏第13代当主の松浦親、武辺城を本城とする。朝鮮と年1回の歳遣船派遣について条約を結ぶ。
  • 1490年延徳2年)
    • 宗家松浦氏14代当主の松浦丹後守定、大智庵城(佐世保市瀬戸越)を築城。また宗家松浦氏の菩提寺として教法寺を創建。当初は宗家松浦氏の居城である大智庵城の城下に建てられていたが、建立後まもない1498年明応7年)に同城が落城した際に兵火にかかり焼失、その後現在地に移った。
  • 1498年明応8年)
    • 宗家松浦氏の拠る大智庵城を平戸松浦氏の松浦弘定・松浦興信が攻略し、宗家松浦氏15代当主の政が敗死する。宗家松浦氏の後ろ盾であった少弐氏の勢力も低下していたことも敗因の一つだった。政の子・幸松丸は平戸に拉致されるが、政の旧臣に助けられ、有田の唐船城に移り、そこで成人し、親(ちかし)を名乗る。なお『壺陽記』によれば、1512年8月2日、平戸松浦弘定がキ坪城への政の攻撃への報復をしたとあり、年代が一致しない[27]
  • 1531年享禄4年)
    • 宗家松浦氏16代当主の松浦親、平戸松浦氏と和解し、旧領を回復する。
  • 1535年天文4年)
    • 松浦親、飯盛城を築城。この頃、大内氏が少弐氏を滅ぼし、平戸松浦との対立が再燃する。
  • 1542年(天文11年)
  • 1560年永禄3年)
    • 松浦隆信は武雄の後藤貴明と同盟を組み、惟明を後藤への養子にする。
  • 1563年(永禄6年)
    • 龍造寺隆信が有馬氏を降すと、再び平戸松浦隆信・松浦鎮信は後藤貴明とともに飯盛を攻める。宗家松浦氏が平戸松浦氏に降る。
  • 1578年天正6年)
  • 1586年(天正14年)
    • 松浦氏と大村氏、舳の峯峠(重尾町と瀬道町の境)に境界を確定する。

近世

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  • 1608年(慶長13年)
    • 相神浦(相浦)洪徳寺住職の亀翁良鶴が長崎へ行き晧台寺を創建。長崎地域における仏教敷衍のため。
  • 1650年慶安3年)
    • 平戸藩が中野(現在の平戸市)から陶工を三川内山へ移す(現在の三川内焼のおこり)。
  • 1688年元禄元年)
    • 平戸藩七浦奉行の山下庄左衛門、藩命により江迎で酒造業を始める(現在の潜龍酒造)。
  • 1784年(天明4年)
  • 1812年(文化9年)
    • 伊能忠敬が平戸藩領沿岸を測量、相神浦(現在の佐世保市相浦地域)で文化10年の新年を迎える。
  • 1850年嘉永3年)
  • 1866年慶応2年)
    • 平戸藩が相神浦・早岐周辺14ヶ村を管轄する相神浦筋郡代役所を中里に設置。翌年現在の谷郷町に移る。

明治・大正時代

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  • 1883年(明治16年)
  • 1886年(明治19年)
    • 4月21日:「第三海軍区鎮守府」を佐世保に置くことが決定される。
  • 1889年(明治22年)
    • 7月1日:海軍佐世保鎮守府が開庁する。初代鎮守府司令長官は赤松則良中将が任命される。(開庁式典は翌年4月に挙行)
    • 大阪と佐世保港の間に初の民間航路が開通。
  • 1896年(明治29年)
    • 親和銀行の源流となる第九十九国立銀行の佐世保支店が開業。
  • 1897年(明治30年)
  • 1898年(明治31年)
  • 1900年(明治33年)
    • 佐世保駅~八幡町に定期乗合馬車の運行が開始される。
    • 5月:岡本貯水池竣工。
    • 10月22日:皇太子(大正天皇)が来佐。
  • 1902年(明治35年)
    • 黒島天主堂竣工。
    • 4月1日:市制施行。東彼杵郡佐世保からを飛び越して一気にとなる。県内では長崎に次ぐ都市に(当時の人口45,766人)。市制反対の意思を示していた一部の地域を分離し、東彼杵郡佐世村が発足。[23]
  • 1905年(明治38年)
    • 日露戦争当時の連合艦隊旗艦三笠が佐世保港内で爆発事故により沈没。瞬時に沈没し339人が殉職。翌年浮揚して修理(1908年修理完了)。
  • 1906年(明治39年)
  • 1907年(明治40年)
    • 第九十九国立銀行を佐世保銀行と改称、本店を佐世保に移転。
    • 8月:与謝野鉄幹ら「五足の靴」一行が来佐。
    • 9月:海軍水道からの分与により、市内に水道管からの水道水の供給を開始。
    • 9月13日:ペスト流行のため、下矢岳町全域167棟を焼却(~20日)。跡地は練兵場となる(現在は佐世保中央インターチェンジ)。
  • 1908年(明治41年)
    • 3月:山の田水源池ダム・浄水場が竣工。
  • 1920年(大正9年)

昭和時代

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平成時代

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令和時代

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参考文献

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  • 佐世保市 編『佐世保の今昔』、1934年。(国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 佐世保市 編『佐世保志 上巻下巻』、1915年。(国立国会図書館デジタルコレクション)

脚注

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  1. ^ 直谷岩陰
  2. ^ 海部陽介, 坂上和弘, 河野礼子「下本山岩陰遺跡(長崎県佐世保市)出土の縄文時代前期・弥生時代人骨」『Anthropological Science (Japanese Series)』第125巻第1号、日本人類学会、2017年、25-38頁、doi:10.1537/asj.1705082ISSN 1344-3992NAID 130006832286 
  3. ^ 日本の洞窟・岩陰遺跡”2021年3月17日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ
  4. ^ 日本の水銀の産地”. 鉱物データベース
  5. ^ 日本の角水銀鉱の産地”. 鉱物データベース
  6. ^ 堀純郎「本邦の水銀鑛床」『地質調査所報告』第154號、地質調査所、1953年3月、55、115頁。
  7. ^ 門前遺跡(縄文〜近世).長崎県の遺跡大辞典.2015年4月2日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ
  8. ^ 杉原, 敦史、松尾, 秀昭、江上, 正高『門前遺跡2』 4巻長崎県長崎市江戸町2-13〈長崎県佐世保文化財調査事務所調査報告書〉、2008年3月(原著2008年3月)。 NCID BA88889825https://sitereports.nabunken.go.jp/46434 
  9. ^ (2004年2月25日)“最古級の木棺墓がほぼ完全な状態で出土 門前遺跡”.asahi.com.2004年4月8日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ
  10. ^ “門前遺跡の木棺墓に使用されたクスノキの炭素年代は約2400年前 (読売新聞)”.「きまぐれNEWSLINK (2004年2月25日)」『考古学のおやつ』。
  11. ^ 竹辺A~E遺跡群(旧石器〜近世)
  12. ^ 佐世保市オープンデータサイト
  13. ^ 小野A~F遺跡群(旧石器/縄文)
  14. ^ 大潟A〜F遺跡群(旧石器〜縄文)
  15. ^ 市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 郡変遷 1889年4月1日
  16. ^ 土蜘蛛(彼杵郡)”.古代土蜘蛛一覧
  17. ^ a b 27、飯盛権現社.肥前狛犬.多久市郷土資料館
  18. ^ 佐世保城跡”.佐世保戦国.com
  19. ^ 佐世保城”.ニッポン城めぐり
  20. ^ 長崎港の11倍、神戸港の5倍、横浜港の3倍の規模を誇った。
  21. ^ 市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 1889年4月1日
  22. ^ 佐世保ヲ市制施行地ニ指定” .ja.wikisource.org
  23. ^ a b 市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 1902年4月1日
  24. ^ させぼ夢大学 『させぼ 歴史・文化 夢紀行 』 芸文堂、2001年10月15日、35頁。
  25. ^ 澤正明「宗家松浦戦国記」芸文堂、2010年
  26. ^ a b 佐世保地名の由来 市制百周年記念 佐世保の歴史(国立国会図書館インターネット資料収集保存事業)
  27. ^ 外山幹夫肥前松浦一族』 新人物往来社 2008年、164頁
  28. ^ もともと佐世保湾という呼称は無く、それ自体、大村湾の一部であった。江戸時代の地図にも埋め立てられる前の基地周辺が大村湾の佐世保浦と描かれている。鉄道唱歌に「大村の湾をしめたる佐世保には」とあるように。
  29. ^ 古厩忠夫『裏日本-近代日本を問いなおす-』岩波新書 (1997) 。データの原典は『明治大正国勢要覧』。なお同表では福岡市は95,381人で17位、長崎は176,534人で7位。
  30. ^ 「映画フィルムに引火、学童ら折り重なり死傷」『大阪毎日新聞』1935年(昭和10年)3月17日(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.517 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  31. ^ 「とにかくひどい光景」 佐世保・日宇火薬庫の爆発事故 米軍撮影の現場写真か”. 長崎新聞. 2023年12月13日閲覧。
  32. ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、101-102頁。ISBN 978-4-10-320523-4 
  33. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、127頁。ISBN 9784309225043 
  34. ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』p.134
  35. ^ 博覧会ロゴでは「炎」には火を3つ重ねた異字体(焱)を使用。
  36. ^ 長崎新聞 (2019年11月13日). “佐世保市交通公園が12月28日で閉園 市民から惜しむ声 | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年5月27日閲覧。
  37. ^ 株式会社インプレス (2020年2月22日). “長崎県佐世保市の江上交差点が2月26日に暫定立体化。ハウステンボス~西九州道を結ぶ国道205号を高架に”. トラベル Watch. 2021年5月27日閲覧。
  38. ^ 長崎新聞 (2020年8月4日). “九州最大 クルーズ船拠点完成 佐世保浦頭 コロナで供用開始は未定 | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年5月27日閲覧。
  39. ^ 長崎新聞 (2020年11月1日). “佐世保・相浦の広大な土地 行方は? 「土地改良区」解散へ 優良農地、利用進まず | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年5月27日閲覧。
  40. ^ Facebook”. www.facebook.com. 2021年5月27日閲覧。
  41. ^ 佐世保署 市民会館跡に移転 市が用地提供へ : ニュース : 長崎 : 地域”. 読売新聞オンライン (2020年12月2日). 2021年5月27日閲覧。
  42. ^ 佐世保重工、新造船事業を休止 希望退職募集も”. 西日本新聞me. 2021年5月27日閲覧。
  43. ^ INC, SANKEI DIGITAL. “黒島天主堂の修復完了 長崎、世界遺産の離島集落”. 産経フォト. 2021年5月27日閲覧。
  44. ^ 崎辺地区東側、米軍が返還 国が岸壁整備へ 佐世保:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2021年5月27日閲覧。
  45. ^ 長崎新聞 (2021年3月22日). “佐世保玉屋一帯 再開発 準備組合設立 権利者9者、計画具体化へ | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年5月27日閲覧。
  46. ^ 長崎新聞 (2021年3月25日). “佐世保「九十九島観光公園」オープンへ 新たな観光スポットに期待 | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年5月27日閲覧。
  47. ^ 佐世保市. “福井洞窟ミュージアム”. 佐世保市. 2021年5月27日閲覧。
  48. ^ 佐世保に「福井洞窟ミュージアム」 旧石器~縄文の遺物400点”. 毎日新聞. 2021年5月27日閲覧。

外部リンク

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