渡辺定綱
渡辺 定綱(わたなべ さだつな)は、江戸時代前期から中期にかけての尾張藩家老。渡辺半蔵家5代当主。
守綱寺所蔵 | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛文8年(1668年) |
死没 | 正徳5年2月10日(1715年3月15日) |
別名 | 半平、通称:半蔵 |
墓所 | 愛知県豊田市寺部町の守綱寺 |
官位 | 従五位下、飛騨守 |
主君 | 徳川光友→綱誠→吉通→五郎太→継友 |
藩 | 尾張藩家老 |
氏族 | 三河渡辺氏 |
父母 |
父:渡辺長綱、母:石川正光娘 養父:渡辺宣綱 |
兄弟 | 基綱、定綱 |
妻 | 石川章長養女(毛利内記頼説娘) |
子 | 秀綱、直綱、綱保 |
略歴
編集寛文8年(1668年)、渡辺藤蔵長綱の次男として誕生した。父・長綱は、寺部領主渡辺半蔵家2代・渡辺重綱の子で、慶安元年(1648年)父の死後、その隠居領2000石を相続して分家した。
元禄2年(1689年)、半蔵家4代・渡辺宣綱が男子なく没し、分家の定綱が養子となってその遺跡を相続することとなった。同年江戸に出府し、江戸城で5代将軍・徳川綱吉に拝謁し、家督相続の御礼言上を許可された。これが以後の渡辺家の先例となる。元禄10年(1697年)、尾張藩年寄の列に加えられる。元禄13年(1700年)従五位下・飛騨守に叙任される。元禄14年(1701年)、老中・稲葉正往を通じ、縁戚の幕府大目付・渡辺綱貞が越後騒動に関連して流罪となった影響で、先代宣綱より途絶えていた将軍家への献上儀礼の再開を求め、認められる。
出典
編集- 『名古屋市史』
- 『豊田市史』