ロベルト・モレノ

Roberto Morenoから転送)

ロベルト・プポ・モレノRoberto Pupo Moreno, 1959年2月11日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ出身のレーシングドライバー1988年には国際F3000のシリーズチャンピオンを獲得するなど実力はあるものの、スポンサーや運に恵まれず、F1においては多くの弱小チームを転々としたことで知られる。

ロベルト・モレノ
Roberto Moreno
ロベルト・モレノ (2007年)
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1959-02-11) 1959年2月11日(65歳)
出身地 ロベルト・プポ・モレノ
Roberto Pupo Moreno
ブラジルの旗 ブラジル
リオデジャネイロ
基本情報
略称表記 MOR
F1での経歴
活動時期 1982,1987,1989-1991,1992,1995
所属チーム '82 ロータス
'87 AGS
'89 コローニ
'90 ユーロブルン
'90-'91 ベネトン
'91 ジョーダン
'91 ミナルディ
'92 アンドレア・モーダ
'95 フォルティ
出走回数 77 (42スタート)
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 1
通算獲得ポイント 15
ポールポジション 0
ファステストラップ 1
初戦 1982年オランダGP
最終戦 1995年オーストラリアGP
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基本情報
CARTチャンプカー・ワールド・シリーズでの経歴
所属 ゲイルズ・レーシング
ペイトン/コイン・レーシング
ベッテンハウゼン・モータースポーツ
ニューマン/ハース・レーシング
プロジェクト・インディ
パックウェスト・レーシング
パトリック・レーシング
ハーデス・コンペティション
パシフィック・コースト・レーシング
活動時期 1985-1986,1996-2001,2003,2007
出走回数 120
優勝回数 2
ポールポジション 2
シリーズ最高順位 3位 (2000)

名前のカタカナ表記は「ホベルト・モレーノ」の方が実際の発音に近いが、日本国内では一般に「ロベルト・モレノ」の表記が定着しているため、本記事でもそちらを採用する。

プロフィール

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デビュー

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1974年カートレースを始め、1979年にはイギリスに渡りフォーミュラ・フォードに挑戦。1981年にはイギリス国内のフォーミュラ・フォード選手権チャンピオンとなり、翌1982年イギリス・フォーミュラ3選手権にステップアップ。同年マカオGPで優勝した。

F1/F2/F3000時代

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ロータス91でオランダGPの予選に挑むモレノ(1982年)

1982年、イギリスF3での走りを評価したチーム・ロータスがモレノをテスト・ドライバーとして起用、3年間のテスト契約を結ぶ。オランダGPでは欠場するナイジェル・マンセルの代役としてロータスからF1参戦を果たしたが、予選通過に失敗し公式記録上のF1デビューを果たせなかった。以後F2CARTF3000など様々なカテゴリーを掛け持ちする生活が続く。1985年には来日してノバ・エンジニアリングに加入し全日本F2選手権にシーズン途中から参戦した。

F1時代

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1987年

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1987年日本GPでフランスのAGSよりF1に復帰し初の予選通過。公式記録上はこれが「F1デビュー」となった。続く最終戦オーストラリアGPでは6位でゴールし初入賞を果たした。

1988年

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翌1988年にはフェラーリのテストドライバーとなり、翌年より全面施行される3.5リッター・NAエンジン規定に向けた先行開発マシン、フェラーリ・639の開発を任される。ジョン・バーナードがデザインした同マシンは、1990年代以後のF1でスタンダードとなっているセミオートマチックトランスミッション(パドルシフト)を搭載するなど、多くの新機軸が盛り込まれたマシンだった(結局同マシンは翌年に改良版のフェラーリ・640としてデビューする)。

その際、モレノはプレスに一言もリップサービスすることなく機密を守り、黙々と仕事をし、これがバーナードが信頼を寄せるきっかけとなった。モレノは同マシンの開発を行うかたわら、並行して1988年の国際F3000選手権に参戦し、4勝を挙げる独走で同シリーズのチャンピオンを獲得する(シリーズ2位はオリビエ・グルイヤール)。

1989年

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そして1989年コローニから初めてのF1フル参戦、しかしマシンは速さが決定的に欠けており、シーズン後半は予備予選組に転落、結局予選を通過したのはこの年4回のみだった(完走ゼロ)。

1990年

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ユーロブルンに移籍する。序盤戦こそ予備予選を通過して決勝で完走も果たすが、中盤戦以降は予備予選落ちが続いた。チームも資金不足のため日本GPを含む終盤2戦の参戦を断念。F1シートを失った。一方でモレノは夏前から翌シーズンに向けてブラバムと接触していた。同じくブラバムと交渉しシートが内定していたマーティン・ブランドルも「('91の)チームメイトはモレノになるだろうと思っていた」と述べている[1]

また、この年からベネトンに移籍していたジョン・バーナードがフェラーリ時代のテストで旧知のモレノに白羽の矢を立て、ベネトンのテストドライバーに起用し、ユーロブルンでのレースと並行して活動した。

日本GP直前の10月12日ベネトンアレッサンドロ・ナニーニヘリコプターの墜落で右腕を切断する事故が発生した。ベネトンは日本GPでのナニーニの代役としてモレノを起用し、モレノはその期待に応え、日本GPでネルソン・ピケに次ぐ2位に入り、ベネトンはチーム初となる1-2フィニッシュを達成した。

レース終了後、検車場に降り立った苦労人は感極まってピケやバーナードらと抱き合い男泣きに泣いたが、3位の鈴木亜久里と共に立った初のF1表彰台では終始人懐っこい笑顔を見せ、国歌演奏時ピケに帽子を取るよう促された際は脱帽後照れ隠しに舐めた掌で自身の頭を撫で回し、大観衆の笑いを誘った。そしてトロフィー授与の場面では、観客からピケや鈴木にひけを取らない拍手と歓声が送られた。

ちなみに日本GPの決勝終了後の記者会見では、日本人として初めてF1の表彰台に上った鈴木亜久里が「僕は前の年、毎レース金曜の朝8時から9時まででレースが終わってしまってばかりで…」と語っているところに、自らも予備予選落ちを繰り返していた経験を踏まえ「I know this feeling!」と合いの手を入れ、報道陣を爆笑させた[2]

1991年

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ベネトンB191・フォード(1991年)

前年の代役から翌1991年はベネトンのレギュラードライバーとなり、ようやく安定した体制で戦えるシートを手に入れた。イタリアGPまでに2度の4位入賞を果たし堅実なドライビングを見せていたが、チームメイトのピケに対し成績で劣り、またシーズン半ばでモレノの後ろ盾だったジョン・バーナードがベネトンを離脱した影響もあり、フラビオ・ブリアトーレベルギーGPミハエル・シューマッハジョーダン・191に乗り鮮烈なF1デビューを飾ると、シューマッハを強引にベネトンへと引き抜き、モレノを放出する。

モレノはベネトンチームから支払われた違約金を持ち込んでジョーダンに移るが、そのシートも2戦限りでアレッサンドロ・ザナルディに奪われてしまう。最終戦オーストラリアGPでは、度重なるチーム批判の結果フェラーリを解雇されたアラン・プロストの代役を、当時フェラーリのテストドライバーを兼務していたミナルディのジャンニ・モルビデリが務めることとなったため、その代役としてモレノは1戦のみミナルディのシートを得たがチーム残留は果たせず、この年は1年で3チームから出走するなど、またしても元の流浪のドライバー生活に戻ってしまった。

1992年

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シーズン開幕時には正シートを得られず、ロン・デニスからマクラーレン・ホンダのテストドライバー就任要請があり、91/92オフシーズンテストではまだしばらくは実戦で継続使用されるMP4/6の改良テストをアラン・マクニッシュと共に行っていた[3]。しかし古巣であるコローニを買収して新規参戦するアンドレア・モーダアレックス・カフィエンリコ・ベルタッジアというレギュラードライバーを1戦も走らせず解雇し、モレノにF1実戦復帰のオファーをしたため、マクラーレンのテスト契約を辞してアンドレア・モーダに加入した。しかし予選通過はモナコGPの1回のみに終わった(とは言え、アンドレア・モーダは予選通過はおろか予備予選通過も不可能といわれていたマシン・チームで、この予選通過は奇跡と言われた)。そのアンドレア・モーダはイタリアGPにおいてFISA(国際自動車スポーツ連盟、現在は国際自動車連盟(FIA)に吸収される)より参戦禁止処分を受けF1から追放、モレノもそれによりまたF1シートを失う。

1995年

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フォルティ・コルセFG01・フォード(1995年)

その後はイタリアとフランスのツーリングカー選手権やパン・アメリカン・カート選手権に参戦しながらF1復帰のチャンスをうかがい[4]、1995年には経験を買われてこの年から新規参戦したフォルティ・コルセより3年ぶりにF1に復帰。関係者から大いに祝福されたが、例によって弱小チームゆえマシンも遅く、参戦チーム数の減少により予選落ちがなくシーズン全戦で決勝に進んだが、チームメイトのペドロ・ディニスの裏方に徹し目立たない1年となった(最高位はベルギーGPの14位)。

パシフィックGP日本GPにはスポンサーを持つ野田英樹のスポット参戦が決まりシートを明け渡すことになっていたが、直前になってFIAが野田にスーパーライセンスの発給を認めないことになったため、木曜の昼になって急遽モレノが呼び戻され、香港にいたモレノは飛行機を手配して岡山に急行した[5]。この年を最後にF1シートを得ることは無かった。

CART/インディカー

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CART時代(1997年)

1996年より本格的にアメリカ大陸のレースに活動を移し、ペイトン・コインよりCARTへ参戦する。1997年以降はなかなか安定したシートは得られず、専ら「スーパーサブ」として、ドライバーのケガなどでシートに空きの出たチームからレースに出走することが多くなり、1997年は3チーム、1998年は2チーム、1999年は2チームからスポット参戦した。1998年はシーズン途中からトップチームであるペンスキーのテストドライバーに就任した[6]。1999年は7戦欠場したにもかかわらず総合ランキング14位に入った。

2000年には久々にパトリック・レーシングよりレギュラー参戦を果たし、クリーブランドで優勝。2001年バンクーバーで優勝を果たした。2003年でチャンプカー(CARTより改称)への参戦に一区切りを打つ。

2005年よりアメリカのスポーツカーレースであるグラン・ダム・シリーズに参戦する一方、インディカー・シリーズに参戦するエド・カーペンターのコーチを務めていたが、2006年3月にホームステッド=マイアミ・スピードウェイで行われた開幕戦でカーペンターとポール・ダナが接触し、ダナが死亡、カーペンターが負傷したことから、次戦ではモレノが急遽カーペンターの代役として参戦することになった。急なスポット参戦だったが予選11位、決勝10位の結果を残す。

2007年以降はチャンプカーやインディ500に代役で出走した。2008年は、チャンプカー・シリーズがインディカー・シリーズとの統合により消滅したことによる最後のシーズンとなる中、ロングビーチ・グランプリミナルディチームUSAから参戦した。

エピソード

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  • 1987年は終盤戦のみAGSに加入しF1参戦し、AGSでの2戦目(1987年オーストラリアグランプリ)で1ポイントゲットしたものの、チームからのギャラは支払われず、しかもチームが支払うべきホテル代やクリーニング代すらも支払われなかったため、モレノ自身が全てを立替払いした。後にAGSとは裁判沙汰に発展した。
  • 身長168cm、体重58kg、と華奢な体型でありかつ年齢の割には頭髪が薄く、1990年日本GPでネルソン・ピケとベネトン&ブラジリアン1-2フィニッシュを決めた際の2人の抱擁シーンでは「どちらが年上かわからない」とスポーツ誌に茶化されたこともある。
  • 1990年、アレッサンドロ・ナニーニの代役としてベネトンに乗ることが決まった当日、その日の午前中、モレノは翌年のシート探しを兼ねて、ブラバムのオフィスに行こうとするも、素っ気なく断られた。その後ベネトンのジョン・バーナードに電話をすると「お茶でもしないか?来季のマシンを見ることならできるよ」と誘われ、ベネトンのオフィスを訪れた。そして2人が雑談しているときに、ナニーニのヘリコプター事故の知らせが入った。ベネトンでは緊急会議を開き、まず最初に鈴鹿をよく知る星野一義に代役オファーを出したが、金銭条件が折り合わず星野が固辞したため、会議の間オフィスに足留めされていたモレノがバーナードの推薦で代役となった[7]
  • 1990年の日本グランプリでピケと1-2フィニッシュを達成したことで、一気に日本のF1ファンにその名が知れ渡った。ベネトンチームがレース直前ナニーニのヘリコプター事故で注目されてしまった事・モレノ自身が優勝した元チャンピオン・ピケの無名時代からの舎弟関係だった事、表彰台に、自身と同じく前年の予備予選で苦しんだ「戦友」の鈴木亜久里が3位で一緒に上がった事などがその要因となっている。
  • 1995年の日本GPの予選中にヘアピンカーブでマシンが止まった際、「ロベルトー!」「モレノー!」と観客から数多くの声援が飛んだ。モレノもそれに応じ、観客スタンドへにこやかに手を振り好漢ぶりを示した。
  • 1999年、ロビー・ゴードンと共に5月29日のCART第6戦マディソン(モトローラ300(約480km))と、翌日開催のIRL第4戦インディ500(約800km)にかけ持ち出走するというタフな一面を見せた。両レース完走すれば2日間で約1280kmのレース距離を消化することになったが、モレノは約970km、ゴードンは約820kmを走った[8]
  • 2000年、CART第9戦クリーブランドにおいて初優勝した際のインタビューで、「『に行きたい』と言って相手にされなくても、努力を重ね、とうとう月に到達する。それが人生だと思う。」と語った[9]。現在でもレース関係者が発した名言の代表格とされている。
  • 2017年に鈴鹿サーキットで開催された「Suzuka Sound of Engine 2017」にゲストとして登場。トークショーに出演し片山右京との共演や、往年のF1マシンによるデモ走行も行なった。なお、鈴鹿を訪れたのは1995年のフォルティF1時代以来22年ぶりだった[10]

カーナンバー (F1)

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  • 12 (1982年第9戦)
  • 14 (1987年第15戦、16戦)
  • 31 (1989年)
  • 33 (1990年第1戦〜14戦)
  • 19 (1990年第15戦〜1991年第11戦)
  • 32 (1991年第12戦、13戦)
  • 24 (1991年第16戦)
  • 34 (1992年第3戦〜7戦、9戦〜12戦)
  • 22 (1995年)

レース戦績

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イギリス・フォーミュラ3選手権

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エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント
1981年 バロンレーシング ラルト RT3 トヨタ 2T-G SIL THR SIL MAR THR THR SNE
DNS
SIL
4
CAD
6
SIL
1*
SIL
6
BRH
14
SIL
DSQ
MAR
1
OUL
Ret
SIL
8
OUL
3
SIL
6
SNE
2
THR
4
11位 10
1982年 Lvens Lumar Racing SIL THR SIL THR MAR
Ret
SNE
3
SIL
1
SIL
4*
CAD
1
SIL
1
BRH
3
OUL
Ret
BRH
Ret
SIL SNE OUL SIL BRH THR 6位 42
アルファロメオ MAR
DNS
  • * : ヨーロッパF3との合同レース

全日本F2選手権

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チーム マシン エンジン タイヤ 車番 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1984年 ラルト ラルト・RH6/84 ホンダ・RA264E B 21 SUZ FSW NIS SUZ SUZ FSW SUZ SUZ
3
12位 12
1985年 ADVANノバ マーチ・842 ホンダ・RA265E Y 10 SUZ FSW NIS SUZ
6
SUZ
Ret
FSW
Ret
SUZ
2
SUZ
Ret
11位 21

ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権

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チーム シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1984年 Ralt Racing Ltd. ラルト・RH6 ホンダ・RA264E SIL
2
HOC
1
THR
Ret
VLL
2
MUG
Ret
PAU
3
HOC
Ret
MIS
NC
PER
2
DON
1
BRH
3
2位 44

国際F3000選手権

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エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1985年 バロン・レーシング ティレル・012 コスワース DFV SIL
6
THR
Ret
EST
5
NÜR VLL
9
PAU SPA DIJ PER ÖST ZAN DON 15位 3
1986年 ブロムレイ・モータースポーツ ラルト・RT20 SIL VLL PAU SPA IMO MUG PER ÖST BIR
10
BUG JAR NC 0
1987年 ラルトレーシング ラルト・RT21/87 ホンダ・RA387E SIL
3
VLL
11
SPA
3
PAU
10
DON
4
PER
1
BRH
3
BIR
2
IMO
5
BUG
9
JAR
Ret
3位 30
1988年 ブロムレイ・モータースポーツ レイナード・88D コスワース DFV JER
Ret
VLL
4
PAU
1
SIL
1
MNZ
1
PER
Ret
BRH
Ret
BIR
1
BUC
5
ZOL
5
DIJ
Ret
1位 43
所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1982年 ロータス 91 RSA BRA USW SMR BEL MON DET CAN NED
DNQ
GBR FRA GER AUT SUI ITA CPL NC
(40位)
0
1987年 AGS JH22 BRA SMR BEL MON DET FRA GBR GER HUN AUT ITA POR ESP MEX JPN
Ret
AUS
6
19位 1
1989年 コローニ FC188B BRA
DNQ
SMR
DNQ
MON
Ret
MEX
DNQ
USA
DNQ
NC
(21位)
0
C3 CAN
Ret
FRA
DNQ
GBR
Ret
GER
DNPQ
HUN
DNPQ
BEL
DNPQ
ITA
DNPQ
POR
Ret
ESP
DNPQ
JPN
DNPQ
AUS
DNPQ
1990年 ユーロブルン ER189 USA
13
BRA
DNPQ
SMR
Ret
MON
DNQ
CAN
DNQ
10位 6
ER189B MEX
DSQ
FRA
DNPQ
GBR
DNPQ
GER
DNPQ
HUN
DNPQ
BEL
DNPQ
ITA
DNPQ
POR
DNPQ
ESP
DNPQ
ベネトン B190 JPN
2
AUS
7
1991年 B190B USA
Ret
BRA
7
10位 8
B191 SMR
13
MON
4
CAN
Ret
MEX
5
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
8
HUN
8
BEL
4
ジョーダン 191 ITA
Ret
POR
10
ESP JPN
ミナルディ M191 AUS
16
1992年 アンドレア・モーダ S921 RSA MEX BRA
DNPQ
ESP
DNPQ
SMR
DNPQ
MON
Ret
CAN
DNPQ
FRA GBR
DNPQ
GER
DNPQ
HUN
DNQ
BEL
DNQ
ITA POR JPN AUS NC
(34位)
0
1995年 フォルティ FG01 BRA
Ret
ARG
NC
SMR
NC
ESP
Ret
MON
Ret
CAN
Ret
FRA
16
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
14
ITA
Ret
POR
17
EUR
Ret
PAC
16
JPN
Ret
AUS
Ret
NC
(32位)
0

CART,CCWS

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チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 順位 ポイント
1985年 ガレス・レーシング LBH INDY MIL POR MEA
Ret
CLE MIS1 ROA
Ret
POC MDO
Ret
SAN MIS2 LS
Ret
PHX MIA
5
28位 10
1986年 PHX1
Ret
LBH
Ret
INDY
Ret
MIL
13
POR
Ret
MEA
Ret
CLE
Ret
TOR
Ret
MIS1
6
POC
10
MDO
Ret
SAN MIS2
6
ROA
Ret
LS
Ret
PHX2
10
MIA
Ret
16位 30
1994年 アリゾナ・モータースポーツ SRF PHX LBH INDY
DNQ
MIL DET POR CLE TOR MIS MDO NHM VAN ROA NZR LS NC 0
1996年 ペイトン・コイン・レーシング MIA
27
RIO
9
SRF
12
LBH
8
NZR
24
500
3
MIL
25
DET
23
POR
19
CLE
14
TOR
23
MIS
23
MDO
23
ROA
22
VAN
27
LS
12
21位 25
1997年 MIA
24
SRF 19位 16
ニューマン・ハース・レーシング LBH
24
NZR
14
RIO
18
GAT
25
MIL
10
DET
5
POR CLE TOR MIS MDO ROA
ベッテンハウゼン・レーシング VAN
15
LS
10
FON
1998年 プロジェクト・インディ MIA
15
MOT
26
LBH NZR RIO GAT 31位 0
ニューマン・ハース・レーシング MIL
24
DET POR CLE TOR MIS MDO ROA VAN LAG HOU SRF FON
1999年 パックウェスト・レーシング MIA MOT LBH NZR RIO
11
STL
4
MIL
12
POR
7
CLE
8
ROA
19
TOR
4
MIS
19
14位 50
ニューマン・ハース・レーシング DET
14
MDO
16
CHI
9
VAN
15
LS
2
HOU SRF FON
2000年 パトリック・レーシング MIA
2
LBH
9
RIO
6
MOT
3
NZR
14
MIL
5
DET
17
POR
2
CLE
1*
TOR
13
MIS
23
CHI
6
MDO
11
ROA
4
VAN
10
LS
25
STL
3
HOU
11
SRF
19
FON
2
3位 147
2001年 MTY
27
LBH
11
TXS NZR
12
MOT
10
MIL
15
DET
3
POR
2
CLE
8
TOR
11
MIS
12
CHI
20
MDO
6
ROA
11
VAN
1
LAU
23
ROC
13
HOU
22
LS
22
SRF
22*
FON
19
13位 76
2003年 ハーディス・コンペティション STP
5
MTY
6
LBH
17
BRH
7
LAU
10
MIL
19
LS
15
POR
9
CLE
18
TOR
6
VAN
17
ROA
7
MDO
19
MTL
7
DEN
16
MIA
/2
MXC SRF
16
13位 67
2007年 パシフィック・コースト・モータースポーツ LVG LBH HOU
12
POR CLE MTT TOR EDM SJO ROA ZOL ASN SRF MXC 22位 9

フランス・スーパーツーリング選手権

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チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1993年 グラフレーシングチーム・アルファロメオ アルファロメオ・155 NOG MAG DIJ
3
PAU
4
VDV LEC
2
ALB
4
BUG
6
DML NOG 7位 94

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回数 総合順位 クラス順位
1984年   スコール・バンディット・ポルシェ・チーム
  ジョン・フィッツパトリック・レーシング
  ガイ・エドワーズ
  ルパート・キーガン
ポルシェ・962 C1 72 DNF DNF

デイトナ24時間レース

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チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回 総合 クラス
2005年   スピリット・オブ・デイトナ・レーシング   ドグ・ゴーアド
  ステファン・グレゴイル
  ボブ・ワード
クロフォード・ポンティアタック-DP03 DP 194 DNF DNF
2007年   ブルモス・レーシング   J・C・フランス
  ハーレイ・ヘイウッド
  ジョアン・バルボーザ
  デイビッド・ダナヒュー
ライリー・Mk.XI-ポルシェ DP 662 4位 4位

スパ・フランコルシャン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1987年   BMW・シュニッツァー   アラン・グライス
  ウィルヘルム・サイラー
BMW・M3 Div.2 178 DNF DNF

脚注

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  1. ^ Driver'sインタビュー4 マーティン・ブランドル グランプリ・エクスプレス 1991オフシーズンスペシャル 1991年2月8日発行
  2. ^ この記者会見の模様は、この日本GPをテーマとしたCD「Rocketing Aguri, Flashing Satoru!」(ポニーキャニオン)に収録されている。
  3. ^ トップチームのトライ&トライ マクラーレン・ホンダ GPXカレンダー号 3頁 1991年12月21日発行
  4. ^ 『Racing On』No.302 ニューズ出版、1999年、p.103。
  5. ^ 「F1グランプリ特集 特別編集 F1グランプリ・イヤーブック1995-1996」、p.109、ソニーマガジンズ、1996年。
  6. ^ 『Racing On』No.271 ニューズ出版、1998年、p.22。
  7. ^ 『日本の名レース100選 038 '90F1日本GP』三栄書房、2007年、P.83頁。
  8. ^ 『Racing On』No.296 ニューズ出版、1999年、p.27。
  9. ^ 『Racing On』No.324 ニューズ出版、2000年、p.123。
  10. ^ ロベルト・モレノが鈴鹿に登場、F1マシンもドライブ【鈴鹿サウンドオブエンジン】 Responce 2017年11月22日

関連項目

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タイトル
先代
ボブ・エール
マカオグランプリ優勝者
1982年
次代
アイルトン・セナ
先代
ステファノ・モデナ
国際F3000選手権
1988年
次代
ジャン・アレジ