磯部町恵利原
磯部町恵利原(いそべちょうえりはら)は、三重県志摩市の地名。
磯部町恵利原 | |
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おうむ岩から見た恵利原(2012年) | |
磯部町恵利原の位置 | |
北緯34度23分0.9秒 東経136度48分1.2秒 / 北緯34.383583度 東経136.800333度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 三重県 |
市町村 | 志摩市 |
町名制定 | 2004年(平成16年)10月1日 |
面積 | |
• 合計 | 11.202553404 km2 |
標高 | 7 m |
人口 | |
• 合計 | 703人 |
• 密度 | 63人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
517-0209[WEB 3] |
市外局番 | 0599(阿児MA)[WEB 4] |
ナンバープレート | 三重 |
※座標・標高は恵利原区事務所付近。 |
天保5年(1834年)刊行の『志摩国一の宮磯部まいり』に「恵利原は思ひの外の大郷にて」と書かれたように、かつては磯部九郷[注 1]最大の集落で[1]、名所や旧跡も多い[2]。
地理
編集志摩市北西部に位置し、北と西は伊勢市と接している。地質学的には、和合山の南を仏像構造線が通っていると考えられる[3]。また、逢坂峠付近の古生層中には厚い石灰岩が分布し、方々に石灰岩の露頭が見られる[4]。南東部の平地を除いて三方を山に囲まれている[5]。中心集落は地区の南東部、川辺と呼ばれる地域と、そこから約1kmほど離れたところ、和合山麓の2か所ある[5]。
北は伊勢市宇治館町、東は志摩市磯部町五知・磯部町沓掛・磯部町上之郷・磯部町下之郷、南は志摩市磯部町迫間・磯部町築地、西は伊勢市宇治今在家町と接する。
川辺
編集川辺(かわなべ)は、志摩市磯部町の地名。住所上は磯部町恵利原(南部)・磯部町迫間(東部)・磯部町下之郷(西部)に属する。住所上の大字を単位とする自治会とは別の自治会を有し、志摩市の行政上1つの地区として扱われることがある[注 2]が、独立した大字としては認められていない[注 3]。明治時代から開拓が行われた地域で、鉄道駅や銀行、商店、官公署など[注 4]が集まる磯部町の中心街を形成する。
歴史
編集近世まで
編集佐美長神社や磯部神社の境内からは、土師器や須恵器、縄文土器、弥生土器が発見されている[5][1]。また、三重県立志摩高等学校ではグラウンド拡張工事の際に完全形の土器が見つかった[6]。この土器は南隣の磯部町立磯部中学校に寄贈されたが、後に行方不明となった[6]。
鎌倉時代には「江利原」(下之郷南氏所蔵文書、正和4年9月〔ユリウス暦:1315年9月〕付)、「依梨原」(『神武記』古写本ほか2文書)と表記されていたが、安土桃山時代の文禄4年9月(グレゴリオ暦:1595年9月)付の文書(上之郷中氏所蔵)から「恵利原」の表記が出現した[7]。
江戸時代には恵利原村として志摩国答志郡磯部組に属し、鳥羽藩の配下にあった。初期の村高は765石だったが、後に766石に増加した[7]。恵利原村から伊勢国宇治(現在の伊勢市の一部)へ至る道は逢坂越えと呼ばれ、難所とされた[7]。また4つの茶屋が立ち並び、『伊勢参宮名所図会』に掲載されたものもある[1]。この道は現在の三重県道32号伊勢磯部線(伊勢道路)の元となった。河川ではアユやフナが獲れ、必要に応じて上納された[1]。江戸時代末期には黒船来航を受け、現在の天理教磯部分教会所在地に陣屋を構えた[8]。
近代以降
編集3度の大合併を経験し、現在まで大字として存続している。宮地沖と呼ばれる恵利原南東部の水田地帯では、磯部川が蛇行していたが、1912年(大正元年)の耕地整理に伴い、ほぼ一直線に改修された[9]。
第二次世界大戦頃まで恵利原は磯部で最も人口の多い大字であったが、戦後は磯部町の中心街が南下した影響で、迫間や穴川に追い抜かれた。1948年(昭和23年)には学制改革による新学制の下、磯部村立の三重県志摩高等学校磯部校舎(現・三重県立志摩高等学校)[10]と磯部中学校(現・志摩市立磯部中学校)が開校する。1965年(昭和40年)に伊勢有料道路が開通し、鳥羽市を経由せずに伊勢市へ自動車で行けるようになり、1968年(昭和43年)には三重県営の志摩水道が完成した[7]。平成の大合併の結果、志摩水道の給水自治体が志摩市のみとなったため、志摩水道(南勢志摩水道用水供給事業志摩系)は2011年(平成23年)4月1日より、三重県企業庁から志摩市へ譲渡された[WEB 5]。
1994年(平成6年)の世界祝祭博覧会(まつり博みえ'94)を期に伝統の恵利原早餅つき保存会が結成された[WEB 6]。
沿革
編集- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、答志郡磯部村大字恵利原となる。
- 1896年(明治29年)3月29日 - 答志郡が英虞郡と合併し、志摩郡磯部村大字恵利原となる。
- 1955年(昭和30年)2月11日 - 磯部村が度会郡神原村東部・志摩郡的矢村と合併し、志摩郡磯部町恵利原となる。
- 2004年(平成16年)10月1日 - 磯部町が志摩郡4町と合併し、志摩市磯部町恵利原となる。
地名の由来
編集『磯部郷土史』では、以下の説が唱えられている。
世帯数と人口
編集2019年(令和元年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 2]。
行政区 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
恵利原 | 262世帯 | 589人 |
恵ケ丘 | 40世帯 | 114人 |
(磯部町恵利原)計 | 302世帯 | 703人 |
人口の変遷
編集1746年以降の人口の推移。2005年以後は国勢調査による推移。
1746年(延享3年) | 531人 | [7] | |
1880年(明治13年) | 703人 | [1] | |
1889年(明治22年) | 1,149人 | [14] | |
1950年(昭和35年) | 888人 | [15] | |
1980年(昭和55年) | 1,237人 | [5] | |
2005年(平成17年) | 722人 | [WEB 7] | |
2010年(平成22年) | 666人 | [WEB 8] | |
2015年(平成27年) | 626人 | [WEB 9] |
世帯数の変遷
編集1746年以降の世帯数の推移。2005年以後は国勢調査による推移。
1746年(延享3年) | 133戸 | [7] | |
1880年(明治13年) | 120戸 | [1] | |
1889年(明治22年) | 180戸 | [14] | |
1950年(昭和35年) | 182世帯 | [15] | |
1980年(昭和55年) | 343世帯 | [5] | |
2005年(平成17年) | 228世帯 | [WEB 7] | |
2010年(平成22年) | 222世帯 | [WEB 8] | |
2015年(平成27年) | 232世帯 | [WEB 9] |
学区
編集市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[WEB 10]。
番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 志摩市立磯部小学校 | 志摩市立磯部中学校 |
磯部小・磯部中ともに恵利原の南部に位置する。
恵利原早餅つき
編集恵利原早餅つき(えりはらはやもちつき)は、三重県志摩市磯部町恵利原に伝わる独自の餅つきの方法。恵利原早餅つき保存会が技術の保持・継承を行う。
「早餅つき」の名の通り、通常の餅つきの3倍という高速で餅をついていき、餅米1t(餅つき約300回分)を2日でついたという記録がある[WEB 11]。天保年間(1830年〜1843年)に伊雑宮御田植祭で笹にくるんで餅を振る舞ったが、数をこなすために高速でつくようになったとされる[WEB 6]。囃子唄を歌いながら2人で1本の杵をとり、餅をつく[WEB 12]。
観光
編集交通
編集- 鉄道
- 恵利原地区内は、鉄道は通っていない。最寄り駅は隣接地区にある近鉄志摩線上之郷駅または志摩磯部駅。最寄りの特急停車駅は志摩磯部駅となる。
- バス
- 三重交通志摩営業所管内(中心となるバス停は「川辺」・「恵利原」)
- 磯部地域予約運行型バスハッスル号(コミュニティバス)恵利原(畑田前)バス停
- やまルート 上五知農家組合前
- やまルート 桧山集落センター
- うみルート 鵜方駅
- うみルート 磯部支所
- 道路
- 国道167号 - 地区南部を通る国道。恵利原アメニティ前交差点以南の区間は磯部バイパスと呼ばれる。鳥羽市や志摩市の中心市街地である阿児町鵜方へ至る幹線道路である。
- 三重県道32号伊勢磯部線 - 恵利原を北東から南西方向に通る主要地方道。通称は伊勢道路。恵利原南西端(川辺)の伊勢道路入口交差点で終点となる。志摩市と伊勢市を結ぶ幹線道路である。
- 三重県道61号磯部大王線 - 恵利原を起点とし、的矢湾岸・太平洋岸を通り、大王町波切に至る主要地方道。恵利原地区の全区間は旧国道167号である。
- 道路施設
施設
編集
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史跡
編集- 佐美長神社 - 伊勢神宮皇大神宮(内宮)の別宮である伊雑宮が所管する神社。別名は穂落宮[7]で、志摩市立磯部小学校の校歌の歌い出しに、その名が登場する。
- 磯部神社 - 正月殿社の鎮座地に[17]旧磯部村11大字のうち9大字にあった神社を合祀して1908年(明治41年)4月7日に創建された神社[18]。旧社格は村社で49柱の神を祀る[18]。1952年(昭和27年)12月1日に宗教法人格を取得、1955年(昭和30年)12月6日に、同年2月11日に編入合併した度会郡神原村東部の産品神15社の祭神を神原神社(度会郡南伊勢町神津佐にある)から分霊し、合祀した[19]。
- 巌峯山池渓寺 - 永禄2年(1559年)に玄応観禅和尚が開山した曹洞宗永平寺派の仏教寺院で鳥羽市の常安寺の末寺[20]。1883年(明治16年)に頂門寺を合併[7]。恵利原には、ほかに真言宗智積院末の治高山井泉院という七堂伽藍を有する寺院があったが、天正年間(1573年〜1592年)と1881年(明治14年)の2度火災に遭い、廃寺となった[7]。
-
佐美長神社
-
磯部神社
-
池渓寺
出身者
編集その他
編集日本郵便
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 現在の志摩市磯部町のうち、五知・沓掛・山田・恵利原・上之郷・下之郷・迫間・穴川・築地の9つの大字を指す。初見は慶長9年5月(グレゴリオ暦:1604年6月)の文書である。
- ^ 志摩市役所『学校通学区|くらしの情報|伊勢志摩国立公園 志摩市のホームページ』では「川辺地区」として扱われている。また、国土地理院発行の2万5千分の1地形図『磯部』にも「川辺」が掲載されている。
- ^ 志摩地域合併協議会(2003)"町名、字名の取扱いについて (PDF) "では、合併前の大字を引き継ぐこととしたため、川辺の大字昇格はならなかった。
- ^ 住所上、恵利原となる部分には小・中・高校や商店がある。
WEB
編集- ^ “三重県志摩市の町丁・字一覧”. 人口統計ラボ. 2019年8月28日閲覧。
- ^ a b “志摩市の人口について”. 志摩市 (2019年7月31日). 2019年8月28日閲覧。※人口は「恵利原」・「恵ケ丘」の合算。
- ^ a b “磯部町恵利原の郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ 三重県企業庁企業総務室"三重県企業庁/南勢志摩水道用水供給事業 志摩系"(2011年6月28日閲覧。)
- ^ a b 伊勢志摩きらり千選実行グループ"伊勢志摩きらり千選/恵利原早餅搗"(2011年6月28日閲覧。)
- ^ a b “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ “学校通学区”. 志摩市. 2019年8月28日閲覧。
- ^ NHK津放送局"東海の技/「早もちつき」"平成22年1月13日(2011年6月28日閲覧。)
- ^ アイティービー"アイティービー2011年 特別番組"2011年1月1日(2011年6月28日閲覧。)
- ^ “樹齢350年・志摩の「一本桜」が満開に―今年も大勢の見物客を集める”. 伊勢志摩経済新聞 (2010年3月29日). 2011年6月26日閲覧。
- ^ 伊勢志摩きらり千選実行グループ"伊勢志摩きらり千選/恵利原のオオシマザクラ"(2011年6月26日閲覧。)
- ^ “郵便番号簿 2018年度版” (PDF). 日本郵便. 2019年6月10日閲覧。
出典
編集- ^ a b c d e f 平凡社地方資料センター 1983, p. 710.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 231.
- ^ a b 磯部町史編纂委員会 編(1997):33ページ
- ^ 織田・林屋 編(1974):262ページ
- ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 1419.
- ^ a b 磯部郷土史刊行会 編(1963):417ページ
- ^ a b c d e f g h i 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 232.
- ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):419ページ
- ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):42ページ
- ^ 磯部町史編纂委員会 編(1997):63ページ
- ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):37ページ
- ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):37 - 38ページ
- ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):38ページ
- ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 541.
- ^ a b 磯部郷土史刊行会 編(1963):11ページ
- ^ a b 近畿日本ツーリスト 2005, p. 118.
- ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):148ページ
- ^ a b 磯部郷土史刊行会 編(1963):133ページ
- ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963) :134ページ
- ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):173ページ
- ^ “志摩びとだよりVol.④”. 志摩市応援倶楽部志摩びとの会事務局 (2008年2月28日). 2020年12月26日閲覧。
- ^ 斎藤慎一郎 (2020年3月5日). “新潟食農大ラグビー部・谷崎重幸監督”. 日刊スポーツ. 2020年12月26日閲覧。
参考文献
編集- 磯部郷土史刊行会 編『磯部郷土史』磯部郷土史刊行会、昭和38年5月10日、506pp.
- 磯部町史編纂委員会 編『磯部町史 下巻』磯部町、平成9年9月1日、1340pp.
- 織田武雄・林屋辰三郎 責任編集『講談社版 新訂 日本の文化地理 第11巻 奈良・和歌山・三重』講談社、1974年7月20日、317pp.
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 24 三重県』角川書店、1983年6月8日。ISBN 4-04-001240-2。
- 近畿日本ツーリスト 編『『'05-'06 伊勢 鳥羽 志摩 松阪』ツーリスト情報版255』近畿日本ツーリスト出版センター、2005年3月31日。ISBN 4-87638-755-9。
- 平凡社地方資料センター 編『「三重県の地名」日本歴史地名大系24』平凡社、1983年5月20日。ISBN 4-58-249024-7。