大湊警備府(おおみなとけいびふ)は、青森県大湊に所在した大日本帝国海軍警備府[1]。現在の海上自衛隊大湊地方隊に相当する(ただし地方隊は鎮守府相当)。

旧大湊要港部会議所(現、北洋館)

この項では前身の大湊要港部を含めて記述する。

沿革

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1886年(明治19年)4月22日、「海軍条例」において全国に五つの海軍区を定めた[2]。第五海軍区の範囲は「北海道陸奥ノ海岸海面及津軽海峡」と決められた。1890年(明治23年)2月4日、勅令第7号「第五海軍区鎮守府位置設定ノ件」によって、室蘭鎮守府の設置を内定した。1894年(明治26年)5月、改めて海軍区の担当区域を設定した[3]。第五海軍区は「北海道、陸奥及び陸中国北九戸南九戸両郡の海岸海面、軍港室蘭」であった[3]。だが室蘭は地形的に太平洋からの攻撃に対して防御が困難であるとの理由で、1895年(明治27年)6月12日に軍港予定地を大湊に変更した。しかし、大湊に鎮守府の設置は実現しなかった。

1900年(明治33年)春から大湊水雷団敷地の造成工事が始められ、1902年(明治35年)8月1日、後に大湊要港部へと発展する大湊水雷団(横須賀鎮守府管下)が開庁し、あわせて大湊海軍修理工場を開設した。1903年(明治36年)9月に第4水雷艇隊(水雷艇4隻)が配属された。

日露戦争において、大湊水雷団は津軽海峡警備を担った。戦後、日本の南樺太領有に伴い、北方方面の警備が重要となり、1905年(明治38年)12月12日、大湊水雷団は大湊要港部へ昇格した。当要港部は、北方海域における警備、権益保護、漁場安全確保、救難救助などに従事した。 1922年(大正11年)8月26日にはオホーツク海で漁業保護任務に従事していた海防艦防護巡洋艦)「新高」がカムチャッカ半島で転覆沈没し、救難部隊が派遣された。

1938年(昭和13年)11月5日、要港部令の改正で、鎮海、大湊、馬公の各要港部司令官も親補職となった[4]

1941年(昭和16年)11月20日、大湊要港部は大湊警備府に昇格した。大湊警備府は横須賀鎮守府の隷下にあり、同鎮守府部隊と大湊警備府部隊の担当する警備区域は、第一海軍区である[5][注釈 1]太平洋戦争開戦時、大湊警備府の有力な水上艦艇は海防艦3隻と、旧式駆逐艦4隻の第1駆逐隊のみであった[注釈 2]。この状況下、千島方面の防備強化、第五艦隊を基幹とする北方部隊への支援[注釈 3][注釈 4]第十二航空艦隊(1943年5月18日新編)への後方支援、海上護衛、対潜掃海等に従事した[9]

1943年(昭和18年)8月5日、第十二航空艦隊と第五艦隊により北東方面艦隊が新編され、第十二航空艦隊司令長官が北東方面艦隊司令長官を兼任した。軍隊区分において北東方面部隊となり、北海道~千島列島~アリューシャン方面の全海軍作戦を担当した。1944年(昭和19年)12月5日、北東方面艦隊は解隊され、第五艦隊は南西方面艦隊へ転出、第十二航空艦隊のみが北東方面に残った[10]1945年(昭和20年)2月15日以降、第十二航空艦隊司令長官が大湊警備府長官を兼任する[11]8月9日から10日にかけての大湊空襲により、大きな被害を受けた。8月15日終戦を経て日本は降伏、同年11月30日に廃止された。

1953年(昭和28年)9月16日保安庁警備隊(後の海上自衛隊)によって大湊地方隊として復活。同時に地方総監部を設置。他の4地方総監部(横須賀舞鶴佐世保)は全て既存の鎮守府から継承した為、大湊のみ、「鎮守府」への実質的な昇格を果たす形となる。

年譜

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歴代司令長官

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大湊要港部司令官

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  1. 餅原平二 少将:1905年12月12日 -
  2. 大久保保喜造 少将:1907年3月12日 - 1908年5月15日
  3. 武富邦鼎 少将:1908年5月15日 - 8月28日
  4. 玉利親賢 少将:1908年8月28日 - 1909年12月1日
  5. 上泉徳弥 少将:1909年12月1日 - 1911年9月2日
  6. 藤本秀四郎 少将:1911年9月2日 - 1912年7月9日
  7. 土屋保 少将:1912年7月9日 - 1913年5月24日
  8. 栃内曽次郎 少将:1913年5月24日 - 1913年12月1日
  9. 上村経吉 少将:1913年12月1日 -
  10. 中島市太郎 少将:1914年12月17日 - 1916年4月1日
  11. 土屋光金 中将:1916年4月1日 - 1917年12月1日
  12. 岩村俊武 中将:1917年12月1日 -
  13. 森山慶三郎 中将:1919年12月1日 -
  14. 布目満造 少将:1920年10月1日 -
  15. 佐藤皐蔵 中将:1921年12月1日 -
  16. 大谷幸四郎 少将:1922年12月1日 -
  17. 大石正吉 中将:1923年6月1日 -
  18. 四竈孝輔 少将:1924年2月5日 - 1925年12月1日
  19. 兼坂隆 少将:1925年12月1日 -
  20. 島祐吉 少将:1927年12月1日 - 1929年11月30日
  21. 八角三郎 少将:1929年11月30日 -
  22. 伊地知清弘 少将:1931年3月1日 -
  23. 河野董吾 少将:1931年12月1日 -
  24. 大野寛 少将:1932年11月15日 -
  25. 井上肇治 少将:1933年11月15日 -
  26. 山口長南 少将:1934年11月15日 -
  27. 真崎勝次 少将:1935年10月7日 -
  28. 杉坂悌二郎 少将:1936年3月16日 -
  29. 井沢春馬 少将:1936年12月1日 -
  30. 下村正助 少将:1937年12月1日 -
  31. 星埜守一 中将:1938年11月15日 -
  32. 大熊政吉 中将:1940年11月15日 - 1941年11月20日

大湊警備府司令長官

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  1. 大熊政吉 中将:1941年11月20日 -
  2. 河瀬四郎 中将:1942年9月15日 -
  3. 井上保雄 中将:1943年4月1日 -
  4. (兼)後藤英次 中将(本職、第十二航空艦隊司令長官):1945年2月15日 -
  5. 宇垣完爾 中将:1945年3月15日 -
  6. (代)鹿目善輔 少将:1945年11月15日 - 11月30日

脚注

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注釈

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  1. ^ 横須賀鎮守府の所管する第一海軍区は、青森県、岩手県、秋田県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、東京府(小笠原方面を含む)、神奈川県、静岡県、愛知県、三重県、北海道、樺太の海岸海面と設定されていた[6]
  2. ^ 海防艦は占守型国後八丈石垣ネームシップ占守南遣艦隊、のち第一南遣艦隊[7]に所属)。第1駆逐隊は野風沼風波風神風である。
  3. ^ 一例として、1943年(昭和18年)7月のキスカ島撤退作戦において、「国後」が第五艦隊司令長官指揮下の撤収部隊(指揮官木村昌福少将/第一水雷戦隊司令官)に派遣されている。
  4. ^ 1942年(昭和17年)5月末のAL作戦で北方部隊に編入され、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)の指揮下に入った第一水雷戦隊は、連合艦隊戦時編制においては引き続き第一艦隊所属であった[7]。一水戦が第五艦隊に編入されたのは、1943年4月1日の戦時編制改正以後のこと[8]
  5. ^ 第三魚雷艇隊、第51警備隊、第52警備隊、第53警備隊、第57警備隊、占守通信隊、第十五特設輸送隊[15]

出典

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  1. ^ 輝く日本海軍 1942, pp. 375a-376(原本450-451頁)警備府
  2. ^ 輝く日本海軍 1942, p. 370原本440頁
  3. ^ a b 輝く日本海軍 1942, p. 371原本441頁
  4. ^ 輝く日本海軍 1942, p. 352原本418-419頁
  5. ^ 輝く日本海軍 1942, p. 375b.
  6. ^ 輝く日本海軍 1942, p. 372原本445頁
  7. ^ a b ミッドウエー海戦戦時日誌(1), p. 3聯合艦隊編制表(六月一日現在)
  8. ^ S18.03一水戦F日誌(3), p. 6備考 四月一日大海機密第010001番電ニ依リ一水戰ハ六駆ヲ除キ九駆ヲ加ヘ第五艦隊ニ編入サル(以下略)
  9. ^ 第12AF日誌(5), pp. 61–62.
  10. ^ a b 第12AF日誌(5), pp. 27–28.
  11. ^ a b 第12AF日誌(5), pp. 44–45.
  12. ^ 輝く日本海軍 1942, p. 323原本371頁
  13. ^ 第12AF日誌(5), p. 6.
  14. ^ 第12AF日誌(5), p. 53(ホ)當艦隊戰時編制中主ナル変更次ノ如シ 四月十日付 國後、八丈、笠戸、占守、擇捉ヲ千根部隊ヨリ除キ第一〇四戰隊ニ編入セラル
  15. ^ 第12AF日誌(5), pp. 72–73.
  16. ^ 第12AF日誌(5), pp. 71–72.

参考文献

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  • 飛内進『大湊警備府沿革史 - 北海の護り』私家版、2000年。
  • 飛内進『太平洋戦争下の大湊警備府』上巻(1994年)、下巻(1995年)、私家版。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

関連項目

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