渡辺基綱
渡辺 基綱(わたなべ もとつな)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。武蔵国野本藩3代・和泉国大庭寺藩/伯太藩の初代藩主。伯太藩渡辺家3代。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文5年(1665年) |
死没 | 享保13年7月18日(1728年8月23日) |
墓所 | 東京都台東区池之端の忠綱寺 |
官位 | 従五位下、備中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 武蔵野本藩主→和泉大庭寺藩/伯太藩主 |
氏族 | 三河渡辺氏 |
父母 |
父:渡辺長綱、母:石河正光娘 養父:渡辺方綱 |
兄弟 | 基綱、定綱 |
妻 | 正室:渡辺方綱の娘 |
子 | 登綱、山口弘長(三男)、娘(戸田光言正室)、娘(志水忠梁室、のち酒井忠雄継々室)、娘(長谷川勝清正室)、娘(高木允貞室)など |
略歴
編集寛文5年(1665年)、尾張藩重臣・渡辺藤蔵長綱[1]の子として誕生した。
延宝8年(1680年)、従兄にあたる渡辺方綱の婿養子となり家督を相続し、元禄11年(1698年)に大庭寺藩主となる。享保12年(1727年)4月18日、伯太に陣屋を移した(以後は伯太藩)。玉造口定番、大坂定番などを務めたが、大坂定番在任中の享保13年(1728年)7月19日に死去した。享年64。跡を長男の登綱が継いだ。
性格は温厚で、領地に善政を布いていたことから、「善将」と称された名君である。