美幌海軍航空隊
美幌海軍航空隊(みほろかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。六番目の陸上攻撃機部隊として、大東亜戦争序盤より中盤にかけて最前線で爆撃・攻撃・偵察行動に従事した。1942年(昭和17年)11月1日に初代の第七〇一海軍航空隊(だいななまるいちかいぐんこうくうたい)と改称。
沿革
編集陸上攻撃機部隊の増強を図るために、④計画に盛り込まれた4個航空隊の一つとして、中国戦線での活動を終えた第十五航空隊の陸攻要員を元山海軍航空隊と分け合って開隊した。千島列島方面での作戦行動に対応すべく、既設の中央気象台飛行場(現在の女満別空港のルーツ)とは関係なく新規建設した飛行場を用いた。地名の「びほろ」ではなく「みほろ」と呼んでいたとする証言が多数あり、海軍でも建設中は「M基地」の符牒で呼び、機体番号に冠する区別字は日本国内では「ミ」と定められ[1]、外地では「M」を使用していた。
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 1月1日 二連空は第十一航空艦隊第二十二航空戦隊に改称。
- 3月1日 台中経由上海進出中、宗雪新之助司令・馬野光飛行長座乗の陸攻が新竹付近で墜落、全員殉職。
- 3月26日 上海進出。4月29日初出撃し、重慶を爆撃。以後連日重慶・成都・蘭州を爆撃。
- 9月1日 館山飛行場に帰還。10月9日台中飛行場に進出。
- 11月24日 海南島経由サイゴン近郊ツダウム飛行場に進出。陸攻48機に増強。
- 12月10日 マレー沖海戦。元山空・鹿屋空と協同でプリンス・オブ・ウェールズとレパルス撃沈。
以後、ツドゥム(Thu Dau Mot)・コタバル・クアンタンと前進しつつ、マレー・シンガポール・スマトラ・ボルネオ爆撃に従事。
- 1942年(昭和17年)
以後、本隊は美幌で訓練・哨戒に従事、分遣隊は幌筵島に進出しアリューシャン列島哨戒に従事。
- 8月 木更津・南鳥島に進出、本州東方海上の哨戒に従事。
- 11月1日 第七〇一海軍航空隊に改称。テニアン島に進出。
- 12月1日 ラバウル進出。ソロモン諸島哨戒・糧秣物資投下・ガダルカナル島・ポートモレスビー夜間爆撃に従事。
- 1943年(昭和18年)
美幌空が美幌飛行場を使ったのは、マレーから帰還して南洋に進出するまでの2ヶ月に過ぎないが、ドーリットル隊を追撃した木更津海軍航空隊が進出したことがある。1944年(昭和19年)後半に空地分離策が実行され、北東海軍航空隊司令部が美幌に進駐した。終戦までに美幌周辺に3箇所の飛行場が造成された。敗戦後に進駐した連合軍は、美幌飛行場の滑走路を徹底的に破壊したが、第三美幌飛行場は緊急用に温存した。
破壊された美幌飛行場跡には陸上自衛隊美幌駐屯地が開かれ、残された第三美幌飛行場は、道東の玄関・女満別空港として健在である。また美幌飛行場の格納庫は、解体後の1950年(昭和25年)に旭川市で開かれた北海道開発大博覧会の「開発館」として移設され、後に旭川市総合体育館常磐分館となり1993年(平成5年)まで使用された。
主力機種
編集- 美幌空は当初より陸攻専用の航空隊として編成されていた。後継機の一式陸上攻撃機は1942年(昭和17年)上半期に最前線部隊へ優先して配当されたため、この時期に内地に帰還していた美幌空には配当されなかった。つまり美幌空所属の実戦用機体は「中攻」すなわち九六式陸上攻撃機のみである。
歴代司令
編集脚注
編集- ^ 海軍大臣官房 『内令提要』 昭和15年12月25日現在 第10版 「航空機番号附与法及其ノ表示法」。
- ^ 「昭和15年10月1日付 海軍辞令公報(部内限)第537号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
- ^ 「昭和16年3月5日付 海軍辞令公報(部内限)際599号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080500
- ^ a b 「昭和17年3月20日付 海軍辞令公報(部内限)第832号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084700
- ^ 「昭和17年11月1日付 海軍大臣官房 官房機密第13553号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070423500
- ^ 「昭和18年3月15日付 海軍辞令公報(部内限)第1069号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090000
参考文献
編集- 『日本海軍編制事典』芙蓉書房出版、2003年。
- 『航空隊戦史』新人物往来社、2001年。
- 『日本海軍航空史2』時事通信社、1969年。
- 『日本海軍航空史4』時事通信社、1969年。
- 『戦史叢書 海軍航空概史』朝雲新聞社、1976年。
- 『戦史叢書 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年。
- 『戦史叢書 南東方面海軍作戦3』朝雲新聞社、1976年。
- 『連合艦隊海空戦戦闘詳報別巻1』アテネ書房、1996年。