Wikipedia‐ノート:検証可能性/秀逸な記事への要出典タグ
このページは過去の議論を保存している過去ログページです。編集しないでください。新たな議論や話題は、Wikipedia‐ノート:検証可能性で行ってください。 |
Archive05(2007-10~)(打ち切り - 出典無き記述の除去 - 「存命人物の伝記」の問題とのすり替わり - 秀逸な記事への要出典タグ - 「出典不明示は削除」は万能な規定ではないことの確認) - Archive06(2007-12~) - Archive07(2008-08~) - Archive08(2008-12~) -
Archive09(2009-03~)(「『真実かどうか』ではなく『検証可能かどうか』」との文言に関して - 「利用者同士の合意によって覆されるものではない」との文言に関して) -
Archive10(2011-01~)(本方針を根拠とする記事の白紙化について - 存命人物の記事におけるGENREF方式の是非) - Archive11(2016-02~)<(無出典記述の扱いの説明について - 目撃・伝聞情報) - Archive12(2018-03~) (edit)
事例研究2 「秀逸」記事への「要出典」タグ
編集上の議論を拝見して思うこともありますがそれは置いておいて、「事例研究」としてもうひとつの例を挙げます。以前、「秀逸」記事に「要出典」タグを貼って回った利用者がおられました。この方の場合、いきなり即時除去といった強硬手段でなく、タグを付けただけであり、その趣旨も事後ではありますがご自身の会話ページで説明しておられます。しかし私が見るところ、この方に対する執筆者の反応は大きく二つに分かれました。「要出典」に応えて脚注で典拠を示したものと、反発してタグを除去したものです。私もこの件には絡んでいて、典拠を示す方に回りましたが、作業しつつも「挙げている参考書籍を読めば当たり前にわかることで、意味ないよなあ」と思っていたことも事実です。これらの経緯はこの方の会話ページをご覧いただければよくわかると思います。投稿履歴(多くありません)から、タグ貼り付けの結果がどうなったかも簡単にわかると思います。この方の活動は短期間で終わってしまいましたが、「検証可能性」方針を議論する上で、参考になる事例ではないでしょうか。--みっち 2008年1月18日 (金) 09:13 (UTC)
- 同様の事例について、次の事例研究にあげようかと考えていました。具体的にあげていただき、感謝します。
- 原則論から言うと、何が問題なのか具体的に指摘できないのに「文献明示されていない」という理由で削除して回る人が居れば、そいつはアホだと思います。「コミュニティーを疲弊させる利用者」の一種でしょう。だって、問題点が説明できない人間に対しては「こういう文献なら良いですか?」という対話も出来ない訳です。どういう記事にしたいのか具体的なイメージをもっていないのに、ケチだけつけて回るようなことをやってはダメでしょう。
- 具体的問題点を説明することなく「要出典」タグを貼って回る編集者も程度の違いこそあれ、同じ問題を抱えていると思います。--おーた 2008年1月21日 (月) 15:50 (UTC)
- 原則論から言うと、「文献明示されていない」こと自体が問題なのであって、それ以外のことを問題にする必要はないと思います。
- 出典要求する人は、記事を書いた人が執筆時に参考にした文献の明示を要求しているだけです。資料を確認せずに勝手な思い込みで書いたのでない限り、執筆者の手元に当然参考文献があるはずだから、それを出してくださいとお願いしているにすぎません。「要出典」というのは、そういう至極簡単なことを依頼するものであって、「ここが疑問だから、その疑問に応える文献を探してきて出せ」などと贅沢なことを言っているわけではないと思います。
- Reference Walkerさんの事例について言えば、投稿履歴を見る限り、出典要求されていたのは、主として(1)数値データーの出所と(2)誰かの発言を引用している箇所の引用元のようです。数値データは測定や計算の方法によっていくらでも操作できますから、どのようにして算出された数字か分かるように出所を明らかにすべきなのは、当り前のことだと思います。また、人の発言は、発言の背景・文脈から切り離して引用すると全く別の意味になってしまう虞もありますから、そのあたりを元の発言にさかのぼってチェックできるようにしておくのは重要なことです。私としては、少なくとも「検証可能性」のルールに関する限り、Reference Walkerさんの出典要求に問題があったとは思いません。というか、こういう出典の明示は、本来であれば「秀逸」記事になる前に手当てされているべきだったのではないかなとさえ思います。
- とはいえ、「秀逸」記事の場合は、列挙されている参考書籍を調べていけば、誰でも情報の出所を探し出せるはずだという事情があります。その点、Reference Walkerさんの言い方は他人にお願いするばかりで自分では何もしない「他力本願」の姿勢にも見えます。本当は、自分でも出典を探しながら、他人にも協力を求めるという姿勢が出せれば、もっと感じが良かっただろうと思います。しかし、これはどちらかといえばマナー・エチケットの問題であって、「検証可能性」のルールの問題ではないでしょうから、このページの議論の対象ではないと思います。--Dwy 2008年1月22日 (火) 04:49 (UTC)
- 「どちらかといえばマナー・エチケットの問題」なのはむしろ事例1の方が典型例のような気がするのですが。私が受けた印象は、感じがよいかどうかではなく、タグ貼り箇所が文脈を読み込んだ上の適切なものだったのか、ひいては記事を共に育てる「協働」の姿勢を持っているか、が問われたのではないかと思います。この点では、Dwyさんの「自分でも出典を探しながら、他人にも協力を求めるという姿勢」は「秀逸記事」に限らず必要なことだと思いますし、このことは、「検証可能性」方針上も重要ではないかと考えます。--みっち 2008年1月22日 (火) 07:08 (UTC)
- (インデント戻します)んーと、みっちさんが挙げた二つに加え、もう一パターンの反応としてノート:腸炎ビブリオを挙げておきます。文中に出典を記載することを避け、タグを除去した上で、ノートでコメントした例に当たります。下の方でも議論に出たのと同様に「検証可能性は満たすが、個々の記述文への出典明記の例外」という感じで対話による解決を試みた、というパターンです。
- ちなみに、この腸炎ビブリオは、現在の検証可能性や独自研究の排除の方針が固まる以前に、「記事の信頼性を確保するにはどうすればいいか」ということを考えながらゲリラ的にやってみてたものでして。自分で言うのもアレですが、現在の「検証可能性」に担保するよりも厳しい判断基準(すべての記述内容について必ず複数の総説・教科書で確認を取り、それらにおいて「コンセンサスが得られた」と見なせる記述だけで記事を固める)を盛り込んでまして。もちろん「検証可能性」に沿った記述に書き換えることも可能ではありますが、結局それは「形式的に」満足させるってだけのことにすぎないし、それをやっちゃうとむしろ「信頼性を劣化させる」ことになりかねない、とか思ってたりするものでして(これもいずれ事例研究に挙げようか、とか思ってたりしたんですが……「『一次情報より二次情報』に従って記述の信頼性を突き詰めていくと、個々の記述ごとの出典明記は減っていくんじゃないか、という矛盾」とか何とか)
- で、まぁReference Workerさんの事例については、うーん、これは皆さんそれぞれ上で述べられているような側面もあるんだけど、どっちかというとそれはいずれも副次的な問題であって、一言で言うと、単に「時流やタイミングを読み誤った」とか「空気を読み誤った」とか、その手の問題に端を発するコミュニケーション不全だったと思うんですね。この単純な回答に同意しない/満足できない人の方が多いとは思うんだけど。
- Reference Workerさんは、その書き込んだ文章自体は丁寧で礼儀を欠いたものではなかったし、また出典を追記した執筆者にわざわざ御礼を書き込みにいったりと、その姿勢はとても丁寧で、正直僕も見習わないといけないなぁ…とは言え、なかなか真似できないなぁ、というくらいのものだったと思うんですね(まぁ単にそれは僕がものぐさだからかもしれませんけど)。にも関わらず、結局Reference Workerさんの活動はあまり実を結ばなかった。それは何故かというと、直接の原因は「一度にまとめて/難しいところからいきなり/やろうとした」ということに尽きるんじゃないかと思うんですね。これが例えば、一つの記事にまず腰を据えて、一つずつの記述について精査しながら片付けていったのならば、少なくとも最初のうちは「あっちにもこっちにも、貼れるだけ貼ってるだけの人」という印象を持たれることはなかったでしょうし、その最初のうちの間に、秀逸記事への出典が完備されてより良い物になった、というだけの実績や評判を稼げてたら、それ以降の活動もよりスムーズなものになってたんじゃないかな、とか思うわけです。まず最初に見本となる記事たるべき「秀逸記事」に目をつけたのは良かったと思うんですが、最初のうちは「個別に出典が明記されてるけれど、まだ少ない」記事にターゲットを絞って、一つずつ片付けていくくらいの慎重さがあったら、多分Reference Workerさんの活動はもっと実を結んでたんじゃないだろうかと(なんてのは、後からだから言えることですけどね)。Reference Workerさんが要出典を貼ったという行為自体には、実はそんなに問題はなかったんだけど、そこらへんのタイミングというか、進め方をReference Workerさんが見誤ったために、結局活動休止することになったんじゃないかと。
- こういう評価をすると、ひょっとしたらDwyさんあたりは「だったらReference Workerさんは正しいことをやったわけだし、それを非難するのはおかしいんじゃないか」とか考えるのかもしれないな、と思いますけど、このあたりが「周りの空気」というか「時流」というものがどうしても絡んできてしまう部分だと思うんですね。理想論だけではどうしてもうまくいかない、「現実解」として何が最善かを考えないといけない部分とでもいうか。確か、一年くらい前にDwyさんやAlbumさんと議論してたときに「日本語版では、出典の明記についてルール通りの運用が実際に可能になるのは、もう1-2年くらい先のことだろう」という旨のことを言った記憶があるのですが、Reference Workerさんは時代を先取りしすぎたというか、そのために反発を受けて結局活動を休止したとでも言うか。これがもし、英語版のように出典明記が十分に浸透している状況であったのであれば(そして「乱発」が目立たなかったのであれば)、Reference Workerさんの当時の活動は日本語版でも受け入れられていた可能性は、十分にあるんじゃないだろうか、と。おそらくReference Workerさんは、そういう状況を作るための「下地」として、まずは秀逸記事の出典明記を狙ったんでしょうけど、それでも少し時期尚早の感があったんじゃないかなぁと。この辺りは「ルールがどうこう」「記事にケチを付けてどうこう」という以上に、もやもやした部分が絡んでるんで評価しづらい部分はあるし、まして「空気を読みそこなった」なんて、失敗の理由としてはあまりにも漠然としすぎて、釈然としない原因になるんだろうけど。まぁ事例研究ということなので、僕なりの、POV丸出しの評価として述べさせてもらいました。--Y tambe 2008年1月22日 (火) 12:23 (UTC)
- ノート:腸炎ビブリオの例は、大変面白かったです。結局、どうやって記事の検証可能性を保証するのかという話は、執筆者・編集者のコミュニティの合意によっては少しづつ変わるんですよね。この他にも、例えば記事が単純で参照文献が一つか二つくらいの場合なら、事細かに「ここの記述は何ページ参照、そっちの記述は何ページ参照」みたいに書かずとも十分に検証可能性が保証されていると考えて、そのように執筆者達が合意したって構わないと思います。もちろん、Wikipediaのような大規模プロジェクトでは段々に作業は標準化されていくものですけれど、とりあえず合理的な手法で合意されている記事はそれなりに尊重すべきものだと思います。
- Dwyさんが指摘するようにReference Workerさんの要出典タグは、それなりに妥当なものだとは私も思います。ただ、「Wikiで良い記事を作るためには、それに相応しいコミュニティを作る必要がある。コミュニティの議論を導くために各種のルール・ガイドラインは存在する」と考えている私としては、「ルールに従ったルーチン作業をしてコミュニティをないがしろにする」のは本末転倒だと考えます。それぞれの記事について深く考えずに、ルーチンで要出典タグを貼って回ったReference Worker氏がまさにそれでしょう。
- なお、Reference Worker氏はおよそ10時間の間に約50項目に極めて丁寧な出典タグを貼っただけでそのまま活動を終えるという、たいへんに不思議な履歴を残していますが、おそらくはそれなりの編集歴を持った方の確信犯的ソックパペットだったのだろうと思われます。--おーた 2008年1月22日 (火) 15:50 (UTC)
- 「空気を読み誤った」というのに同意します。あ、でも一つの記事に腰を据えると、「なぜこの記事だけ」という反論もありがちです。
- んー、ぼくが思うのは、それぞれの立場の人が、方針を踏まえて、自分にできることをするってことだと思うんですね。他者に何かを求めるのではなくて。それはオープンコンテンツを作る上で、大事な事じゃないかと思うし、多くのことは、それで解決する/させるようなことだと思う。該当部分の執筆者なら、出典出せと言われたら、ああごめんごめんといって出せばいいし、出さないなら出さないなりに理由を書いたほうがいい。「要出典」を貼ったり編集除去したりするなら、出典を求める対象となる記述はそれなりに選んだほうがいいし、自分が付け加えてもいいってことを踏まえてそれなりの丁寧さでお願いするのがいいと思う。該当部分の執筆者ではないけれど記事に関わっているなら、多少は自分のほうが探せるかなと思って探すか閲覧者のためを思ってタグをそのままにしておくかだと思う。編集除去に問題があったら、出典を出すってこととは別に注意してもいいけど、編集除去の時の態度を理由に出典を出さないってのはダメでしょう。gdgdになるのは、それぞれに問題があると思う。この事例研究として挙げられた2例は、タグ貼り/除去する側も執筆側も、穏当なほうだと思います。もっともっとひどい例はありますよ。
- 現状、ウィキペディア日本語版は、検証可能性を担保して記述している人は少ないし、出典が必要な記述を選んで、丁寧に方針を示しても、示せない人も少なくないです。他方、その指摘の仕方では、というのも見ます。で、双方にストレスが溜まってると思う。
- でも、そこに留まっていてはいけないわけで、出典を示すような編集者的な振る舞いというのは、難しいところもあるけど、基本的には、記事の質の向上に向かうわけですし、厳格に方針を捉えるなら、検証可能性を満たさないほうが悪いってのはあるのだから、そこばかりを否定するのは、よくない。論点が検証可能性にあるなら、最終的には、編集者の対話能力が向上することが理想なのではなくて、執筆者が検証可能性を満たす記述を最初からすることが理想なのですから、ウィキペディア全体の執筆姿勢が変わっていかないと、変化はしない。その変化のきっかけに、編集者の妥当な指摘が必要な状況があるのかもしれなくて、うまくそれをこなせる人が登場していないということかもしれない。初心者執筆者の面倒を見ている人がいて、それで執筆スキルも上がる。それと同じように、ここに集まっているみなさんのような執筆者が、対話能力とか配慮の仕方とかを編集者的な振る舞いをする人にうまく伝えて欲しいなとも思います。利用者‐会話:Reference Walkerも概ねそんな感じだし、ノート:腸炎ビブリオも、そういう例となると思います。
- 腸炎ビブリオを見て思ったのは、記事の性質の違いというのも大きいなと言うことです。ちょうどチンドン屋とは、いろんな意味で対極にある感じ。こっちも、検証可能性や記事の信頼性を強く意識して書いたものですが、(いちおうできるだけ二次資料を使っているけれど)出典は詳細にならざるをえないところがあります(シカゴ寄りのスタイルなのも、文中に織り込むハーバードスタイルだと可読性が下がるため)。個別の記述に対する出典が不要な例の一つとして、項目それ自体を主題とした書物を複数出典として挙げていて、そのいずれを見ても検証できるというもの、ということは言えるのかな。項目のテーマが大きくなると難しいでしょうけれど。--Ks aka 98 2008年1月22日 (火) 19:06 (UTC)
- この非常に長い議論につきあってきて、ようやく私なりに見えてきたのは、「まず検証可能性ありき。他の観点は二の次」という考え方と「検証可能性がすべてではない」という考え方の対立だろうということです。「検証可能性は、百科事典の質を保証し、共同作業を可能にするために必要なもので、どちらかというと、中立的観点よりも上位というか、先に立つもの」とのKs aka 98さんのご意見が前者の代表例で、これに対して私はウィキペディアの「三大方針」は相互補完的に並び立つものであって、どれが上とか先とかいうことではないのでは?と質問しましたが、スルーされました。結局のところ、この解釈の不一致が根本にあるのでしょう。
- 検証可能性が他の方針より上位あるいは先に立つという解釈は、自分が執筆するときの心構えとしては立派だし文句はありません。が、そのような解釈が一人歩きして、「検証可能性が唯一絶対」あるいは「出典=記述の信頼性」のように一面的に受け止める風潮を助長しているように感じます。したがって、Wikipedia:コメント依頼/Albumのような事例は今後ますます増えていくだろうと思います。
- 自分の主張や書きたいことをみだりに加筆することと、自分が気に入らない記述を片っ端から即時除去して回ることと、私から見ればこの両者は等価であって、どちらもウィキペディアの質を高めるものではありません。「検証可能性」を単に自分の知らない記述を消したいため、あるいは自分の主張に反する考えを葬りたいがための武器として使うことは、適切ではないと考えます。しかし、「まず検証可能性ありき」の方から見ると、少なくとも「検証可能性」を盾にした即時除去それ自体は「問題ない」ことになります。そして、経過はどうあれ結果的に出典が示されれば「うまくいった」、もし出典が示されずに除去となってもやはり「うまくいった」ということですよね。だとすると、この溝は深そうです。
- 私は百科事典の「質を高める」というのは、情報をなるべく活かし、検証できない記述があれば、それを検証可能な記述に置き換えることだと考えています。もちろん、記述によってはどうしても採れないものはあります。その際、出典の必要性だけでなく、そもそもその記述が項目にふさわしいものなのか、情報として必要なのかなど他の観点からの検討が必要でしょう。要は一面的なとらえ方をしない、ということに尽きます。それらをすっとばして「出典の有無だけ」、「まず除去ありき」で決着させようとするから反発されるのです。
- ここまで書いたところで、心ならず私もずいぶん深入りしてしまいました。自分なりに考えの整理はついたし、下の節でY tambeさんが提起しておられる修正案に賛成し、議論から降ります。--みっち 2008年1月28日 (月) 09:37 (UTC)
- 「相互補完的に並び立つ」とはいっても、検証可能性(もしくは信頼性)の無い記述に対して独自研究かどうかや中立性があるかないかを論じることの不毛さを考えるとき、私は、他の2方針よりは原初的なものだと考えています。
- 検証可能性のないことを盾にした即時除去があちこちで横行すると混乱を招くであろう(現に招いている)ことは承知しているつもりですが、そういうことを行っている人を管理者の裁量のみでブロック等による排除を行うのは賛成できません。当該記事(あるいは百科事典全体として)の信頼性を維持することと、除去行為によるコミュニティーの迷惑・疲弊のどちらをとるのかはブロック依頼等により広く意見を集めた上で合意形成がなされるべきだと考えます。
- 即時除去行為ではなく、「要出典タグ」を付ける行為については、どんなに簡単なことでも、面倒でも「出典を出せばそれで済むのに」と考えることが教条・原理主義的であると言われるのには抵抗があります。そんなに大変でしょうか。--FXECG 2008年1月28日 (月) 11:51 (UTC)
みっちさんへの答え
編集ええと、前回も今回も話が進んでいくので、こだわるのもなんだしと思っていましたが、そこに戻ってくるのなら、書いてみましょう。長いですけれど。
検証可能性は、他の方針と並び立つものです。しかし、それは、検証可能性を満たし、独自研究ではなく、中立的に書かれているという、三つをすべて満たして、ウィキペディアの記述として成立するということだと考えます。検証可能性を満たさなくても、独自研究ではなく、中立的であればよい、というような形で並び立つのではない。検証可能性を満たしていても、他の二つを満たしていなければ、百科事典としてふさわしくなければ、よりよい記述に変更され、あるいは除去されるでしょう。検証可能性を満たすことは、記述できることを保証するものではないですね。中立的な記述であっても、独自研究であれば、あるいは検証可能性が満たされていなければ、適当なタグが貼られるでしょう。検証可能性がすべてではないし、ほかの方針が、重要さの面で二の次ではない。
独自研究や中立的観点について議論が生じた際に、ウィキペディアでは、どのような情報源に基づいての記述なのかということに遡り、出版元や著者、主題、刊行年、あるいはどんなメディアなのかということを踏まえ、必要ならば、それぞれに情報源を検証して、より適切な記述のあり方を探ることになります。情報源の評価や参照なしに、各編集者がこれは正しいとか言いはっても、不毛です。「先立って」というのは、独自研究や中立的観点の方針をクリアするために、検証可能性を満たす必要がある、というか、まずは情報源を明らかにする必要がある、という意味です。中立的観点でいえば、「意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示する」には、「誰」なのかという情報源を示すことが必要です。「検証可能性が唯一絶対」あるいは「出典=記述の信頼性」ではない。記事をよりよいものに変えていく場合に、手順として、情報源を示すことが先行する、ということ以上のことを主張するつもりはないのです。
明らかに百科事典としてふさわしくない記述を除去するために、検証可能性は、確かに一つの武器となるでしょうけれど、そんなものは方便の一つに過ぎないです。本当に検証可能性だけが問題なら、適当な出典を付ければすむ話です。出典を挙げるまでもないものだとしても、あれとかこれとか読めば書いてあるとノートで言えばそれで終わりです。比較的広い範囲を扱うような記事なら、参考文献を挙げているだけでは、概論ではなく各論の部分で、出典を求められるかもしれませんが、それも、そこのところは、これに書いてあるということが分かるように体裁を整えたり、各論に見えるけれどそれくらいはどの文献にも出てくるとノートに書けばいいでしょう。腸炎ビブリオが好例となっていますが、ある情報源だけを記事に出典として記すのが不適切な場合でも、ノートでいくつかの情報源を挙げることはできます。該当する記述の執筆者であれば、出典を示すことで容易に無効化できる程度の武器でしかありません。該当する記述の執筆者でなければ、おそらく正しい記述だと思えたとしても、出典を示すのが難しいこともあると思います。そのような場合であれば、「出典を付けるまでもない」とは言えないでしょうから、可能なら情報源を探す、無理なら要出典タグを残すということになるのではないかと思います。
百科事典としてふさわしくない記述というのは、検証可能性以外に問題があるはずです。百科事典としてふさわしいかどうかという判断は、しばしば混乱しますから、判断が容易な検証可能性を持ち出すのは、いちおうの合理性があります。それに加えて、ある記述がプライバシー上問題があるような場合、適切な出典が加えられなければ削除、加えられればそのまま、ということになります。矢野顕子は、そうでした。著作権や名誉毀損などでは、出典の後付では削除を免れないことになりますが、プライバシーや中立的観点や独自研究に関しては、問題があるように見える記述が、出典が明らかになれば適切な記述であることが示されるというようなこともあるでしょう。最初に出典を求めるというところから、やりとりをはじめるのは、それなりに妥当な対応ではないでしょうか。
「私は百科事典の「質を高める」というのは、情報をなるべく活かし、検証できない記述があれば、それを検証可能な記述に置き換えることだ」という見解には、ある程度、同意します。検証可能な記述に改めるまでの間、不確かな情報をどの程度残すか、という部分が、ここでの論点のひとつではないかと考えます。
検証できないものがあれば検証できるものへ、だけではなく、むしろ、検証できることを前提として、その情報源を、より信頼できるもの、アクセスが容易なもの、評価が定まっているもの、一次資料に近いものへ導けるものへと変えていくことが「質を高める」ではないかとも考えます。いいかげんな記憶や自分の分析ではなく、資料を参照して書いているなら、出典を付けること自体は、たいして難しいことではないですよね。より信頼できる資料を探し、その評価を知るのは、かなり難しいです。誰かが書いた記述に、出典を後付けするのも、そうとう難しいです。それから、検証可能性は信頼できる情報源を求めていますが、これも難しいです。よく読めば、適切に扱うなら大衆紙を出典としてもいいとも書かれています。ある記述を支える最善の情報源を示すことは、目標ではあるとしても、方針で求められているものではないですね。だから、ゲーム雑誌でも中学の教科書でも政党の機関紙でもいいから、最初から出典くらいは付けましょうよ。検証可能性というのは、その程度のものではないのかなあ。
中立的・客観的な記述を心がけることは、今も昔も重要だと思いますよ。百科事典を書く、となると、みんなそれを意識するようです。ところが、ウィキペディアは閲覧者には誰でも書く事ができるもので、専門家が書くわけでも、専門の編集部や校正者がいるわけでもありません。出典なき記述は、客観的・中立的に「見える」記述に過ぎないわけです。記述の信頼性を確保するには、情報源を示し、その情報源の信頼性で担保してもらうという形をとるということになります。これは、ウィキペディア独特の制度というか手法というか、そういうものですから、方針を知り、意識的に出典を付けようとしないと、なかなか達成できない。めんどくさいですし、既に書かれていた記述に出典を加えるのは難しいです。それでも、すこしずつ情報源を示しながら執筆する人が増え、既存の出典なき記述に情報源を加え、必要ならその場その場で検証可能性の重要さを説く人が増えていかないと、読者に信頼できる情報を提供することはできない。過渡期ならではの衝突はあるにしても、そっちへ向かわないといけないのではないかなと思うのです。--Ks aka 98 2008年1月29日 (火) 18:04 (UTC)
- お答えいただき、ありがとうございました。先にも書きましたがこの場の議論からは降りますので、このお礼をもって最後のコメントとさせていただきますことをお許し下さい。
- もともと私がこの議論に加わるようになったのは、Wikipedia:コメント依頼/Albumとの関連からでした。「出典=記述の信頼性」や「除去がウィキペディアの質を高める」というような考え方がどうして出てくるのか、そんなふうに読めるとしたら、それは方針そのものがおかしいのではないか、ということがきっかけです。したがって、「検証可能性は中立的観点よりも上位あるいは先に立つ」というKs aka 98さんのご意見は解釈としてわかる部分もありましたが、反面、先に述べたような一面的な理解(というより思い込み)を勢いづかせているようにも感じ、失礼ながらツッコミを入れさせていただいたものです。
- おっしゃることには概ね同意します。とくに「検証可能性が唯一絶対」あるいは「出典=記述の信頼性」ではないことを明言いただいたことは収穫だと考えています。以前に事例1を「うまくいった方」だといわれたことには違和感がありますが、この程度の受け止めの差は個人レベルではあるものでしょう。おそらく、Ks aka 98さんはみだりな加筆を、私はみだりな除去をより重く見ているという違いでしょう。私は、なにも生み出さない除去という行為には不毛しか感じないのです。消しゴムは鉛筆あってのものですから。
- ちょっと残念なのは、すでにおーたさんからも出されていますが、この議論の参加者に実際に記事を執筆している方が少ないように見受けられることです。本来、利用者は執筆者であり編集者であり、かつまた読者でもあって、やろうと思えば一人でもある程度多面的にとらえられるものですが、Ks aka 98さんがいみじくも「執筆者側」と「編集者側」に分けて意見しておられるように、いずれかに偏った利用形態が現実なのかもしれません。そうなると、「立場」上出てくる意見も必然的に限定的なものにならざるを得ないでしょう。率直に言って、いまの方針はこの点でややバランスを欠いており、そのために実際の運用面で反発が生じていると考えます。この方針が、無責任な加筆とともに恣意的な除去からも、ウィキペディアを守るものであってほしいと望みます。--みっち 2008年1月31日 (木) 09:10 (UTC)
いくつか、もう少し書いてみます。
「出典=記述の信頼性」「除去がウィキペディアの質を高める」という考え方自体は、自然なものだと思います。記述の信頼性を担保するのは、基本的には示された情報源の信頼性であって、執筆者や、記述のもっともらしさではないはずです。また情報源が存在しない状態では、その記述の信頼性が担保できないのですから、信頼できる情報源を加えることができない状態ならば、不確かな情報を削ることは質の向上のための次善策ではあるでしょう(信頼できない情報源さえあればいいというものではなく、常識の範疇に属するものもあるでしょうから、それは、ここでは考えません)。件のコメント依頼は、方針とはあんまり関係ないと思いますよ。
それはそれとして、「誰でも編集できる」という状態を維持しつつ、百科事典として信頼できるものを読者に提供しようと考えれば、「検証可能性」という方針は、たどり着く帰結のひとつだと思います。そして、出典がなくても記述は信頼できるのではなく、出典さえあればそれでいいのでもなく、出典はせいぜい記述の一部の内容に信頼性を与えるのであって、記述全体の信頼性を与えるわけではない(NOR)し、十分信頼できるとされている情報源ではないものでも、場面ごとに適切なものを数多く示していくことで信頼できる記述にしていくこともできる。そのように考えます。
出典なき記述の除去は、何も生み出さないわけではなく、情報を減じる代わりに信頼度を高めます。「バレンタインの12年はモルト・ウィスキーの一種」という記述を除去することは、質の向上に繋がります。そして、この「モルト」に関する誤解は、酒の味を覚え始めた大学生が資料を確認せずにウィキペディアに書き込んでしまうことがありえそうな程度には、広まっていると思いませんか?では「ケンタッキー・シルクはバーボン・ウィスキーの一種」は、どうしましょう?「みだりな加筆」「みだりな除去」は、両方ともダメなんですね。多くの人が、みだりな加筆を改めて、出典を付けて加筆することで、除去も減る。「みだりな除去」がなくなっても「みだりな加筆」は減りません。「みだりな加筆」を減らすために、加筆する人を追い出してしまっては、ウィキペディアは発展しませんから、きちんとした加筆ができるように方針を知ってもらうという形で、円滑に移行していく術を考えないといけないのだと思います。
それから、「執筆者側」と「編集者側」に分けているのは、個別の行為によって分けて書いているつもりです(ずいぶん長い議論になっていますから、類型化して書いているところもあるかもしれません)。「その記述をしたなら」、または「それを除去するなら」、という区別は、つまり、誰かにどうするべきだと要求するのではなく「あなたは」つまり「自分は」それぞれの立場でどうするべきなのか、ということを考えましょう、ということです。自分が書くときは出典を付ける、付けていなかったところを指摘されたなら素直に示す、または出典を出す必要がない類のものだということを示す。自分が指摘する側なら、いざこざが生じないように配慮する。執筆する側が「指摘する側はこうあるべき」と言うのではなく、指摘する側は最初から出典を示していないお前が悪いという態度で望むのではなく。
で、ぼくはほとんど執筆しませんし、管理者仕事の流れでもなければ、要出典タグを貼ったり編集除去したりということもしていません。唯一書いた「チンドン屋」は、本気で検証可能性とNORを満たすなら、この程度の出典を付けざるを得ないし、学術的な分野でなくともそれは可能だし、査読つき学術誌ではなくとも信頼性を高める資料選びは可能だし、出典を付けるのが難しい部分でも脚注の書き方で情報を提供することはできるということを示しておきたいという意図もありました。先に書いた、「円滑に移行していく術」というのの一つは、NORやNPOVに加えて検証可能性を満たしている記事が増えること、増やすことです。
執筆者の心持ちはわからないところもありますが、出典を付けることが、それなりに大変だということは分かりますし、とはいえ資料集めや構成を考えたり文章をまとめることを思えば、大変といっても、それほどおおげさなものでもないと実感として持っていますし、出典が示されていないものを独力で調べなおすことが、いかに大変かということは痛感しています。該当する記述の執筆者がいない場合に出典を示すのは難しい、ということを、何度か書いていますが、それは、自分の経験からくるものだったりします。そして、だからこそ、最初から情報源を示して欲しいなあと思うのですね。だから、Y tambeさんの提案のような文の柔らかさを得るくらいの改変には、特に反対しませんが、より大きな、検証可能性の方針の、緩和する方向での路線変更は、ぼくは受け入れがたいと思っています。この方針は、ウィキペディアを守るものではなく、読者のためにウィキペディアン自らに労力を課すという類のものだと思うのですよ。--Ks aka 98 2008年2月1日 (金) 20:23 (UTC)