Wikipedia‐ノート:検証可能性/「出典不明示は削除」は万能な規定ではないことの確認

確認:「出典不明示は削除」は、オールマイティな規定ではない

編集

極めて常識的なことしか書かないつもりですが、いちおう確認もしておきたいもので。

Wikipediaにおいて「出典を明示すること」は強く推奨されています。が、しかし、「結論を出すことになんか意味があるの?」での議論を踏まえて、以下のことくらいは前提としていいような気がするわけです。

  • 全ての記述に出典を逐一記せというのは非現実的である。
  • ある程度までは「共通認識」として出典を記さないことを認めていいレベルがある。

さて、これを前提として、次のことを確認したい。

  • 出典が記載されていないことを理由として記述を削除することについて見解対立があった場合には、合意形成をはかることが推奨される。

具体的には、「ノートで議論を行い、『このくらいならば出典を記す必要はない』という意見が優勢を占めた場合には、『Wikipedia:検証可能性』を理由として削除を強行することは認められない」ということです。別の言い方をすれば、「ノートでの個別具体的な検討は、Wikipedia:検証可能性の形式的適用に、優越する」と言ってもいいかもしれません。

しばしば、検証可能性を理由として特定の記述の消去を求めるひとがおり、それは消さなくてもいいという意見のひとと、対立に陥ります。その類型のひとつとして、「検証可能性の形式的適用は、ノートでの合意に優越する」という主張があるわけです。この場合、その主張者は、自らがあたかもWikipediaにおけるルールを体現しているがごとく振る舞い、全く対話が成立しないという状況に陥ります。この状況をなんとかしたいんですね。

逆の見方をするならば、「出典が記されていないことを理由としてある記述を削除することについて、他編集者から反対を受けた場合、削除を希望する者は『検証可能性』を言い募るのではなく、自らの言葉で『なぜそれが検証されていないのか』『なぜその記述には出典が必要なのか』の説明をし、説得をし、賛同者を増やすよう努力しなければならない」ということでもあります。結果として説得に失敗した場合は、当然、削除を諦めなければなりません。単に「検証可能性を言い募る」だけであれば、それは対話拒否と受け止めてもいいかもしれません。

いかがでしょうか。では、ご意見をよろしく。--Nekosuki600 2007年12月7日 (金) 13:31 (UTC)

基本的な方針として賛同します(というか一年前から指摘してた問題点がようやく片付きつつあって嬉しい)。
ただしせっかくの機会なんで、「検証可能性」と「出典を明記する」の位置付けについても、考えてみてほしい、と思います。「出典の明記」と「検証可能性」を同一視している人が多いのだけど(まぁ、多くの場合においては同一とみなすべきだろうし)、厳密にはこれは同一ではないわけで。Nekosuki600さんが挙げている例というのは、「出典を明記する」(要するにこれが「形式的運用」ね)の例外だけど、「検証可能性」の例外(典拠を出した=検証可能性は満たした、が、どれかを出典として本文中に記載するのは相応しくないケース)ではないでしょう、という解釈で。「検証可能性を満たせ」という主張は、それなりに「硬い」方針であるべきなんで、そういう部分に「あれも例外、これも例外」という形で、ぽんぽん放り込まれても困ることになるんじゃない?というか。
ついでなんで、一年前の議論のときに挙げた(現在はarchive01にある)「冒頭のまとめ文の修正案」を再掲しといてみます。
  1. 記事には、信頼できる情報源が公表している内容だけを書くべきです。
  2. 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。でなければ、その部分は誰かに除去されるかもしれません。
  3. 出典を示す責任を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。
僕自身は最近あんまり集中した議論に参加できる時間がとれず、「この文面に修正しよう」という論戦は張れないのだけど、一年前とは、議論に参加するメンバーも違うだろうし、またウィキペディアを取り巻く環境も変わってきてて、一年前に危惧してたような「出典を明記してない」ことを濫用して、記述を除去する理由にするケースも現実のものになってきてるので、もしかしたらこの案に対する「周りの見る目」は変わってきてるのかもしれないなとも思います。なので、過去の議論の要点としてこれだけピックアップして(なんせ、ここの膨大な過去ログを読めとはよう言わんので)挙げておこうかと。--Y tambe 2007年12月7日 (金) 16:20 (UTC)
ああ、そういう表現もできますね。「出典が明示されていないからといって、検証可能性がないわけではない」と。簡単に調べられるようなことについて、出典が明示されていないという理由でばさばさ削られてはかなわんわ、という感じ。「出典が明示されていない=問答無用で削除していい」というのはある種の思考停止だし、突き詰めていくと言語によるコミュニケーションの前提となる「共通の概念・基盤」を否定するような暴論だし、そう分けて表現してもいいかもしれません。
おれとしては、とりあえず、教条主義的かつ対話拒否的な削除主張を封じることができれば、それでおっけーです。出典が明示されていなかったとしても、誰かが「単に、自分が知らなかった」ということだけを理由に出典を求めたり、出典が付されていないことで削除を強行したりっていうことを止めるっていう効果はありそうだから。更にまだ教条主義的・対話拒否的な主張を繰り返すようだったら、対話拒否を理由にブロックしちゃってかまわないとも思うし。
おれもさほど気力が湧かないので、規定文の見直しまでは主張しません。とりあえずこの項目のノートで、教条主義的かつ対話拒否的な削除は適切ではない、ということが確認できれば満足です。--Nekosuki600 2007年12月7日 (金) 17:12 (UTC)
う、確認するとは言い難い。いや、いわんとしていることはわかる。
まず、個人的には、ほとんどの記述に出典を逐一記すのは現実的に可能だと思うし、それを行なっていくことにウィキペディアの可能性を感じている。教条主義的かもしれないけど、すべての執筆者に、少なくとも目指す、という部分は保持して欲しいという思いがある。ま、それは、個人的な部分なので、単なる意見表明として。続く「ある程度までは「共通認識」として出典を記さないことを認めていいレベルはある」というのは理解するけれど、その判断が妥当に行なわれるかどうか、という部分には疑問がある。
それを踏まえて、「出典が記載されていないことを理由として記述を削除することについて見解対立があった場合には、合意形成をはかることが推奨される」というのには合意する。
ただし、「検証可能性の形式的適用」を、覆すことが出来ることを、出典を記載しない側が示す必要があると考えます。ある程度までは共通認識として出典を記さないでもいいという判断が妥当に出来るのであれば、先だってのNekosuki600さんのように、いくらかの用例を示したり、執筆者であれば当然知っている基礎的な文献を示すことは、出来るはずです。それを本文には書かなくてもいいけれど。
「これくらいならば出典を記す必要はない」という意見は、本来出典を必要とする状況下にであっても、労力を惜しむ、信頼できなかったり表明しづらい情報源を出すことを避ける、出典の意味がわかっていない、などの理由から、しばしば主張されるものです。それを、『このくらいならば出典を記す必要はない』という意見が優勢を占めた場合としてしまうのも問題があります。出典が不要と言えるような記述は、全体の記述から比べればほんの一部です。付されるべき出典が付されていないということもウィキペディアの信頼性を考えれば深刻な問題です。この「確認」は、このような事態を軽視しているように感じます。
他方、闇雲に要出典を貼り、記述を除去する編集も問題なんだけど、それは、出典を示す必要があることの説明が不十分だったり、記述する側の気分を害させてしまっていることが問題なんじゃないかなあと思っていたりもする。それは、運営やメンテナンス系を手伝ってくれている人達の一部で見られるもので、依頼系のページでも感じることなのだけれど。ウィキケット違反とか対話拒否とかでブロック対象というほうが、すんなり腑に落ちます。
Y tambe さんの修正案には賛成します。--Ks aka 98 2007年12月7日 (金) 17:23 (UTC)
んじゃ、「教条主義的に出典非記述部分の削除を行い、ノートでの対話に応じないやつは、ウィキケット違反ないし対話拒否で、ブロック対象としていい」ということについてはおっけー?(念のために確認)おれ的には、しょーもないケースについては、それで充分に問題解決ははかれると思うのだけど。--Nekosuki600 2007年12月7日 (金) 17:29 (UTC)
裁量でブロックしろと言われると躊躇するけど。方向としてはオッケーという意見です。--Ks aka 98 2007年12月7日 (金) 17:37 (UTC)
そんな過重な負担を、おれはかけようと思わないよ(=^_^;=)。その都度ブロック依頼を出すことくらいたいしてめんどくさくないし。いやあ、実はそういうわけで目前の脅威ってのがあってさ、それがなかなかかたづかないのがなぜなのだろうかと疑問に思っていたんだ。おそらくそういう教条主義的なやつって、実体は一人とは言わないがごく限られていると思うので、そこらへんをかたづけちゃえば問題はなくなると思うんだ。
そういうやつもなあ。せめてこう、いくつか評価するに足りる記事を書いておいてくれればいいのだが、たいてい全く記事を書いてないやつだったりするわけでな。というか、多少なりとも真面目に記事を書いたことがあれば、検証可能性がどのように微妙なものであるか、すぐにわかるだろうと思うんだけどね(書いてないから暴走できるんだろう、ということとほぼイコールで結ばれる感想)。
ンじゃ、もうちょっといろいろなひとの意見を聞いて、それからまとめにかかりましょう。--Nekosuki600 2007年12月7日 (金) 17:53 (UTC)

Nekosuki600さんの:

  • 全ての記述に出典を逐一記せというのは非現実的である。
  • ある程度までは「共通認識」として出典を記さないことを認めていいレベルがある。
  • 出典が記載されていないことを理由として記述を削除することについて見解対立があった場合には、合意形成をはかることが推奨される。

に同意します(とはいっても私の同意がそれほど権威を生むとは思いませんが)。

しかし、それはそれとして、二点思うところがあります。

一点目は、Y tambeさんのおっしゃっていることとはやや矛盾するのですが(Y tambeさんさんがNekosuki600さんのについておっしゃっている点は分かります)、やはり、これは「検証可能性」の問題なんじゃないかと思います。

Wikipedia:検証可能性では、検証可能性とは真実であることをいうのではない、ということが繰り返し強調されています。しかし、とくに「突き詰めていくと言語によるコミュニケーションの前提となる『共通の概念・基盤』を否定するような暴論だし」という部分にあらわれていると思うのですが、Nekosuki600さんのおっしゃっていることは、真実であることが容易に確認できるという意味での高い「検証可能性」を満たしているものには、ウィキペディア的「検証可能性」はいらない、ということではないでしょうか。

例えば、インターネットのプロトコルの説明をするのに「60+60=120なので、この場合は、120バイト先のデータを確認する必要がある」という記述がある場合に、「60+60=120」は出典がないから除去とかいうのは馬鹿馬鹿しいだろう(私は馬鹿馬鹿しいと思います)、ということをおっしゃられているように思えますが、間違っているでしょうか。

二点目は、Nekosuki600さんはノートでの合意形成を強調されていますが、もともと二三人が「これは常識だからウィキペディア的『検証可能性』はいらない」「いや常識ではない」とか言い争っていても水掛け論を脱することは困難で、そういうときに決着を付けたければ、やはり出典を出してもらうしかないのではないでしょうか。

それと違う、もう一つの決着の付けかたとして「じゃぁ、これ水掛け論ですから、お互い主張を整理して、コメント依頼出しましょう」ということをして、大勢の素人が「まぁ、これは出展なくてもいいよね」ということになれば出典はなくても良い、というようのがあって良いように思います。この、コミュニティが「常識だから、これにはウィキペディア的『検証可能性』はいらない」と認めれば出典はいらない、ということになれば、当事者同士もそれを前提に行動するので、紛争のありかた、除去の姿勢にも影響してくるのではないかと思います。--Mizusumashi 2007年12月7日 (金) 19:26 (UTC)

(区切りが分かりにくいのでインデントを付けますがMizusumashiさんへのコメントではありません)
初めに断っておくと、方針を盾に加筆する方向ではなく除去する方向ばかりに編集する利用者に対して何らかの歯止めが必要であるという点には全く異議ありません。
執筆時に出典を調査までしたのにそれを書かなくていいとは考えてほしくないです。猫好きさんは新河岸川の読みについてわざわざ出典を書く必要はないと考えたわけですが、実際に書いてみたら残してほしいという意見がそれなりにあったわけです。出典を知っているのに「わざわざ」省略はしてほしくないです。
  • 全ての記述に出典を逐一記せというのは非現実的である。
のはまったくその通りですが、ウィキペディアの記事は永遠に未完成であるということの1つの表れに過ぎないと思います。非現実的だからと言って目標を現実に合わせて妥協させてしまうのは話が逆ではないでしょうか。
実例を挙げないと意味がないと言われているので恥を忍んであえて私が最近執筆した記事を例に挙げると、これくらいは出典を付けましたが、私はこれでも出典が全然不足していると考えています。
「60+60=120」は出典がないから除去、についてはWikipedia:独自研究は載せないの「(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」に該当するでしょう。WP:KIDSに該当しそうな利用者の乏しい知識にまで合わせる必要はないということはすでに方針にも明記されているわけです。--emk 2007年12月8日 (土) 03:02 (UTC)
どちらかと言えば「削除廚」寄りの立場から、以下の通りコメントしたいと思います。
  • Y tambeさんの「出典の明記」と「検証可能性」を区別する考え方に賛同します。
  • Nekosuki600さんの「全ての記述に出典を逐一記せというのは非現実的である」、「ある程度までは「共通認識」として出典を記さないことを認めていいレベルがある」については、「出典の明記」のことをおっしゃっているのであれば、同意です。ちなみに、現行の英語版ルールでは“Material challenged or likely to be challenged, and all quotations, must be attributed to a reliable, published source.”という表現になっており、日本語版でも同様の内容を取り込むべきではないかと思います。
  • ただし、記事の中の全ての情報は「信頼できる情報源」に基づいているべきだという基本ルールは、妥協の余地がないものだと思います。たとえ「共通認識」であっても、記事に書く際には、「信頼できる情報源」を再度参照・確認した上で書くべきでしょう。
  • 問題は、「共通認識」と判断して出典の表示を省略した情報について、異議を唱える人が出てきたときでしょう。異議を唱える人が「出典なし」としてその情報を除去してしまったときにどうするかです。Nekosuki600さんは、そういうのは「削除厨」扱いしてしまえというご意見のようですが、私としては、少なくとも最初のところでは善意にとって対応すべきだと思います。「削除厨」さんはルールに従って出典を要求しているのですから、素直に出典(情報源)を出してやるのが一番簡単で確実な対処(撃退)方法になるはずです。(そうしてくれれば、「削除廚」さんにも名誉ある撤退のチャンスがあるわけです。ちなみに、出典の出し方としては、「共通認識」の出典を記事中に記載するのは不適切でしょうから、出典はノートで出してやればよいと思います)。
  • 「共通認識」についての出典を出すことが困難だというのは、納得できません。思い込みで書いたのでない限り、その情報を加筆するときに参照した「情報源」があるはずです。また、本当に誰でも知っている「共通認識」であるなら(例えばNekosuki600さんが上で挙げていらっしゃる例のような場合は)、「どれでもいいから地図帳を調べれば、すぐに確認できる」「手近にある辞書を引いてみろ」のような言い方でも良いかもしれません。
  • 要するに「一応の出典を出す」と言うワンステップを踏むことが決定的に重要だと私は思います。取り敢えず(例え不完全かもしれなくても)一応の出典(情報源)の提示がなされさえすれば、その時点で「出典のない情報」ではなくなります。仮に「削除厨」さん「おれは適正な出典とは認めない」と主張したとしても、それで「出典のない情報」になるわけではなく、「適正な出典があるかどうかについて争いがある情報」になるに過ぎません。そういう「争いがある情報」についてコンセンサスなしに除去を強行するのは、場合によっては「荒らし」になるでしょう。--Dwy 2007年12月8日 (土) 05:04 (UTC)

Y tambeさんの提案に異議無いです。--おーた 2007年12月11日 (火) 14:00 (UTC)

時期がずれましたが、私もY tambeさんの提案に賛成します。--みっち 2008年1月28日 (月) 09:28 (UTC)
Wikipedia:コメント依頼/紅美鈴が参考になるかと思われますので御報告申し上げます。ガイドラインを盾にとってあちこちで非生産的なタグ貼りを繰り返してトラブルを発生させるユーザーの事例として。--Kliment A.K. 2008年4月16日 (水) 23:27 (UTC)
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