伯太藩
伯太藩(はかたはん)は、かつて和泉国大鳥郡・和泉郡などを領有した藩。藩庁は和泉郡伯太村(現在の大阪府和泉市伯太町)の伯太陣屋。藩主は譜代大名の渡辺氏。藩領は和泉国の他に河内国と近江国に点在した。当初は藩庁所在地が異なり、大庭寺藩(おばでらはん)と称した。なお、本項では前身の野本藩(のもとはん)についても述べる。
野本藩
編集野本藩初代藩主の渡辺吉綱は渡辺重綱(守綱の子)の五男で、尾張藩家老を務めた渡辺宗家(1万4千石。寺部陣屋)の分家筋にあたる。吉綱は江戸幕府第4代将軍徳川家綱の側用人を務めたのち、1661年(寛文元年)に大坂定番となり、河内・和泉両国に1万石を加増されて大名に列した。
吉綱の祖父で「槍半蔵」の異名で知られる渡辺守綱の代から、渡辺氏は武蔵国比企郡を中心に3千5百石を領していたことから、野本藩としての立藩となった。藩庁は比企郡野本村(現在の埼玉県東松山市上野本・下野本)の野本陣屋。2代藩主の渡辺方綱には嗣子がなく、渡辺宗家より渡辺基綱を養子に迎えた。
歴代藩主
編集- 渡辺家
譜代 1万3500石 (1661年 - 1698年)
重臣
編集今井弥一右衛門、向山利右衛門
和泉国移転
編集1698年(元禄11年)に武蔵国の所領を近江国へ移されたのを機に、基綱は和泉国大鳥郡大庭寺村(現在の大阪府堺市南区大庭寺)に陣屋を移し、大庭寺藩が立藩された。
1727年(享保12年)、基綱は陣屋を和泉国和泉郡伯太村に移し、伯太藩が成立した。表高は野本・大庭寺時代と同じく1万3千5百石で、以後9代にわたり在封した。藩主菩提寺は和泉郡下条大津村(現在の大阪府泉大津市神明町など)の南溟寺。
1871年(明治4年)の廃藩置県により伯太県となり、1872年(明治4年)の堺県編入を経て、1881年(明治14年)に大阪府へ編入。明治2年(1869年)に藩主家は華族に列し、1884年(明治17年)に子爵となった。
大阪定番を終え小栗街道沿いに急ごしらえに設置された渡辺家の陣屋には周囲に土塀が巡り、渡辺家の家臣とその家族および武家奉公人総勢500人の人々が生活していた。街道には町場が形成され、商家や宿屋などが軒を連ね、都市化が進んでいた。[1]
歴代藩主
編集渡邊(渡辺)家
編集重臣
編集幕末の領地
編集画像
編集-
伯太藩御殿跡
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伯太藩屋敷跡
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伯太藩陣屋絵図
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旧伯太藩士屋敷
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伯太藩屋敷跡
脚注
編集- ^ “和泉市の文化財「伯太藩陣屋跡」”. 和泉市文化財活性化推進委員会. 2023年8月25日閲覧。
文献
編集- 児玉幸多・北島正元監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』新人物往来社、1977年
- 中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年
- 八幡和郎『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』光文社新書、2004年
先代 (和泉国) |
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次代 堺県 |