名字

近代以前の日本における名字
苗字から転送)
人名 > (ファミリーネーム) >  > 名字(苗字)

名字または苗字(みょうじ、英語: surname)は、日本の家(家系家族)ののこと。法律上は民法750条、790条など)[注 1]、通俗的には(せい)ともいう。

世界的にはイギリスドイツのように移民が集まる国では名字の数が多くなり、世界中の名字が集まる状態であるが[1]中国韓国では一文字姓が原則とされているので種類が少なく、特に韓国では約280種類しかない[1]

日本の名字

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日本の名字は、元来「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国から日本に入ってきた「(あざな)」の一種であったと思われる。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号としていたが、これが公家武家における名字として発展していった。近世以降、「苗字」と書くようになったが、戦後当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったため再び「名字」と書くのが一般になった[要出典]。以下の文では表記を統一するため固有名、法令名、書籍名を除き「名字」と記載する。

「名字」と「姓」又は「氏」はかつては異なるものであった。たとえば清和源氏新田氏流を自称した徳川家康の場合は、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が「名字」、「次郎三郎」が「通称」、「源」が「(うじ)」ないし「姓(本姓)」、「朝臣」が「姓(カバネ)」(古代に存在した家の家格)、「家康」が「(いみな)」(本名、実名)となる。

日本での名字の数は、たとえば「斎藤」と「斉藤」を別としてカウントし、「河野」を「こうの」と「かわの」で区別して別にカウントするなどという方法をとれば、一説には20万種にも達するなどとも言われるが[1]、20万種は多すぎる、実際には10万種ほどだろう、という見解を示す意見もあり、正確な推定は難しい[1]。しかし世界的に見れば多いほうであることは事実である。これほど名字が増えた要因として、日本人は他国・他地域と比べて「同族」という意識よりも「家」の意識を重要視し、同族であってもあえて名字を変えて「家」を明確にしたり、地名を用いて「家」を明らかにしたからと考えられる。 また明治新政府が、国民に名字を持つことを義務付け、その結果庶民はそれまでもともと通称としていた名字を正式に名乗り出した例の他に、新たな名字を名乗った例もあり、明治時代に一気に名字の数が増えた、という意見がある[1]。一説によると、幕末期と明治期を比べると、一気に数倍に増えたという[1]

日本人の名字の由来は、様々な分類法があるが、次のように分類することもできる[1]

渡辺高橋佐々木石川長谷川三浦千葉など[1]
山本山田池田など[1]
西喜多辰巳、乾など[1]
服部鍛冶庄司東海林犬飼鵜飼公文など[1]
  • 藤原氏に由来[1](ただしその多くは藤原氏と血縁的関係にないと考えられる[2]
佐藤伊藤安藤加藤など[1]

江戸時代までの名字

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公家の名字

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古代の氏族制度が律令制へ移行した後に、氏族格式そのものよりもその本人が属する家系や家格の方が重要になり、従来のの中でもその家を区別する必要が現れた。たとえば、同じ藤原氏でも藤原南家藤原北家藤原式家藤原京家の藤原北家の中でも道長頼通流とそれ以外といった様に同じ氏の中でも格の違いが現れている。

そのため、その家を現すためにその出身地を付けたのが名字の始まりと言われている。平安時代の貴族は母親の邸宅で育つため、その母方の邸宅のある地名などを名字につけた。貴族の初期の名字は一代限りのもので、号といい家名を現すものではなかったが、平安時代後期から妻取婚へと大きく変わり、父子別々だった称号が父から子へ孫へと代々受け継がれ、その家系を示す様になり家名となった(近衛家九条家西園寺家など)。この家名が武家社会以降の公家の名字となり、明治維新以降も受け継がれることとなる。

武士の名字

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平安時代後期になると律令制が崩壊し、荘園の管理や自ら開拓した土地や財産を守るために武装集団である武士が出現する。武士は自らの支配している土地の所有権を主張するために自分の所有する土地(本貫地)( - みょう)の地名を名字として名乗り、それを代々継承した。また荘官であれば荘園の名称を、郡司であれば郡の名称を名字とする者も現れた。

鎌倉時代になると武士の所領が拡大し、大きな武家になると全国各地に複数の所領を持つようになった。鎌倉時代の武家は分割相続が多かったため、庶子が本家以外の所領を相続すれば、その相続した所領を名字として名乗るようになる。またさらなる土地の開墾によって居住域が増え、新たな開墾地の地名を名字とし、ますます武士が名乗る名字の数は増大していった。ただし、注意すべきは、名字は異なろうとも姓(本姓)は同じということである。

例えば、新田義貞の弟は脇屋義助だが、姓(本姓)で言えばどちらも源姓であり、源義貞、源義助である。新田という名字は、源義家(八幡太郎義家。八幡太郎とは義家の通称)の四男の源義国(足利式部大夫義国。足利は義国の母方の里の地名、式部大夫は役職)の長男の源義重が、新田荘を開墾し、そこを所領とし、藤原忠雅に寄進して荘官に任命されたことから新田荘の荘名を名字にしたことに始まる。義助は兄の義貞が相続した嫡宗家から独立して新田荘内の脇屋郷を分割相続して住んだことから、脇屋を自己の名字とし、脇屋義助と名乗った。ただし、新田氏は源頼朝から門葉として認められなかったため、鎌倉時代には幕府の文書に「源○○」と署名、記載されることはなかった。[要出典]

この頃の名字は家名としての性格が弱く、いわゆる北条泰時は江間太郎を称した後、父の相模守就任後は「相模太郎」(相模守の嫡男の意)を称し、任官後はもっぱら官名で呼ばれており、「相模修理亮泰時」と称することはあっても実際に北条(條)の名字で呼称された事実は無い。北条時宗も同様であり、実際に北条の名字を名乗った北条氏は少数派である[3]三浦氏も同じ。これを重視する見地からは、当時の「北条」や「三浦」は居住地を表すものに過ぎず家名としての名字ではない、南北朝時代以降嫡子単独相続が主流となり、ほかの兄弟が改称せず配下としてとどまるようになったことで、単独相続を前提とした家産が成立すると、父から嫡男へと家産を継承する永続性を持った「家」が出現することになる。永続する家は個々人から独立した組織体であり、そのような組織体を指し示す呼称を家名として「苗字」が成立したと説明されている[4]

そして、室町時代から江戸時代になると、姓(本姓)は、もっぱら朝廷から官位を貰うときなどに使用が限られるようになり、そのような機会を持たない一般の武士は、姓(本姓)を意識することは少なくなった。事実、江戸幕府の編纂した系図集を見ると、旗本クラスでも姓(本姓)不明の家が散見される。一方で、一般の人であっても朝廷に仕えるときは、源平藤橘といった適切な姓(本姓)を名乗るものとされた。また、一部の学者等が趣味的、擬古的に名乗ることもあった。

公家・武士ともども、名字の下に直接接続するのは通称であり、諱を直接つなげる場合は、姓(本姓)に対してが通常であった。諱は戦場での名乗りや正式な文書の署名で仮名または百官名を併記して使うが、仮名は百官名を得るまでの仮(臨時)の通称であるため、百官名とは両立せず、(擬似を含む)官名も通称の一種として人名の重要要素であった[5](羽柴「藤吉郎」から羽柴「筑前守」に改名したのであり、羽柴藤吉郎が豊臣秀吉に改「姓」したのではない)。ただし名字と諱を直接つなげることも、歴史書などにおける略称としては皆無ではなかった[注 2]

高官の名字

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前近代において、名字ないし苗字は必ずしも人名に必須の要素ではない。従四位侍従以上の高位高官に上がるとかえって使われなくなり、尾張大納言、水戸中納言、加賀宰相などの通称が自署でも松平肥前守などの苗字+官名(通称)に代わって二人称・三人称でも公的名称に変更された。逆に、苗字+高位官名の土井侍従とか鍋島少将などとは言われないし[6]豊臣秀吉のように身分が高くなりすぎた場合も、羽柴の名字は潜在なものになり(豊臣は本姓)、名字で呼ぶのはかえって失礼で非常識だとされる[7]。足利荘を出た後の歴代足利将軍家も、自署にはもっぱら源姓を使い、室町殿北山殿(義満)、等持院殿(尊氏)などの通称で呼ばれており、足利の名字が実際に使われたか不明である[8]

庶民の名字

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古代の庶民は主に、豪族の所有民たる部曲の「○○部」という姓(本姓)を持っていた。例えば「大伴部」「藤原部」というようなものである。しかし部曲の廃止や支配者の流動とともにその大半は忘れられ、勝手に氏を名乗ることもあった。

名字は、本姓と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで自ら名乗ることが可能だった。家人も自分の住む土地を名字として名乗ったり、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした。

1577~1610年まで日本に滞在したジョアン・ロドリゲスは、漁師や身分の低い職人のような最下層の人々を除き、大衆は皆名字も持っていると報告している[9]

江戸時代には苗字帯刀が制限されたことから、庶民の多くには「苗字がなかった[10]」と語られることがある。しかし、1952年の洞富雄の研究を契機に、そのような時代でも私的には貧農すらも名字を持ち、行事等で使用していた事例が全国から大量に報告され、庶民に名字がなかったというのが学問的に否定された[11]。明治以降、名字を持っていなかったか不明となっていた場合には新たに「創氏」しなければならなかった際に歴史上有名な人物の名字や魚、野菜の名などを戸籍に登録した例がおもしろおかしく伝えられたので、庶民は名字を持っていなかったという「俗説」が生まれたのだと説明されている[12]。特に農村上層部では名字とは別に姓(本姓、源平藤橘)を名乗る者もあり、甲斐国の地主「依田民部源長安」(1674~1758)のように、源姓と百官名を自称する者さえいたことが確認されている[13]

女性名と夫の家の名字

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中世、姓(本姓)は生まれながらのものでも名字は、まだ現住所を示すようなものだった。そのため、既婚女性もその居住地の地名で「稲毛の女房」などと呼ばれた(吾妻鏡)。夫婦同名字の例と主張されている(高橋秀樹)[14]

また当時の文書の比較検討から、鎌倉時代には「藤原氏女」のように実家の姓(本姓)を名乗る人名表記が依然主流だったが、南北朝時代には衰退し、個人名のみを名乗るか、既婚女性は「~後家」のようにもっぱら、「妻としての名称を」名乗ることが一般化していったことが明らかにされている(細川涼一[15]。公家の摂関家でも正室は婚家の主要な一員と認識され、婚家の名字+妻の社会的地位で呼ばれるようになり(例:九条尚経の娘、二条尹房正室経子=二条北政所伏見宮貞敦親王の娘、二条晴良正室位子女王=二条北政所など)、夫婦同名字だったと主張されている(後藤みち子[16]

これに対しては、女房、妻、後家などをその人自身の名前の要素と認めない立場[17]も主張されている。このような立場からは、公的活動が認められていなかった女性には、名字は無縁の存在であった。この場合の妻の名字も夫婦別名字であったが、公儀・公務に関わりがなかった妻にとって名字は重要ではなかった、「〇〇女房△△」「〇〇内儀△△」の表示で十分であった[18]、近世では夫婦は別苗字であり既婚女性の名字認識は基本的には生家に連なったが、近世後期には婚家への帰属意識から妻が夫の苗字を称する女性も現れていたにすぎない[19]などと主張される。

一方、妻や女房を人名の要素として認める立場からは、女性は婚姻によって何々衛門の「妻」とか「女房」という呼名を獲得し、それが公的な社会的名称になるのであって、そのような名称によらずに「みよ」のような実名で呼び捨てるのは「むしろ失礼」になるのが当時の社会通念であり、文書でしばしば妻とか女房としか書かれていないからといって、名前で呼んでもらえないからかわいそうだというのは現代人特有の偏見に過ぎないと主張されている[20]。また現代では実名としばしば混同される仮名(けみょう)は本来固有名詞ではなく続柄を表すもので、「太郎」は長男、「大姫」は長女、「小太郎」は太郎の長男の字義であり[21]、いわゆる北条時宗の実際の名称である「相模太郎」は相模守の長男という意味に過ぎない(庶兄を含めれば実際には次男)[22]

平安~鎌倉時代には女性が出自の姓(本姓)を用い文書に署名している例は多いが、家社会となった中世後期以降は女性は家長との続柄で表示するのが通例で史料で女性の名字を確認するのは困難とされる。ただ、まれには女性が明らかに名字を冠した文書に登場することもあり[23]、室町時代の丹波国山国荘の百姓の文書には夫婦同苗字の記録が三例ほど存在する。井戸村の江口家が菩提寺に寄進で「江口沙弥道仙禅門、同妙珠禅尼夫婦」と記したケース、同荘枝郷の下黒田村の坊家において、夫婦が娘に田地を与える譲り状に「坊姫・坊又二郎」と署名したケース、同村の鶴野兵衛二郎が井本家に嫁いだ姉の「さいま」に山林を譲った宛所が「井本さいま」となっていたケースの事例から、少なくとも同地では夫婦同名字が一般的だったとされる[24]

名字と苗字の区別は諸説あり、名字は領地を表し、苗字は出自を表すものとして区別されるべきとの主張もあるが、近世には両表記が混在しておりその区別は容易ではない。江戸時代には苗字表記で統一された[25](以降原則苗字表記で統一)。

幕末の歌人竹村多勢子のように婚姻後も実家の苗字を署名した例が散見される[26]。しかし、それが掲載されている『平田先生門人姓名録』では、生家の名で登録されている既婚女性が多勢子含め5名であるのに対し、婚家の名で登録されているのは10名であるため、多勢子の例をもって、夫婦異苗字が原則だったというのは疑問だとの批判がある(柴桂子)[27]

中世が夫婦同苗字だったとすると、なぜ近世に別苗字の事例も登場したか問題となるが、家名としての名字が父子相承され父系血統の標識たる氏(本姓)と同化したことへの表れではないかという説がある(大藤修[28]

当時の女性は公的文書では「諏訪宇右衛門娘 きた」「百姓儀右衛門女房 しげ」「大和屋宇蔵同家母 まさ」などと呼ばれ、女性の人名表記は父や夫や息子などの当主の名称と続柄で記載するのが一般のため、現代のように婚姻により苗字が変わる・変わらないという観点が無い[29]。ただし、神職の女性は「安藤織枝」「入江磐野」「井上美雪」「生野美支」のように、現代と同じような苗字+名前の形式で名前を得ることがあり、婚姻した場合も「設楽筑前前妻設楽伊勢」のように明らかな夫婦同苗字が多数派であり、「稲垣寿作」の妻が「遠山内匠」であるような夫婦別苗字例は少数にとどまっている[30]

明治以後の名字

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明治新政府も幕府同様、当初は「名字の公称」を許可制にする政策をそのまま維持していた。幕府否定のために慶応4年9月5日1868年10月20日)幕府から許可を得て、「公称」を認められていた富農ら一部の農民町人の名字を全て禁止した。慶応4年1月27日(1868年2月20日)には、鳥羽・伏見の戦いにより徳川慶喜朝敵(後に華族)となったのを受けて、江戸幕府からの賜姓(功績で姓を賜うこと)由来で「松平」の名字を用いることを禁止した。これによって、非一族全家が復姓命令に従い、松平姓を廃棄して本姓(賜姓前の姓)に戻し、分流の一部も改姓した [31]。  その一方、(明治)政府功績者には、苗字公称と帯刀を認ることもあった。明治2年7月(1869年8月)以降、武家政権より天皇親政に戻ったことから、「大江朝臣孝允木戸」のように姓(本姓)を名乗ることとした時期もあった。

明治3年(1870年)になると法制学者の細川潤次郎や、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により、庶民への名字公称を原則禁じる政策は転換された。同年9月19日10月13日)の太政官布告第608号「平民苗字許可令」で平民全体への苗字公称することを許可した。戦後に9月19日が「苗字の日」であるのは、これに由来している。これは「上下の区別」を重視した江戸時代社会において、幕府によって創設した身分標識機能の格式の破棄が目的で、一般庶民への名字の公称許可を政府(幕府)が特別に与えるものだったのをやめ、自由化したのであった。 しかし、庶民側の必要に応じたものではなく、庶民にとっては名字は人名として必要不可欠なものではなかったので、その結果、名字を名乗るも名乗らないも各自の勝手状態になった[32]

明治4年10月12日1871年11月24日)には姓尸(セイシ)不称令が出され、以後日本人は公的に姓(本姓)を名乗ることはなくなった。氏・姓は用語も混乱していたが、この時点で太政官布告上は、源平藤橘や大江などのいわゆる氏(ウジ、本姓)は「姓」、朝臣、宿禰などの姓(カバネ)は「尸」というように分類したのである。

明治5年5月7日1872年6月12日)の「通称実名を一つに定むる事」(太政官布告第149號)により公的な本名が一つに定まり、登録された戸籍上の氏名は、同年8月24日9月26日)の太政官布告により、簡単に変更できなくなった[33]

明治8年1875年)2月13日の平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に名字を持つことになった。 「自今必ず苗字を相唱うべく、もっとも祖先以来の苗字不分明の向は新たに苗字を設くべし」という太政官布告で、全日本国民への公称苗字を義務化させた。「これからは必ず苗字を名乗りなさい。祖先以来の苗字が分からない者は、新たに苗字をつけなさい」という意味である。

徴兵制度(明治6年施行)を厳格に実行するため、徴兵事務の必要から依然として名字を使用していない平民が多いという事実に政府が国民管理の上で不都合と判断し、国民一人一人の「氏名」の管理を徹底するため名字使用を強制する布告であった[34]。明治になって名字を届け出る際には、自分で名字を創作して名乗ることもあった(たとえば与謝野鉄幹の父・礼厳は先祖伝来の細見という名をあえて名乗らず、故郷与謝郡の地名から与謝野という名字を創作した)。僧侶や神官などに適当につけてもらうということもあった[35]が例は少ない。

妻の名字

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また婚姻後の妻の名字については、明治8年(1875年)、石川県より「嫁いだ婦女は、終身その生家(実家)の氏とするか、夫の家の名字を称するのか」との伺があり、同年11月9日、内務省は判断に困り太政官伺を出した。

その結果、明治9年1876年3月17日の太政官指令として、妻の名字は「所生ノ氏」つまり婚前のものとし夫婦別氏とされた[36]。妻を含めない狭義の家族概念(血族者のみ)があり、妻自身の出身の血縁を重視した江戸時代の支配者層(武士、村落支配者、豪商など)の意識の延長があったのが理由であるとの見方と[37]、明治政府が王政復古を建前としていたため、苗字を律令制のウヂカバネに見立てようとする政府内復古派の主張を無視できず、社会実態である夫婦同苗字制を基本方針にしようとした大久保利通ら現実派が一時的に屈したとする見方[38]がある。この指令には全国の地方官庁から疑問や批判が出された[39]。戸籍実務の扱いも地方ごとに対応が分かれたが、妻の苗字を記載しないものが多数であった[40]。前近代日本では、人は同時に複数の名前を持ち、人名は時場所文脈に応じていくらでも変動しうるもので、現代のように戸籍上の苗字と実名のみを唯一の名前とするような発想がなく、夫婦が同苗字か別苗字かは極めて近代的問題であった[41]

一方で、箕作麟祥らの起草に成る明治10・11年の民法の草案では「妻は其夫の姓を用ふ可し[42]」と規定(188条)、その後の草案および法典は一貫して夫婦同苗字規定を採用している[43]。その後の各草案でも、妻は夫の血族ではないが夫に従うべき者で夫婦は同氏であり、妻を家族に含める広義の家族概念でとらえている。これは不平等条約改正の必要から欧米の法典が参考にされたのでキリスト教的な夫婦一体論の影響がうかがわれると主張する論者もいるが[44]、明治初期の民法編纂はもっぱら国内法統一を目的としたものであるうえ、明治6年以降こと家族法に限っては外国法の模倣ではなく、あくまで日本慣習を基礎にすべきという方針が確立したともされる[45]。明治民法起草委員の梅謙次郎も、法典調査会の説明で外国法の影響を否定し、夫が氏を変える日本独自の入夫婚や婿養子慣習を明文化すべきことを強調している[46]

幕末1847年生まれの井上操は、明治23年(1890年)の論文で、夫婦同氏制を正式採用した明治23年旧民法につき、確かに古代とは異なるが、「然れども幕府以来実際は夫の氏を称し、現に今も夫の氏を称し戸籍実務の如きも別に実家の氏を示さず」と指摘し、夫婦同名字規定が当時の実態に従ったものであることを説明している[47]。同年の『女学雑誌』242号に掲載された「問答(細君たるものの姓氏の事)」でも、「およそ夫あるの婦人は、多くその夫の家の姓を用ひおる様に侍るが、右はいかがのものにや」とされており、実態として多くの妻が便宜上、夫の家の名字を用いていることが明らかにされている[48]

明治政府の指令如何にかかわらず、「妻が生家の氏を名乗ること」は士族層には儒教的伝統慣習であり、折井美耶子は、氏の公称が許されてなかった平民たちは旧例を知らず、夫の家の氏を名乗るのはむしろ「〇〇夫人」として呼ばれることで西欧的夫婦一体感を主張する新しい慣習として考えられていたとの説を唱えている[49]

嫁入り婚と婿入り婚があった婚姻の慣習の観点から、明治23年法律第98号(旧民法)人事編第243条2項は「戸主及び家族は其家の氏を称す[50]」としており、同民法は民法典論争で施行が延期されたが、この条文は明治31年法律第9号(明治民法)第746条にそのまま継承された[51]

1898年の明治31年民法を立案した法典調査会委員で江戸時代生まれの富井政章横田国臣(1894年)[52]梅謙次郎(1910年)[53]奥田義人(1899年)[54]らは同様に、夫婦同苗字規定は、当時の日本の慣習の立法化だという主張をしているが、江戸時代以前に関する限り「法律家の誤判」だという後世の歴史家の主張もある(洞富雄[55]

戦後の新しい憲法に立脚して「家」制度が法的にはなくなった。 明治民法の改正作業が始められた当初、 妻の氏への同氏は例外的に認める夫優位の夫婦同氏案であったが、 両性の平等に反するという主張もあり 「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」(民法750条 昭和22年公布(1947年))となった。

外来名字

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明治になり日本を訪れた外国人が帰化する者が現れるようになり、エドワード・ハズレット・ハンターの息子であるHansaburo Hunterは、日本国籍を回復する際に「範多範三郎」と改名している。

現代になって国際化がすすむにつれて日本に帰化する外国人が必ずしも「日本風」の氏名でなくても許可されるようになり[56]、アメリカ人だったドナルド・キーンは「キーン ドナルド」、大相撲朝赤龍太郎は「バダルチ ダシニャム」で日本国籍を取得している。逆に鼓呂雲恵理駆三都主アレサンドロ白鵬翔のように新たにな氏を作った者もいる。

外国人と結婚して氏を改める(1984年戸籍法改正)例も増え、外国由来の名字を持つ日本人が増えてきている。中でも中東圏は父親の名字を継承する習慣があるため、日本人女性と結婚し日本国籍を取得しても、アラビア語やペルシャ語の名字をそのままカタカナ表記で使用している事が多い(ダルビッシュ有の父親など)。

幽霊名字

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近年刊行されている雑学本や名字関連の本に記載されている珍姓・奇姓・難読姓には、架空のものや江戸時代戯書から引用されたものが多い。このように実在が確認できない名字の存在は佐久間英が「お名前風土記」(読売新聞社、1971)で指摘していたが、森岡浩はそれに「幽霊名字」という名称を与えた[57]。森岡は、これらの幽霊名字がないことを証明するためにはすべての戸籍を調べる必要があるため困難であり、また名字関連の本に自分の名字が記載されていなければ読者から苦情が来るが、存在しない名字が掲載されていても苦情が来ることはないため、なかなか消すことができない、としている[58]

森岡によれば、一番長い名字は5文字の「左衛門三郎」(さえもんさぶろう)と「勘解由小路」(かでのこうじ)の二つだけで、これ以外の「十二月三十一日(ひづめ)」などは実在しない、つまり幽霊名字だという[59]

脚注

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注釈

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  1. ^ 現行民法における氏の性格については「家の名」だけでなく、学者の間で議論がある。井戸田博史『夫婦の氏を考える』世界思想社、2004年 ISBN 4790710750
  2. ^ たとえば、s:太平記/巻第十四では新田義貞という表記が何度も現れる。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 高澤等、森岡浩 著『日本人の名字と家紋』プレジデント社、2017、p.8-10 ISBN 4833476509
  2. ^ 宝賀寿男藤原氏概観」『古樹紀之房間』、2007年。
  3. ^ 加藤晃「日本の姓氏」井上光貞ほか『東アジアにおける社会と習俗』学生社、1984年、109-111頁
  4. ^ 坂田(2006)32-34頁
  5. ^ ジョアン・ロドリゲス著、池上岑夫訳『日本語小文典(下)』岩波書店、1993年、126-127、140頁
  6. ^ 尾脇秀和『氏名の誕生』2023年、44-45頁
  7. ^ 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』KADOKAWA、2016年、10頁
  8. ^ 上島有『日本文書学論集8中世IV』吉川弘文館、1987年、8頁以下
  9. ^ 大藤(1998)191頁
  10. ^ 井戸田博史「序に代えて 夫婦別姓か夫婦別氏か」増本敏子・久武綾子・井戸田博史『氏と家族』大蔵省印刷局、1999年、5頁
  11. ^ 久武綾子『夫婦別姓 その歴史と背景』世界思想社、2003年、64頁、奥富敬之『名字の歴史学』角川書店、2004年、7-8頁、坂田聡『苗字と名前の歴史』吉川弘文館、2006年、43頁、豊田武『苗字の歴史』吉川弘文館、2012年、161-163頁、洞富雄『庶民家族の歴史像』校倉書房、1966年、160-180頁
  12. ^ 大藤(2012)190頁
  13. ^ 大藤(2012)53頁
  14. ^ 高橋秀樹『日本史リブレット20 中世の家と性』山川出版社、2004年、18頁
  15. ^ 細川涼一「女性・家族・生活」歴史学研究会・日本史研究会『日本史講座4中世社会の構造』東京大学出版会、2004年、204頁
  16. ^ 後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館、2009年、138-139頁
  17. ^ 大藤(1998)193頁、熊谷(1970)136-138頁
  18. ^ 井戸田博史「江戸時代の妻の氏 夫婦別氏」『奈良法学会雑誌』 2000年 第12巻 3・4号 , NAID 120005888631, 奈良産業大学法学会
  19. ^ 柳谷慶子「日本近世の「家」と妻の姓観念」『歴史評論』636号、校倉書房、2003年、14-21頁
  20. ^ 尾脇秀和『女性の指名誕生』2024年、172-177頁
  21. ^ 奥富敬之『苗字と名前を知る事典』東京堂出版、2007年、178頁
  22. ^ 加藤晃「日本の姓氏」井上光貞ほか編『東アジアにおける社会と習俗』学生社〈東アジア世界における日本古代史講座第10巻〉、1984年12月、109-111頁、ISBN;9784311505102、NCID;BN00320743
  23. ^ 大藤(2012)56頁
  24. ^ 坂田(2006)149頁
  25. ^ 武光誠『名字と日本人 先祖からのメッセージ』文芸春秋、1998年、15-16頁
  26. ^ 大藤(2012)57頁
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参考文献

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関連書籍

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関連項目

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外部リンク

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