ミドルブリッジ・レーシング

ミドルブリッジ・レーシング(Middlebridge Racing)は、イギリスに本拠を置くレーシングチーム。創設者は中内康児[1]。2009年からの権利所有者はミック・ゴーラン。

1988年から1990年に国際F3000選手権に参戦。1990年3月にF1ブラバムを買収し1992年まで運営した。

概要

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1986年12月に日本人実業家で日本のアストンマーティンクラブ会長なども務める中内康児によってイギリスで設立された「ミドルブリッジ・グループ」のレース部門がミドルブリッジ・レーシングである[2]。役員にはデニス・ナーシー(Dennis Nursey)が名を連ねた。

グループ傘下の会社として、クラシック・アストンマーティンレストアとパーツ供給・販売を行うミドルブリッジ・エンジニアリングがある。

ミドルブリッジ・グループの傘下には他にもジョヴァンニ・ミケロッティ設計の2シーター・スポーツカー「リライアント・シミターSS1」を製造・販売するミドルブリッジ・シミターがあり、ノッティンガム・ビーストンの工場で手作りにより年間300台のペースで製造された。

1987年のF1計画

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ミドルブリッジの名がF1に初めて関係したのは1987年、前年2月までRAMレーシングを率いてF1に参戦していたジョン・マクドナルドがマネージャーとして参画し、1年型落ちとなるベネトン・B186を購入。エマニュエル・ピッロとドライバー契約しF1に参戦する「ミドルブリッジF1」計画に動き、実際にコンコルド協定での参戦全チームの承認も得られ、メインスポンサーにはトラサルディがつき白と黒のツートンカラーリングを施したB186の披露がマスコミに向けて済まされるなど準備万端となった。また、日本グランプリでは鈴木亜久里を2台目として起用する計画もあった。

同年9月、イタリアグランプリでデビュー目前だったが[3]FISAが最終局面で参戦許可を取り消したため計画が頓挫した[4]。こうしたF1参戦計画が実際にあり、オーナーの中内も「来年(1988年)はF1フルエントリー参戦」と言い切るなど構想を持っていたが[1]、ミドルブリッジ・レーシングの参戦カテゴリーはこの時点で入門フォーミュラであるフォーミュラ・フォードであり、成長段階にあった。

参戦レース

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1987年はイギリスFF2000に2台体制で参戦、ポール・ワーウィックデレック・ワーウィックの弟)を起用し3勝、ランキング2位を獲得する。

1988年イギリスF3に参戦カテゴリーをステップアップ。ジョン・アルコーン英語版ブランズ・ハッチで1勝を挙げる。

1989年レイナード・89Dを購入し、国際F3000選手権に参戦。マーク・ブランデルが最高位3位を記録。1990年デイモン・ヒルを起用し3度のポールポジション獲得、決勝最高位2位を記録した。

モーターレーシング・ディベロップメント・プロダクツ

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1989年、F1のブラバムは前オーナーのスイス人ヨアヒム・ルーティ横領容疑での逮捕で存続が危ぶまれ[5]、シーズンオフに同じく運営資金に苦しい状況となったオニクス・グランプリとの合併を模索したが破談となっていた[注釈 1]

1990年3月5日、F1開幕の一週間前にミドルブリッジがブラバムを買収しオーナーとなることが前オーナーのルーティとの間で合意した。加えて、前々オーナーとなるバーニー・エクレストンが所有していたブラバムの株も買い取り、完全に取得した。ミドルブリッジは「モーターレーシング・ディベロップメント・プロダクツ」を設立し、ブラバムの運営会社とした。役員にはミドルブリッジの中内、デニス・ナーシーの2人に加えて、ブラバム創設者のジャック・ブラバムの名もあった。ジャックがブラバムチームに僅かでも関わるのは、1970年にチームを手放して以来初であった。また、ブラバムの事情をよく知るチームマネージャーのハービー・ブラッシュは前体制からそのまま残り、現場での指揮を執ることも発表された。

ミドルブリッジのF3000チームはブラバムのテスト・チームとなり、前年から所属のデイモン・ヒルがブラバムのテスト兼リザーブドライバーとして契約[2]。F3000へのエントリーはエディ・ジョーダンのEJRと提携(ジョーダンも同年よりF1参戦)してミドルブリッジ・ジョーダンとしてF3000継続参戦とされ、ドライバーのデイモン・ヒルがその提携チームから参戦したが、結果的にエントラント名はバークレイ・チーム・ジョーダンとして参戦。ミドルブリッジのF3000参戦は実質停止された(バークレイ・ジョーダンのサイドポンツーンにミドルブリッジのロゴが掲出された)。

中内はブラバムの全権取得について、「我々は3年前からイギリスに現地法人を作ってレース活動し、現地の銀行から融資を受けてF1チームを買収したという事で、ジャパン・マネーの進出ではありません」と述べた[2]

同年のブラバムの最高成績は、ステファノ・モデナによる開幕戦の決勝5位、2ポイント獲得であった。

中内がオーナーになって以後、同シーズン中に伊太利屋カルビーオートバックス住友海上火災三越マドラス山善など日本企業のスポンサーを多数獲得。翌年に向けヤマハとの1993年までのエンジン供給契約も締結し[6]チーム強化が進められた。レースディレクターとして世界スポーツカー選手権 (WSPC)に参戦するザウバー-メルセデスNISMOヨーロッパで同職を歴任したデビッド・プライスを招聘した。

1991年、序盤2戦は前年型シャシーにヤマハ・OX99 V12エンジンを搭載したBT59Yでの参戦、第3戦からニューマシンBT60が投入された。最高位はマーティン・ブランドルの日本GP決勝5位、ミドルブリッジF3000の卒業生でありブラバムでも起用となったマーク・ブランデルはベルギーGPで6位1ポイントを獲得した。日本国内には前年よりブラバム・BT58のシャシーが送られ、それにヤマハ・OX88 V8エンジンを積んだマシンでの走行テストが片山右京小河等により行われたが[7]、ヤマハエンジンとの複数年契約は1991年限りで破棄され、ヤマハは翌年からジョーダン・グランプリへとV12エンジン供給先を変更する[8]

1992年に向け、全日本F3000で活躍した中谷明彦と、モデナ・ランボからの移籍となるエリック・ヴァン・デ・ポールをレギュラードライバーとして起用する契約を結んだが[9]、FISAが中谷へのスーパーライセンス発給を拒否。代役としてスーパーライセンス発給が認められた女性ドライバージョバンナ・アマティや、ミドルブリッジF3000チームに所属していたデイモン・ヒルで参戦したが、中谷と共にチームに加わる予定だったスポンサーを得られなかったこともありニューマシンを導入する余裕はなく予選落ちを連発。ミドルブリッジの財政が限界となりつつある中、チームの運営会社は名称を「アロリック・グループ」と変え、カナダGP終了後にはアストンマーティンの財産管理を受けることとなった。この時点でミドルブリッジ・グループはプロモーション会社から差し押さえを受けるなど末期状態となっていたが、ジョン・マクドナルドがブラバムF1の延命作業を懸命にこなしていた。ヴァン・デ・ポールが「ブラバム買収に関心を持っているというフランスの大企業」を仲介しグランプリ開催期間に買収交渉するなど[10]、ブラバムはまともにレースを戦える状況では無かった。買収の話し合いは続けられたが、8月16日ハンガリーGPを最後にブラバムは撤退した。

レース戦績

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国際F3000選手権

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シャシー エンジン タイヤ 車番 ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1988年 マーチ・87B フォード・DFV A 25   フィル・アンドリュース英語版 JER VLL PAU SIL MNZ PER BRH BIR
DNQ
BUG ZOL DIJ NC 0
1989年 レイナード・89D フォード・DFV A SIL VLL PAU JER PER BRH BIR SPA BUG DIJ
27   マーク・ブランデル 3 Ret 6 DNQ Ret Ret 5 DNS Ret 6 8位 11
28   フィル・アンドリュース 7 Ret DNQ 11 Ret 10 7 Ret 12 Ret NC 0
1990年 ローラ・T90/50 フォード・DFV A DON SIL PAU JER MNZ PER HOC BRH BIR BUG NOG
27   ゲイリー・ブラバム Ret DNQ 12 3 3 14 8 DNQ 8 11 11位 8
28   デイモン・ヒル DNQ Ret Ret 7 11 Ret Ret 2 Ret Ret 10 13位 6

関連項目

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  • 鈴木亜久里 - 1987年7月のF1参戦計画で中内代表が「理想を言えば日本人を走らせたい願望はあります」と取材に回答したことが拡大解釈され、ミドルブリッジF1参戦時のドライバーと報じられた[1]。しかし当時Footwork Sports レーシングチームからF3000に参戦しており実現は不可能だった。

脚注

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注釈

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  1. ^ ミドルブリッジはブラバムを買収する前週にオニクスも買収したが、その週のうちにスイスの資産家グループにオニクスを売却した。

出典

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  1. ^ a b c POWOR ON 日本人オーナーGPに躍り出る グランプリ・エクスプレス 1987イギリスGP号 30-31頁 山海堂 1987年8月5日発行
  2. ^ a b c ブラバム急転ミドルブリッジGr.がオーナーに グランプリ・エクスプレス 1990ブラジル号 30頁 1990年4月14日発行
  3. ^ E.ピロが新生チームでオーストリアGPから参戦 GPX 1987イギリスGP号 29頁 山海堂 1987年8月5日発行
  4. ^ 無念!!ミドルブリッジF1出走かなわず GPX 1987年イタリアGP号 30頁 山海堂 1987年9月25日発行
  5. ^ ついにルーティ逮捕 1億2000万スイスフラン横領容疑 グランプリ・エクスプレス1989イタリアGP号 37頁 1989年9月30日発行
  6. ^ ヤマハ、ブラバムと契約 V12エンジン開発か グランプリ・エクスプレス 1990年サンマリノGP号 30頁 1990年6月2日発行
  7. ^ 小河等が鈴鹿でブラバムのテスト走行を担当した。これは本来テスト担当である片山右京が全日本F3000でポイントリーダーとなり大事を取って欠席したため。 GPX 1991年ハンガリーGP号 47頁 1991年9月4日発行
  8. ^ ヤマハエンジン 来季からジョーダンへ供給  グランプリ・エクスプレス '91ポルトガルGP号 30頁 1991年10月12日発行
  9. ^ バン・デ・ポールのブラバム入り決定、1992年プラス1年のオプション グランプリ・エクスプレス '91オーストラリアGP号 30頁 1991年11月23日発行
  10. ^ チェックアップ・ザ・ポテンシャル BRABHAM チーム買収説浮上 F1グランプリ特集 44頁 ソニーマガジンズ 1992年8月16日発行

外部リンク

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