後藤 英次(ごとう えいじ、1887年明治20年)11月5日 - 1967年昭和42年)11月24日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

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秋田県仙北郡高梨村(現・大仙市)出身[1] 。後藤英之助の長男として生まれる。秋田中学校を経て、1909年11月、海軍兵学校37期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍砲術学校普通科、海軍水雷学校普通科で学ぶ。

以後、「安芸分隊長、「常磐」分隊長、水雷学校教官、「弥生」「吹雪」「」の各駆逐艦長砲艦隅田」「鳥羽」「堅田」の各艦長、「龍田」水雷長、「第5号駆逐艦」(春風 [II])・「第41号駆逐艦」(薄雲 [II])の各駆逐艦長、「浅間」副長などを歴任。

1929年12月、第1掃海隊司令となり、第4駆逐隊司令、第19駆逐隊司令、第11駆逐隊司令、「那珂」「高雄」の各艦長、横須賀海兵団長、「陸奥」艦長などを経て、1937年12月、海軍少将に進級。第5水雷戦隊司令官第2水雷戦隊司令官、第8戦隊司令官、横須賀鎮守府出仕などを歴任。太平洋戦争大東亜戦争)を第24航空戦隊司令官として迎えた。1941年10月、海軍中将に進級。1942年2月、ニューギニア沖海戦に参戦。

鎮海警備府司令長官、北東方面艦隊第12航空艦隊司令長官、大湊警備府兼第12航空艦隊司令長官などを勤め、1945年5月、予備役に編入された。1947年11月28日、公職追放の仮指定を受けた[2]

1967年11月24日死去。墓所は多磨霊園(20-1-6)

栄典

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位階
勲章

出典

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  1. ^ 海軍歴史保存会『日本海軍史 第9巻 将官履歴 上』1995年
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校 昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」11頁。
  3. ^ 『官報』第1040号「叙任及辞令」1916年1月22日。
  4. ^ 『官報』第4705号「叙任及辞令」1942年9月14日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。

関連項目

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