下平 正一(しもだいら しょういち、1918年1月10日 - 1995年8月25日)は、日本政治家日本社会党衆議院議員(10期)。

来歴・人物

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長野県塩尻市出身。長野県東筑摩農学校(現:長野県塩尻志学館高等学校)中退。国鉄労働組合長野地方本部委員長や塩尻町議などを歴任し、1955年衆院選左派社会党から出馬しトップで初当選、続く1958年衆院選でも、社会党を脱党して立候補・当選した小沢貞孝との革新分裂選挙となったが連続当選。以後小沢が民社党へと移った後も同じ選挙区で相争う様になるが、最終的に10回連続当選した。60年安保闘争では国会内に警官隊を導入した際に負傷する。

1969年8月9日、愛知県内を自動車で走行中に後部から追突される交通事故に遭遇。下平ほか同乗の家族が全治二週間程度の負傷[1]

1978年飛鳥田一雄委員長の下で北山愛郎阿具根登らと党中央執行副委員長に就任。その年の12月に自民党の総裁選総裁に選出された大平正芳新総裁下で行われた首班指名選挙で飛鳥田委員長が当時は非国会議員(元横浜市長)だったため、副委員長として代理で社会党の首班指名候補になるも結果は大平首相の誕生に終わる。1981年には現職の飛鳥田委員長の対抗馬として社会党委員長選に出馬、飛鳥田・武藤山治政審会長と争うが落選し副委員長を辞任した。

1983年12月の衆院選で落選。1986年衆参同日選で復帰を目指すも再度落選、政界を引退した(地盤は北沢清功が継承)。著書に「多くを考え一事を為す」(1982年)がある。

1995年8月25日死去。享年77。

脚注

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  1. ^ 「下平代議士けが」『朝日新聞』昭和44年(1969年)8月10日朝刊、12版、15面