日本社会党委員長

1945年から1996年にかけて存在した日本社会党の最高責任者

日本社会党中央執行委員会委員長(にっぽんしゃかいとうちゅうおうしっこういいんかいいいんちょう)は、1945年から1996年にかけて存在した日本社会党の最高責任者であり、党首に相当する。

概要

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日本社会党委員長からは片山哲村山富市の2人の内閣総理大臣を輩出している。55年体制下では、野党第一党の党首として、その言動が注目された。

当初は党大会の代議員の投票で選ばれていたが、1978年からは党員による直接選挙で選んだ。

日本社会党の最高責任者ではあるが、委員長の統制力はそれほど強くなかった。党内では左派と右派が対立しており、これをまとめるため委員長が左派右派いずれかであれば書記長はその反対派から出すといった慣例があり、書記長以下の執行部役員はそのようなバランスを考慮して党大会が選出し、委員長とは考えの異なる人物が役員に選出されることが多かった。1977年の第41回続開大会で委員長指名で無任所の中央執行委員を任命することが認められた。

浅沼稲次郎暗殺事件後、書記長から委員長代行に昇格した江田三郎は正式には委員長に就任したことはないが、党史などでは委員長と同格に扱っている。

1996年、日本社会党は社会民主党と名を改めたが、社会民主党では最高責任者は委員長ではなく、党首と呼ばれている。

日本社会党委員長の一覧

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委員長 在任期間
日本社会党中央執行委員長
1   片山哲[1]
   
1946年9月28日 - 1950年1月16日
日本社会党中央執行委員長(左派)
-   鈴木茂三郎 1951年1月19日 - 1955年10月12日
日本社会党中央執行委員長(右派)
-   河上丈太郎[1] 1953年1月18日 - 1955年10月12日
日本社会党中央執行委員長(左右統一)
2   鈴木茂三郎 1955年10月13日 - 1960年3月21日
3   浅沼稲次郎[2] 1960年3月23日 - 1960年10月12日
-   江田三郎(委員長代理) 1960年10月12日 - 1961年3月6日
4   河上丈太郎 1961年3月6日 - 1965年5月6日
5   佐々木更三 1965年5月6日 - 1967年8月19日
6   勝間田清一 1967年8月19日 - 1968年10月4日
7   成田知巳 1968年11月30日 - 1977年12月13日[3]
8   飛鳥田一雄 1977年12月13日 - 1983年9月7日
9   石橋政嗣 1983年9月7日 - 1986年9月8日
10   土井たか子 1986年9月8日 - 1991年7月31日
11   田邊誠 1991年7月31日 - 1993年1月19日
12   山花貞夫
 
1993年1月19日 - 1993年9月25日
13   村山富市
   
1993年9月25日 - 1996年1月19日
  •   は任期中首相に就任した者。
  •   は日本社会党が政権獲得した時点での代表。
  •   は日本社会党が政権を失った時点での代表。

日本社会党委員長選挙の結果

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委員長ポストは、事前の派閥間の話し合いで決まってしまうことが多く、無投票や全会一致による選出で決まったこともあったため、委員長選挙はそれほど多くない。

投票日 結果
1960年3月24日 浅沼稲次郎 228票、河上丈太郎 206票
1966年1月22日 佐々木更三 295票、江田三郎 276票
1966年12月9日 佐々木更三 313票、江田三郎 274票
1970年12月2日 成田知巳 207票、江田三郎 148票
1981年11月27日 飛鳥田一雄 39379票、武藤山治 14721票、下平正一 3425票
1986年9月6日 土井たか子 58670票、上田哲 11748票
1991年7月30日 田邊誠 46363票、上田哲 36358票
1993年9月20日 村山富市 65446票、翫正敏 18075票
1996年1月17日 村山富市 57591票、秋葉忠利 10440票

脚注

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  1. ^ a b 就任まで委員長空席で浅沼稲次郎書記長が委員長代行。
  2. ^ 逝去後、江田三郎書記長が委員長代理。
  3. ^ 「党再生のため全力を(中央執行委員長退任のあいさつ) / 成田知巳」『月刊社会党』第255号、日本社会党中央本部機関紙局、1978年2月1日、31頁、NDLJP:1408483/20 

関連項目

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