谷崎重幸
日本のラグビー指導者
谷崎 重幸(たにざき しげゆき、1958年4月17日[2] - )は、日本のラグビー指導者。現在新潟食料農業大学ラグビー部監督を務めている。
生年月日 | 1958年4月17日(66歳) | ||||||||||||||||||||||||||||
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出身地 | 日本 三重県志摩郡磯部町(現・志摩市)[1] | ||||||||||||||||||||||||||||
学校 | 志摩高校 | ||||||||||||||||||||||||||||
大学 | 法政大学 | ||||||||||||||||||||||||||||
配偶者 | あり(死別)[1] | ||||||||||||||||||||||||||||
子供 | 3人[2] | ||||||||||||||||||||||||||||
ラグビーユニオンでの経歴 | |||||||||||||||||||||||||||||
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プロフィール
編集略歴
編集高校からラグビーを始めた[4]。
志摩高校、法政大学を経て、1982年に東福岡高校のラグビー部監督に就任[5]。東福岡高校の監督として、花園4度の優勝に導いた[2]。2009年度と2010年度には、選抜・国体・花園の3冠を達成した[4]。また、社会科教師として教壇に立った[4]。
指導方針
編集東福岡高校の監督時代、妻が癌で[2]38歳の若さで死去したことをきっかけに休職し、子供3人を連れてニュージーランドへ渡った[8](2001年 - 2003年[2][4])。現地で見たラグビー指導は、学年別・実力別にチームを編成し、同程度のチーム同士が対戦することで、全員が勝つチャンスを与えており、選手を否定しないという方針に立脚しており[2]、選手は楽しそうにプレーしていた[8]。
ニュージーランドでの経験を胸に、それまでのスパルタ式[8][4]・押し付け的な指導法を180度転換した[2]。具体的には、選手が主役となるよう練習中も試合中も具体的な指示出しはせず、すべての選手がラグビーを楽しめるような環境を作ることを信条とした[8]。谷崎の指導を受けたラグビー選手の上田竜太郎(NTTコミュニケーションズシャイニングアークス)は、かなり自由にやらせてもらったといい、よく谷崎から「楽しもう」、「笑顔でいこう」と声をかけられ、チームメイト一同前向きな気持ちでプレーできたと語っている[9]。
出典
編集- ^ a b c “志摩びとだよりVol.④”. 志摩市応援倶楽部志摩びとの会事務局 (2008年2月28日). 2020年12月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 斎藤慎一郎 (2020年3月5日). “新潟食農大ラグビー部・谷崎重幸監督”. 日刊スポーツ. 2020年12月26日閲覧。
- ^ 新潟食料農業大ラグビー部監督・谷崎重幸さん . スポーツモア(2020年6月10日). 2020年12月26日閲覧。
- ^ a b c d e 松瀬学 (2013年11月1日). “「ホンモノのラグビーをしよう」-谷崎重幸”. プレジデント社. 2020年12月26日閲覧。
- ^ 新潟のラグビー熱、さらに高く。 花園優勝4回の名将、谷崎氏を監督に迎えて 2020年春、新潟食糧農業大学が男子ラグビー部創部 . standard-niigata(2019年10月31日). 2020年12月26日閲覧。
- ^ 法政大学ラグビー部新監督に谷崎重幸氏が就任――3月21日に新監督就任会見を開催 . 大学プレスセンター(2013年3月15日). 2020年12月26日閲覧。
- ^ 新潟食農大・谷崎監督「楽しみ」土台作りにも手応え . 日刊スポーツ(2020年6月10日). 2020年12月26日閲覧。
- ^ a b c d RKB毎日放送 石田一洋 (2010年1月10日). “「未来へのノーサイド〜東福岡高校ラグビー部 谷崎重幸監督〜」”. 報道の魂. TBSテレビ. 2020年12月26日閲覧。
- ^ “上田竜太郎”. 選手FOCUS. NTTコミュニケーションズシャイニングアークス (2019年). 2020年12月26日閲覧。