オニクス・グランプリOnyx Grand Prix)は、1989年から1990年にかけてF1に参戦していたレーシングチーム。創立者はマイク・アール。設立時ファクトリーはイングランド南東部ウェスト・サセックス州リトルハンプトンに置かれた[1]

オニクス
活動拠点 ウェスト・サセックス州リトルハンプトン
創設者 マイク・アール
スタッフ ポール・シェイクスピア
ジョー・シャンパーレイン
参戦年度 1989年 - 1990年
出走回数 26 (17スタート)
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズタイトル 0
優勝回数 0
通算獲得ポイント 6
表彰台(3位以内)回数 1
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 1989年ブラジルGP
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 1990年ハンガリーGP
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経歴

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チームの祖となっているのは、デビッド・パーレイがオーナードライバーを務めるLECである。1973年よりフォーミュラ・アトランティックF5000F2に参戦。1977年にはコンストラクターとしてF1に参戦するも、パーレイの事故によりチームは活動停止となる。LEC主要メンバーだったマイク・アールとグレッグ・フィールドは1978年末に「オニクス・レース・エンジニアリング」を設立。1980年よりマーチのカスタマーチームとして活動し、ジョニー・チェコットリカルド・パレッティらがドライブした。1982年はマーチ・821でF1にプライベート参戦するも、エミリオ・デ・ヴィロタが5戦連続予選落ちとなる。1983年に向けて、パレッティと共にF1に参戦する計画を立てたが、1982年カナダGPでパレッティが事故死したため実現しなかった。

1983年以降はマーチのロビン・ハードからヨーロッパF2選手権のワークスチーム運営を任され、クリスチャン・ダナーエマニュエル・ピッロがドライブ。国際F3000ではトップチームの一角として君臨し、1987年にステファノ・モデナがシリーズチャンピオンを獲得。チームはF1レギュレーションの変更でエンジンが自然吸気のみへと変更される1989年を良い機会ととらえ、F1へのステップアップを決めた。1988年中から計画は進行され、マシンデザイナーに元マクラーレンのアラン・ジェンキンスと契約し、同年12月の完成を目指してマシンの設計が始められた[2]。また、マイク・アールはマクラーレンのロン・デニスとの信頼関係が厚く、マクラーレンのジュニアチームとして機能させる構想もあった[3]。このためF3000時代にオニクスのメインスポンサーであったマールボロ(マクラーレンのタイトルスポンサーでもある)からの支援継続もスムーズに決定した。ドライバーはF3000で所属していたモデナやピロの他、フェラーリからの放出が決まっていたマールボロドライバーのミケーレ・アルボレート[4]、イギリスF3チャンピオンとなったJ.J.レートとも1988年中に交渉が行われたが、新規参戦チームに課されることが決まっていた金曜朝の予備予選への参加を嫌がるドライバーが多く[5]、交渉は難しいものとなった[2]

1989年

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ベルトラン・ガショー(1989年ベルギーGP

F1参戦初年度はアラン・ジェンキンス設計のORE1を製作し、エンジンはコスワース・DFRブライアン・ハートチューン)を搭載。タイヤはグッドイヤー。ドライバーは元マクラーレンでマールボロドライバーのステファン・ヨハンソンが加入し、セカンドシートには国際F3000に参戦しており同じくマールボロドライバーの新人ベルトラン・ガショーの起用が決まった。ガショーはメインスポンサーを持ち込んだこともシートを得た大きな要因であった(第13戦以降はJ.J.レートに交代)。ガショーが仲介したスポンサーはオーナーの実業家(その後国会議員にもなった)のジャン=ピエール・バン・ロッセム (en: Jean-Pierre Van Rossem)が経営する投資会社「マネートロン(Moneytron)」で、その額はおよそ20億円と大きな額であった。ロッセムはその怪しげな風貌でパドックで好奇の目を集める存在となる[6]

エンジンのNA化によりこの年から39台と参戦台数が増えたことにより、新規参戦のオニクスには予備予選への出走義務が課された。この予備予選で13台中上位4台に入るのが狭き門となり、予備予選落ちが多かった。しかし予備予選さえ通過できればマシンの戦闘力は高く、第4戦メキシコGP以降はヨハンソンが度々好走を見せた。第7戦フランスGPにて5位入賞、第13戦ポルトガルGPではヨハンソンが3位入賞と新興チームで唯一表彰台を獲得し、コンストラクターズ選手権では10位と記録を残した。

なお、第12戦イタリアGPを最後にガショーが解雇されたが、その理由は「公式の場でチーム体制への批判をしゃべりすぎた」ことにマネートロンのバン・ロッセムが「ガショーのことは自分の息子同然だと思っているが、それでも一連の発言は許せない」と激怒したためだった[7]

1990年

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前年の成績で予備予選が免除され、マシンは前年型の改良型ORE1Bを使用。エンジンは引き続きコスワースDFRを搭載、タイヤもグッドイヤーを装着した。チームはF1へのエンジン供給再開を表明したポルシェと翌1991年からのV12エンジン供給契約の交渉をしていたが、ジャパンマネー(フットワーク)の注入で資金力豊かなアロウズに契約を奪われた。このポルシェエンジン獲得失敗によりF1への興味を失ったバン・ロッセムは2月23日にパリのホテル・リッツで「F1から手を引く」と会見し、チーム所有権を放棄[8]。これに伴いチーム創立者であるマイク・アールもチームを去った。ドライバーはヨハンソンと、前年第13戦から参戦したレートの2台でエントリーしていた[9]。しかしマネートロンに代わるスポンサーも無く参戦継続が危ぶまれ始める。一時的にバン・ロッセムに代わりバーニー・エクレストンがオニクスの株を所有していたこともあった[10]

開幕戦アメリカGPのパドックでは同じく資金難となっていたブラバムとオニクスの合併が報道され始め[10][11]第2戦ブラジルGP終了後、スイスの高級車メーカー「モンテヴェルディ」の創業者ペーター・モンテヴェルディとカール・フォイテク(グレガー・フォイテクの父)らのスイス人投資家グループが新オーナーとなり[12]、デザイナーのアラン・ジェンキンスはチームを離脱。主要デザインスタッフのデイブ・エイミーもチームを追われ、ドライバーのステファン・ヨハンソンとの契約を一方的に解除[13]。すると新たにスイスドライバーのグレガー・フォイテク(父・カールが新出資者)をブラバムより移籍加入させる。以後は前年の実績が無駄になるように、チームは弱体化に向かった。チームからすでに去ってはいたが、「無限の利益と配当を保証する」と喧伝されていた「マネートロン」も詐欺で告発され、バン・ロッセムは逮捕された。

新オーナーのモンテヴェルディは、自分の本拠地スイスにファクトリーを移転させるとスタッフに通告。エンジンメンテナンスもそれまでのブライアン・ハートからスイスのハイニー・マーダー・レーシング・コンポーネンツドイツ語版へと独断で変更された。7月からは一方的にスイスへのファクトリー移転作業を始めると、元々いたイギリス人メカニックのほとんどがチームを辞めた[14]。グランプリの現場ではモンテヴェルディとカール・フォイテクの意向からグレガー・フォイテクに肩入れする体制となり、レートのマシンにはトランスミッションをまともに組めるメカニックが存在しないというレーシングチームの体を成していないチーム状態となった[15]。第9戦ドイツGPよりチーム名を「モンテヴェルディ・オニクス」に変更するも、第10戦ハンガリーGPではエンジニアとメカニックの人数不足からまともに走行する事が出来ず、予選落ち。危険を感じるようになったレートのマネージャーケケ・ロズベルグが怒り「もうこんなチームではJJを走らせない」とモンテヴェルディ・オニクスに見切りをつけ、予選終了後レートと共にチームから離脱した。ハンガリーではフォイテク家もメカ不足で危険だと訴え、やはりチームから離脱。モンテヴェルディはベルギーGP以後も参戦継続しようとスーパーライセンスを所持する他のドライバー数名に声を掛けたが、すべて断られた。参戦資金と両ドライバーを失ったチームは結局ハンガリーGPでの2台予選落ちを最後に撤退、消滅した[16]

スイスにあるモンテヴェルディ自動車博物館にはオニクス・ORE1が展示保存されている[17]

尚、バン・ロッセムは数年間服役をしたのちベルギーで政界に進出。その後も歯に衣着せぬ発言で度々世間を騒がせたものの、2018年12月13日に死去(73歳没)。

ドライバー

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F1
F3000

F1における全成績

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(key)

シャシー エンジン タイヤ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 ポイント 順位
1989年 オニクス・ORE1 コスワース・DFR G BRA
 
SMR
 
MON
 
MEX
 
USA
 
CAN
 
FRA
 
GBR
 
GER
 
HUN
 
BEL
 
ITA
 
POR
 
ESP
 
JPN
 
AUS
 
6 10
  ステファン・ヨハンソン DNPQ DNPQ DNPQ Ret Ret DSQ 5 DNPQ Ret Ret 8 DNPQ 3 DNPQ DNPQ DNPQ
  ベルトラン・ガショー DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ 13 12 DNQ Ret Ret Ret
  J.J.レート DNPQ Ret DNPQ Ret
1990年 オニクス・ORE1B コスワース・DFR G USA
 
BRA
 
SMR
 
MON
 
CAN
 
MEX
 
FRA
 
GBR
 
GER
 
HUN
 
BEL
 
ITA
 
POR
 
ESP
 
JPN
 
AUS
 
0 -
  ステファン・ヨハンソン DNQ DNQ
  グレガー・フォイテク Ret 7 Ret 15 DNQ DNQ Ret DNQ
  J.J.レート DNQ DNQ 12 Ret Ret Ret DNQ DNQ NC DNQ

脚注

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  1. ^ Moneytron Onyx 1989F1日本グランプリ公式プログラム 56頁 株式会社鈴鹿サーキットランド 1989年10月発行
  2. ^ a b オニックスF1ヘ向けて始動 GPX '88スペインGP号 28頁 1988年10月22日発行
  3. ^ この信頼関係に関連し、1989年8月にはデニスがホンダに対して第二のエンジン供給先としてオニクスを推薦したこともあった。 出典:ホンダの新たな供給先はオニックスかティレルか? GPX '89イタリアGP号 37頁 1989年9月30日発行
  4. ^ アルボレートの行方はオニックスか GPX '88ポルトガルGP号 28頁 1988年10月15日発行
  5. ^ 特にアルボレートは「今になって予備予選は絶対に嫌だ。」と条件を譲らなかった。しかし結果的にアルボレートは同年後半に予備予選組のラルースに移籍する。
  6. ^ F1の奇妙なスポンサー2:怪しすぎるオーナーの下、チームは活躍「マネートロン」 motorsport.com 日本版(2020年4月20日)
  7. ^ 来シーズンのガショー グランプリエクスプレス '89日本GP号 45頁 1989年11月9日発行
  8. ^ バン・ロッセムは'89シーズン中から「もっとチームを大きくしたい。そのためのカネは出す。アラン・プロストネルソン・ピケに入ってもらえたら最高だと思ってコンタクトを取ったし、ポルシェのエンジンは絶対に取りたい」とポルシェ獲得に執着していた。
  9. ^ 前年でチーム・ロータスとの契約を終えた中嶋悟とも交渉があった。中嶋側は予備予選が無いことを重要条件としていた。これはホンダに第2の供給チームとしてオニクスかティレルを推薦したロン・デニスのアレンジでもあった。中嶋は結果的にティレルと契約するがオニクスも候補先の1つであった。
  10. ^ a b ブラバムとオニックスに合併の動き 売りに出された両チーム グランプリ・エクスプレス アメリカGP号 30頁 山海堂 1990年3月31日発行
  11. ^ ブラバムの新オーナーとなるミドルブリッジ・グループが実際にオニクスを3月に一度買収していた。
  12. ^ スイス投資家グループはチーム創設者のアールからではなく、ミドルブリッジからの転売でオニクスのオーナーとなった。
  13. ^ 混迷極めるオニックス デザイナー抜きの再出発。 グランプリ・エクスプレス サンマリノGP号 31頁 山海堂 1990年6月2日発行
  14. ^ オニックスの名前がF1から消える グランプリ・エクスプレス 西ドイツGP号 30頁 山海堂 1990年8月18日発行
  15. ^ オート・テクニック 1990年6月号 山海堂
  16. ^ モンテベルディ F1から撤退 F1GPX 1990年第11戦ベルギーGP号 30頁 山海堂 1990年9月15日発行
  17. ^ MONTEVERDI Formula1モンテヴェルディ・オートミュージアム公式ウェブサイト

関連項目

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