Wikipedia‐ノート:検証可能性/存命人物の記事におけるGENREF方式の是非
最新のコメント:12 年前 | トピック:存命人物記事(BLP)の検証可能性を満たすための共通理解 | 投稿者:Bugandhoney
このページは過去の議論を保存している過去ログページです。編集しないでください。新たな議論や話題は、Wikipedia‐ノート:検証可能性で行ってください。 |
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Archive05(2007-10~)(打ち切り - 出典無き記述の除去 - 「存命人物の伝記」の問題とのすり替わり - 秀逸な記事への要出典タグ - 「出典不明示は削除」は万能な規定ではないことの確認) - Archive06(2007-12~) - Archive07(2008-08~) - Archive08(2008-12~) -
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Archive10(2011-01~)(本方針を根拠とする記事の白紙化について - 存命人物の記事におけるGENREF方式の是非) - Archive11(2016-02~)<(無出典記述の扱いの説明について - 目撃・伝聞情報) - Archive12(2018-03~) (edit)
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存命人物記事(BLP)の検証可能性を満たすための共通理解
編集- コメント 少しWikipediaから離れているうちにいろいろあったようですね。外部リンクに含まれている公式サイト類(ブログを含む)が出典として認められないというのが多数意見なのかもしれませんが、そんな形式ばったことがWikipedia利用者の多数意見であれば、少なくとも私が中心となって関わっている記事には、参考文献節に公式サイト類への外部リンクを置いておこうと思います。少なくともそうしておけば、過度に自身を美化した記述でなく、逆に、批判的な記述でもない、主にデータ的な基本情報に対してはWP:GENREF方式での出典を満たすはずです。外部リンク節と重複して外部リンクを置くことになりますが、仕方がありません。そして、それ以外の記述について除去すべきと考える人が除去するのは、まあ存命人物ということを考えればありではないかと感じます。ただ、その状況で、参考文献節に挙げられた公式サイト類を見ずに全白紙化する人はいないと信じます。
過去のある議論を見て思うに、出典とは何か、検証可能性を満たすとは何か、存命人物記事に対するWP:GENREF方式での出典を認めるか、そういったあたりの共通認識なしに≪出典のないまま≫≪存命中の人物で出典の無い記事≫といっても、思い描くものが利用者の間で異なるように思います。--NISYAN(会話) 2012年8月26日 (日) 17:01 (UTC)
BLPではGENREF形式は認められないか
編集- 英語版はGENREFはBLPではだめってなってるんですよ。それ以外にも、(他人の)自己公表物も絶対だめとか。BLPの出典は他の記事よりも厳しめにするというのはおそらく多くの人が賛同するのではないでしょうか。ですから、そういうテクニカルな方法で出典のない状態を避けようとするのは止めた方がよいのでは。--Bugandhoney(会話) 2012年8月29日 (水) 22:28 (UTC)
- コメント ≪英語版はGENREFはBLPではだめ≫ってあたりは、日本語版に取り入れていくのがいいと思います。≪存命人物記事に対するWP:GENREF方式での出典を認めるか≫というところが日本語版利用者間でNGという共通認識となれば(*1)、私も≪テクニカルな方法で出典のない状態を避けよう≫などと考えません。もっとも、そもそもテクニカルなどとは思っていませんでした。美化したものでも批判的なものでもない、データ的な記述について、公式サイト、とくにプロフィール欄で確認できることを出典がないと判断するのが妥当とは私は考えていませんでした。もちろん、公式サイトにも記載されていないような疑わしきことにはWP:INCITE形式の出典が必要と思っています(参考発言)し、データ的な記述であっても、例えば本名や生年月日や国籍出身などという、しばしばB-2案件と判断されるようなものについて公式サイトのプロフィールで確認できないというなら、除去ないしは削除されるべきであろうとも思っています。
要は土俵となる認識合わせもせずにその先の話を進めていく、さらには話だけでなく白紙化などの対応にまで進めていく、というのは、手順前後かなと考えているというところです。
ただ、≪英語版はGENREFはBLPではだめ≫ってのは(成文化されていなくてもいいので、議論内容でもいいので)ポインタをお教えいただけるとありがたいです。私の関わったことのある日本語版人物記事のen版、例えば「en:Billy Cobham」「en:Karen Carpenter」「en:Tiger Onitsuka」「en:Arrigo Sacchi」などを見るに、データ的な記述について、INCITE形式の出典が付いているようには見えませんし、出典がないことに対して出典を求める動きも見られませんでした。ノートに貼り付けられているテンプレートに≪Contentious material about living persons that is unsourced or poorly sourced must be removed immediately from the article and its talk page, especially if potentially libellous.≫と書いてあるくらいで、じゃあINCITE形式の出典を付けようという動きはなさそうに思います。これが「INCITE形式の出典を付与するという編集が追いついていない」だけなのか「公式サイトリンク貼ってあって、GENREF形式の出典を満たす」と判断されているのどうかはちょっと判りませんでした(Wikipediaに掛けることのできる時間があまり取れていないので、調べられずにいます)。できれば情報をいただければありがたいです。
*1:今のところ、ここでの議論参加者の意見などから、感覚的に共通認識かもしれないというレベルであって、明確な共通認識があるというレベルではない、と私は判断しています。それも、≪美化したものでも批判的なものでもない、データ的な記述≫ですら、という前提を含めて考えると、今のところ共通認識があるかどうかは疑わしいです。その意味で≪共通認識となれば≫と書いています。--NISYAN(会話) 2012年8月29日 (水) 23:58 (UTC)- コメント「英語版はGENREFはBLPではだめ」って英語版にそんなルールないですよen:Wikipedia:MINREF#When_you_must_use_inline_citations。"When a reliable source is required"、「信頼性のあるソースを要求されるとき」の節にあるように"Anything challenged or likely to be challenged"「疑問が呈されたか、疑問が呈されそうな」場合、inline citationを使って出典を示さないとならない。プラス、ソースなし(または貧弱なソースしかない)contentious material「論議をよぶ題材」は議論なしに即座の除去が可能というルールがあるだけですen:Wikipedia:Biographies of living persons#Reliable sources。検証可能性を満たすにはGENREFでもINCITEでもどちらでもOKですよ。--Afaz(会話) 2012年8月30日 (木) 00:44 (UTC)
- コメント 情報ありがとうございます。そうであれば、そして、外部リンク節で示される情報は(GENREF形式の)出典足り得ないという認識の利用者さんが依然として一定数以上いらっしゃるなら、先に書いたように、GENREF形式の出典であることを明示するために、参考文献節に公式サイト類への外部リンクを置いておこうと思います。白紙化までいかないものの、公式サイトのプロフィールなどを見もせずに編集除去されたらたまりませんので。
書籍の裏表紙などで見られる著者プロフィールはGENREF形式の出典としてOK、公式サイト類のプロフィールはGENREF形式の出典としてNG、などと考える人はいないと信じたいところですが、テクニカルと判断する人もいるとなるとちょっと不安です。テクニカルとおっしゃった方は、著書を参考文献節に置いて、その著書(のうちデータ的な、プロフィールなどの情報)に基づいて記述することすら、テクニカルだと考えているのでしょうか。--NISYAN(会話) 2012年8月31日 (金) 16:10 (UTC) - コメント日本語版のことはいざ知らず、少なくとも英語版のen:Wikipedia:Verifiabilityではinline citationが要求されています。Afazさんが引用されている「『疑問が呈されたか、疑問が呈されそうな』場合、inline citationを使って出典を示さないとならない」というのが、正に英語版の検証可能性のルールです(英語版方針ページの一番上にある「このページの要約」(This page in a nutshell)も、そのような記述になっています)。
- また、BLPで問題にしている「存命人物にかかわる議論を呼ぶ可能性がある題材」についてGENEREF方式でなくinline citationが要求されることも、Afazさんが引用されているen:Wikipedia:MINREF#When_you_must_use_inline_citationsに明確に書いてあります。
- 実際に記述の元になった「信頼できる情報源」をチェックして記事の記述を「検証」しようとする人の立場から言えば、GENEREF方式は非常に不親切なやり方と言わざるを得ません。公式サイトのプロフィールを見てほしいなら、どこを見れば良いか分かるようにちゃんと書くべきです(手元にある資料を見て該当ページ等を記載するだけですから、全然手間ではないはずです)。GENEREF方式というのは、結局「参考文献に挙がっている資料を全部読めば分かる」ということです。そんなのでは手間がかかりすぎて、満足に「検証」できません。--Dwy(会話) 2012年9月1日 (土) 00:44 (UTC)
- コメント「疑問が呈されたか、疑問が呈されそうな場合」にINCITE形式が必要、しかし中立的な題材で「疑問が呈されそうにない場合」はその限りではない、ですね。GENREF形式の完全禁止はどこからも読み取れません。日本語版では「疑問が呈されたか、疑問が呈されそうな場合」という但し書きがどこにもないので、なんでもかんでもINCITE形式という曲解もできるのがダメですね。今回の場合は検証可能性を満たすかどうかですので、検証容易性については別問題です。不親切でも「検証可能性」は満たします。と、ここまで書いて気づいたのですが、GENEREF方式はINCITE形式と相容れないものと考えていらっしゃるのでしょうか。両方使っていいんです。英語版ではShortened footnotes (参考:利用者:Afaz/略記脚注法)という出典の示し方があって、混合表記が可能です。--Afaz(会話) 2012年9月1日 (土) 05:06 (UTC)
- コメント 「疑問が呈されたか、疑問が呈されそうな」記述の題材にINCITE形式が必要と私が考えていることは、既に≪公式サイトにも記載されていないような疑わしきことにはINCITE形式の出典が必要と思っています≫という表現で説明済みです。そして、それらにINCITE形式の出典がないから編集除去するということにも納得しています。
この節の節名にも含まれている≪白紙化≫とは全記述の編集除去ですが、全ての記述の題材、ここで主に挙げたいのは何度も書いている≪美化したものでも批判的なものでもない、データ的な記述≫という種類の題材について、事前に(=執筆時点で)≪疑問が呈されそう≫≪存命人物にかかわる議論を呼ぶ可能性がある題材≫と予見できるかどうかという話に行き着くと思っています。私は、公式サイトにありがちなデータ的情報、例えばプロフィールなどが記事内に記載されている場合について、≪疑問が呈されそう≫≪存命人物にかかわる議論を呼ぶ可能性がある題材≫とは執筆者は予見できないと考えています。(外部リンク節にあるかどうかは別にして)公式サイトが記事内で示されていて、対象読者に分別ある大人を想定する限り、プロフィール情報(生年月日など)は著書のプロフィール欄や公式サイトのプロフィールページにある程度記載されているだろうと読者が判断するものと思っています。別な言い方をすれば、プロフィール情報について、参考文献(公式サイト含む)を全部読み漁らないと検証できないと考える、著書のプロフィール欄やプロフィールページに書いていると予想できない読者など、私から考えればそもそも想定読者外です。そのような、どこに書かれているかを読者が容易に予想できる題材について、≪議論を呼ぶ可能性がある題材≫とは私には予見できません。
プロフィールページなどでは確認できない、ブログの何月何日にちょこっとプロフィールに類する情報が書いてあって、それを記事に記載しているというなら、それは容易には確認できないから≪手間がかかりすぎて、満足に「検証」できません≫という言い分も判りますし、おそらくINCITE形式の出典を必要とする題材だと思いますが、そんな題材ばかりを想定して話をしているつもりはありません。ここでの議論の主題は≪白紙化≫だと思うので、大多数がINCITE形式の出典が望ましい(INCITE形式必須か、GENREF形式でもいいがINCITE形式がよりよいか、というのは抜きにして)と考えるだろう≪疑問が呈されたか、疑問が呈されそうな≫題材について議論を深めることに、あまり意味はないと考えます。それよりは≪疑問が呈されそうにない≫題材の処遇、これに対してGENREF形式の出典で良いか、これを出典なしとして除去することが妥当か、という点に焦点を当てるべきと考えます。だから何度も≪美化したものでも批判的なものでもない、データ的な記述≫と書いています。そのような題材に対してもen版ではINCITE形式の出典を求めているのであれば、その旨の情報をお教えいただきたいです。それが不要で、GENREF形式の出典でいいということであり、しかし外部リンク節では出典足り得ないという利用者さんが一定数以上いらっしゃるなら(以降は何度も書いていることなので割愛)、という話です。--NISYAN(会話) 2012年9月1日 (土) 15:59 (UTC) 誤記訂正、間違いの内容が明白なのでins/del省略--NISYAN(会話) 2012年9月1日 (土) 20:45 (UTC)- 疑問が呈されそうにない情報の取り扱い(出典をつけなくても良いかどうか)については、5年くらい前にWikipedia‐ノート:検証可能性/「出典不明示は削除」は万能な規定ではないことの確認で議論がありました。私の基本的な考え方は、あの時の発言から変わっていません。
- いずれにしろ、ここで議論しているのは、Vigorous actionさんによって「疑問が呈された」記述についてです。その点、上のNISYANさんの発言は、問題認識に少しずれがあるように思います。
- 記事に全く出典の表示がない場合(=つまり、これまでの執筆者のなかにウィキペディアの基本方針を理解・実践しようする者が一人もいなかったことが明らかである場合)に、「この記事の情報は本当に大丈夫なのだろうか」という疑問を呈することが、それほどおかしなことだと私は思いません。何でもかんでも疑う態度が推奨されるとは決して思いませんが、たまにそういう疑問を呈してみることが「あらし」扱いされなければならないほど間違ったことではないはずです。
- 公式サイトのプロフィールを見ればすぐに確認できるというのなら、そう思う人がそのように説明した上で当該部分の情報だけを復帰させればよいのです。(もっとも、Wikipediaは百科事典であって人名録・紳士録ではないのだから、そういう情報だけで記事を成立させることはできませんけどね…)。疑問を呈した人を荒らし扱いするのはWikipedia:善意にとるの精神に反していますし、出典が必要な部分もまとめて全部復帰してしまうのは、明らかにWikipedia:検証可能性の趣旨にもとる行為です。--Dwy(会話) 2012年9月2日 (日) 06:57 (UTC)
- コメントVigorous actionの行為を「疑問を呈した」ととるのはどうかな。彼は出典がないから単純に白紙化しただけで、ひとつひとつ吟味して疑問を呈したわけじゃない。「疑問を呈する」にはそれ相当の根拠がいるし、何から何まで「疑問を呈する」ってはっきり言ってありえない。--Afaz(会話) 2012年9月2日 (日) 10:15 (UTC)
- 疑問を呈するのに根拠は要りません。素人であるウィキペディアの編集者同士が根拠云々を議論しはじめるると収拾がつかなくなるから、「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」というルールになっているのです。また、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」と言っているのも、「情報源が明示されていない記述を除去する側に根拠を求めるな」という趣旨です。--Dwy(会話) 2012年9月2日 (日) 11:29 (UTC)
- 気軽に無根拠に疑問を呈することは、まあ、ありえない。そんな利用者は早晩ブロックされるだろうね。白紙化ってことは「誰それは女優」とかいう最初の記述にすら疑問を呈しているということなんだが、そうであれば、白紙化などせずに特筆性なし、あるいは捏造記事として普通は削除依頼だろう。そうじゃないかな。--Afaz(会話) 2012年9月2日 (日) 12:05 (UTC)
- 「疑問を呈するのに根拠は要りません」は、ちょっと言い方がまずかったですね。言いたかったのは、出典が明示されていないというだけで信頼性を疑う根拠としては充分であり、それ以上の根拠は要らないということです。どこの誰とも知らないウィキペディアの編集者による、どんな資料に基づいて書いたのかもわからない記述に、百科事典の記事に要求される信頼性があると言えるのか?「質においても…史上最高の百科事典を目指して」[1]をまじめに受け取るならば、そういう記述に対して疑問を呈するのはごく当然のことだと思います。--Dwy(会話) 2012年9月4日 (火) 19:55 (UTC)
- 気軽に無根拠に疑問を呈することは、まあ、ありえない。そんな利用者は早晩ブロックされるだろうね。白紙化ってことは「誰それは女優」とかいう最初の記述にすら疑問を呈しているということなんだが、そうであれば、白紙化などせずに特筆性なし、あるいは捏造記事として普通は削除依頼だろう。そうじゃないかな。--Afaz(会話) 2012年9月2日 (日) 12:05 (UTC)
- 疑問を呈するのに根拠は要りません。素人であるウィキペディアの編集者同士が根拠云々を議論しはじめるると収拾がつかなくなるから、「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」というルールになっているのです。また、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」と言っているのも、「情報源が明示されていない記述を除去する側に根拠を求めるな」という趣旨です。--Dwy(会話) 2012年9月2日 (日) 11:29 (UTC)
- ≪疑問が呈されそうにない情報の取り扱い(出典をつけなくても良いかどうか)≫と書かれていますが、私は≪疑問が呈されそうにない情報の取り扱い≫に対して≪出典をつけなくても良い≫などと言ったつもりはありません。個人的にはGENREF形式の出典で構わないのではないかとは思っていますし、そう言ったつもりはありますが、その発言を「出典をつけなくても良い」という意味だと判断しているなら、それは誤解です。
≪当該部分の情報だけを復帰≫というのは、その前段の編集除去あるいは白紙化が正当という前提に立ったものです。そして、ここまで書いた前提において、私は≪当該部分の情報だけを復帰≫に類することしか言っているつもりはありません。公式サイトで容易に確認できないようなことを、INCITE形式の出典なしに復帰するのは妥当でない、と私が考えていると推測できるだけのコメントを残しているつもりです。念のために書いておきますが、白紙化の差し戻しに対する意見も、その前段の白紙化の正当性に対する意見も、ここまで言っていないつもりですので、誤解のないように。
根拠なく疑問を呈することの妥当性について話し合うのは面倒ですから、そこは飛ばそうと思います。ですが、誤解しているであろう部分について説明しておきます。≪ここで議論しているのは、Vigorous actionさんによって「疑問が呈された」記述についてです≫とありますが、私は当初から次のところに書いている自己防衛策としての観点、将来起こりうる白紙化への事前対策という観点で書いています。当初から≪Vigorous actionさんによって「疑問が呈された」記述について≫を話しているつもりはありません。ですから、私の書いている話は、他者から疑問が呈される前の話です。私が話をしている範囲を誤解しているのはDwyさんではないでしょうか。
そして、≪ここで議論しているのは、Vigorous actionさんによって「疑問が呈された」記述についてです≫とありますが、ここで話し合われている内容の中には、Vigorous actionさんが白紙化した特定記事以外の、まだ白紙化されていない記事に対する一般論としての白紙化の話をしている人は全くいないのでしょうか?白紙化という行為自体に対する話をしている人がいるように思えますが、それも「疑問が呈された」記述についての話ではないと、私は見ています。≪ここで議論しているのは、Vigorous actionさんによって「疑問が呈された」記述についてです≫と議論内容を狭く絞って、それによって誤解しているのはDwyさんではないでしょうか。
さて、根拠なく疑問を呈することが妥当かどうかはさておき、そういう行為をする人が現れ、それに基づいて根拠あってかどうかはいざ知らず、無出典を理由に編集除去あるいは白紙化されるということが現実に起こっているわけです。それが我が身に降りかかるのは嫌だから、自衛策として、私が関わった人物記事についてはGENREF形式の出典として公式サイトを追加します、と言っているわけです。過去には外部リンク節に公式サイトが書かれていたら充分だと私は判断していたわけですが、どうもそういうわけではなさそうですので、GENREF形式の出典であることを(言い方悪いかもしれませんが、先回りで)明示しようと思います。GENREF形式の出典を満たしている形になっている記述を、根拠なく疑問を呈する人など現れないと思っていますし。容易に検証できないという根拠を掲げて疑問を呈する人が現れたなら、本当に容易に検証できないのかを考えて個別に対応しようと思います。
少し書いておくと、GENREF形式の出典を満たしている形になっている記述すらも根拠なく疑問を呈することが可能なら、そこに付ける出典はINCITE形式である必要がありますから、その時点で、GENREF形式でもよいという言葉は空文に過ぎなくなります。そして、先に出典付与するか、指摘されてから出典付与するかで、INCITE必須かGENREF容認かが変わるというのでは、感覚的に、ルールあるいはルール解釈がおかしいのではないかと思います。まあ、他の多数の利用者さんが疑問を感じないなら仕方がありませんので、私の活動範囲で面倒ごとが起きないように事前に対策を講じるに留めようと思います。--NISYAN(会話) 2012年9月3日 (月) 15:50 (UTC) Vigorous actionさんの白紙化が無根拠によるものと誤解を与えそうになっていた記述を修正 --NISYAN(会話) 2012年9月3日 (月) 16:00 (UTC)- NISYANさんにとってはどこに情報源があるのか自明であっても、他の人が必ずそれに気が付くとは限りません。情報源の所在に気が付かない人が記述の信頼性に疑問を呈してくることがあっても、それは仕方がないことです。例えば、en:Wikipedia:Citing sourcesでは、次のように言っています。
- Wikipedia's Verifiability policy requires inline citations for any material challenged or likely to be challenged, and for all quotations, anywhere in article space. However, editors are advised to provide citations for all material added to Wikipedia; any detail risks being unexpectedly challenged or even eventually removed.
- (試訳)ウィキペディアの「検証可能性」の方針は、記事スペース中の全ての疑問が呈されたか、疑問が呈されそうな題材、および全ての引用について、INCITE形式での出典表示を要求しています。しかし、編集者はウィキペディアに加筆される全ての題材について出典表示を行うことが推奨されています。どんな些細な情報も、思いがけない疑問を呈される危険があり、最終的には除去されてしまう危険さえあるからです。
- 「容易に検証できないという根拠を掲げて疑問を呈する人が現れたなら、本当に容易に検証できないのかを考えて個別に対応しようと思います」は結構ですが、NISYANさんんにとって容易であっても他の人には容易でないことがありうることに留意し、善意にとる事を忘れないでいただきたいと思います。--Dwy(会話) 2012年9月4日 (火) 19:55 (UTC)
- コメント もう一度同じことを表現を変えて言いますが、その解釈が正しいのであれば、GENREF形式の出典を許容する旨のルールなど空文に過ぎません。それであれば、目指すべきはINCITE形式の出典必須、最低限INCITE形式の出典推奨だと思います。そのほうがWikipedia参加者全体コストの軽減だと思います(執筆時のコストだけでなく、ここでの議論に参加するコストなどトータル含めての話です)。
考えていただきたいのですが、執筆者がGEENREF形式の出典で構わないと判断した記述があり、仮に5年間は疑問が呈されていなかったとして、(外部サイトであればリンク切れ、書籍類であれば売り払った、主となる執筆者がWikipediaから離れて当該加筆者がいなくなり、次の執筆者は前の執筆者ほどは情報源を持っていない、などのいろいろな状況の複合を理由として)手元に出典となる情報源がなくなって、GENREF形式の出典がどの記述を担保できるかを議論前から知っている人がいなくなった/議論が始まったら「ここ、ここ」と直ぐに思い出せる人あるいは情報源がなくなったら、そして情報源との対比に対して誰かが指摘したら、それをINCITE形式の出典に置き換えていかなければいけない。それは、最初からINCITE形式の出典を付与するよりも明かに高コストと私は判断します。それなのにあたかもGENREF形式の出典でも構わないかのように解釈できる現状のルールが不適切だと。それなら最低限、INCITE形式の出典を推奨する旨のルール、存命人物記事については必須だとする旨のルール、これらをどこかに明文化するほうがいいでしょう。それをしないで解釈の幅を持たせていることでこのような議論を続けるのは、コストの掛け方が間違っている、は言い過ぎにしても、コストの掛け方が下手だと思います。
ここまで書いている内容は、執筆者さんがGENREF形式の出典があると思って執筆している記述、どんなにすぐさま見つかると判断している記述に対してすら、仮に愉快犯的にであっても、出典が参考文献類に見当たらないと指摘してくる利用者さんが現れたら「疑問が呈された」と扱うべきであって、INCITE形式の出典で対応しなければいけない、という解釈に基づくものです。私は疑問に感じますが、先に書いたように≪他の多数の利用者さんが疑問を感じない≫のかどうかを聞きたいものです。Dwyさんの解釈だけでなく、大多数がどのように解釈しているかということを。
私はGENREF形式の出典があれば充分という判断から、参考文献節に公式サイト類のリンクを置く旨を書いています。その前段となるGENREF形式の出典への許容の可否を詰めるべきではないでしょうか。初回のコメントに書いたことの繰り返しですが、≪出典とは何か、検証可能性を満たすとは何か、存命人物記事に対するGENREF方式での出典を認めるか、そういったあたりの共通認識なしに≫その先の話をしても、余分なコストを掛けるだけと感じます。それには(私の発言以降にその論点に対してコメントのあるDwyさん、Afazさんだけでなく)(Bugandhoneyさんはその論点に対するコメントは今のところないと私は見なしています)他の利用者さんの、GENREF形式の出典に対する認識をお聞きしたいものです。--NISYAN(会話) 2012年9月4日 (火) 23:02 (UTC) - 補足。≪目指すべきはINCITE形式の出典必須、最低限INCITE形式の出典推奨≫とは、例えば「WP:GENREF」で示されるショートカット先の「Wikipedia:出典を明記する」などへの、GENREFは推奨されていない、あるいはGENREFは存命人物記事に対して認められていない旨の明記という意味です。場所場所によってGENREF形式が(他者からの「疑問が呈された」という場面も考慮した上で)認められているかのような解釈の幅をなくすための改訂、という意味です。「既に書いてあるじゃないか」というコメントが入る前に、「場所によってはそんなこと書いてない」という旨を補足しておきます。
「Wikipedia:出典を明記する」に書いてあるのは≪多くの人が編集するウィキペディアでは、本文中に注釈を入れる方式が推奨されています≫までです。前記解釈の多数意見次第では≪多くの人が編集するウィキペディアでは≫などという前置き文など不要でしょうし、存命人物記事に対する注記の必要もあるでしょう。直前の文章には≪本文中の注釈は正確性に優れ、末尾での一覧は参考文献の閲覧に便利≫とありますが、前記解釈の多数意見次第ではぬるい書き方と言えます。Wikipediaが出典の正確性を目指すなら、そんなぬるい書き方では解釈のぶれが起こるのも当然の話です。そういった意味での話です。その前段として、GENREF形式の出典に対する共通認識をお聞きしたいという意味です。--NISYAN(会話) 2012年9月4日 (火) 23:21 (UTC)- コメント仮にGENREF形式の出典が認められないとしたら、検証可能性を満たすには一行一行出典を示していかないとならないね。それは記事の可読性を著しく劣化させるし、一つの出典、例えば公式サイトのプロフィールページを読めば載ってあることをひとつひとつINCITEで示すのは手間がかかるし、冗長すぎる。もちろん論議を呼ぶ題材なら、その手間をかけるべきだろうけど。それにGENREF形式とINCITE形式を複合させた略記脚注法(SFN)も使えなくなるのは困るね。--Afaz(会話) 2012年9月5日 (水) 06:02 (UTC)
- コメント そこは単純に程度問題ですね。BLPに限らず、5行や10行の記事で、参考文献が薄い文献1-2冊の場合は検証困難または不可能とまでは言えません。ですが数十キロバイトの記事で分厚い文献が数冊、十数冊、となりますと、対応関係は把握不可能と申し上げてよく、出典が明記されているとはちょっと見なせないでしょう。そう言った程度問題のお話であれば、段落ごとや節ごとの出典提示も許容されるものではあるはずです。加えて申し上げれば、現段階ではGeneralでよかろうと見なせる記事でも将来的に記事の規模が拡大する可能性がある題材の場合はその時に不都合が発生するかたちになる訳で、やはり事情を説明した上で「推奨」としておくべきものでしょうね。また、存命人物の個人情報に該当するものについては一般論より更に踏み込んで、できるだけ細かく付ける方向に舵を取るべきでしょう。--Hman(会話) 2012年9月5日 (水) 07:58 (UTC)
- コメント 口を挟んで申し訳ないのですが、気になるので。容易・困難という相対的な表現と可能性の有無という絶対的な表現を混同していることが、議論がかみ合わない要因の一つになっていると考えます。方針議論なのですから言葉は厳密に使っていただけませんか。困難と不可能とは異なるもので、Hmanさんがおっしゃるような事例は検証困難の度合いが大きいとはいえるかもしれませんが、だから不可能といってよいことにはなりません。手当たり次第に見ていったとして、運良く1冊目でヒットするかもしれないし、20冊目でヒットするかもしれないが、そのどれかに該当する記載がある限り検証は「可能」でしょう。なお、項目に直接関連する文献やある程度の知識があれば、どれのどこに書いてあるかだいたい見当が付く場合もあるので、「困難性」とて一概にはいえません。ではなにが「検証不可能」かというと、挙げられた出典が錯誤や虚偽の場合です。これは本文だろうが脚注だろうが「参考文献」だろうが、挙げた出典に当の記載がなければ見つけようがない。要するに、限定範囲の広い狭いの差はあっても、出典提示方法によって可能が不可能になったりその逆になったりはしないということです。--みっち(会話) 2012年9月7日 (金) 11:12 (UTC)
- コメント 「少し見れば見つかる情報ならGENREFでいいじゃないか」という私の立場から説明するのは何ですが、こうかもしれないと思っていることを。
意見相違がある点の根底は≪明示≫という言葉、砕いて言えば「明かに示す」ということの「あきらかさ」なのかなと思っていました。「Wikipedia:検証可能性」には≪出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます≫という文章が含まれています。これを字義的に解釈する人、あるいは記述除去を強く推し進めたいと考える人にとっては、出典が「明かに示されて」いない場合、言い換えるなら出典が示されていることを検証することが困難な場合に、取り除いても構わないと判断しているのではないでしょうか。
実際私も、公式プロフィールになく、ある1日のブログの片隅だけに書いてあるようなことを公式サイトリンクによってGENREF形式で示されていると主張されたとしても、題材次第では「明かに示されて」いるとは言い難いと思っていますし、そのような題材はINCITE形式で示されるべきと考えています。だから、そのような記述に対して出典が明示されていないと疑問を呈して除去することはありだと思っています。「検証可能」であっても≪検証困難の度合いが大きい≫なら。
ただ、「プロフィール情報に対してGENREF出典が示されていると(善意に)判断するなら、著書のプロフィール欄や公式サイトのプロフィールページだろう」という見当を付けられない人が、その見当を付けられないことを棚に上げて「参考文献を全部読まなきゃダメだから≪検証困難の度合いが大きい≫」「だから明示されているとは言い難い」「だから除去可能なのだ」と主張するなら、除去する題材によっては、ルールの悪用とも言えると感じています。--NISYAN(会話) 2012年9月7日 (金) 16:13 (UTC)- 「ルールの悪用」と言いたくなる気持ちは分からなくもないですが、いきなりそういう非難をすると無駄な喧嘩になってしまいますから、まずは礼儀正しい議論によって「少し見れば見つかる」ことを相手に納得してもらうことが必要になるでしょう(そのためには、結局「ここを探せ」と情報の所在を示してやるしかないような気がします)。その手順をすっ飛ばして、いきなり「ルールの悪用」と言ってしまうのは(NISYANさんがそういうことをなさるとは思いませんが、もしそういうことをする人がいれば)、「白紙化」以上に乱暴なやり方だと思います。--Dwy(会話) 2012年9月8日 (土) 15:49 (UTC)
- コメント いきなりそんな非難をすることはありませんし、いきなり「ルールの悪用」というつもりはありません。仮にそう感じたとしても。相手に「礼儀正しい議論」から始めるように問いかけるところから始めます。そんなごく当たり前のことをここ「Wikipedia‐ノート:検証可能性」で話をする必要はないはずなのですが。
で、今回問題とされたケースでは、いきなり白紙化するのではなく、「礼儀正しい議論」から始めるような行動をとったのでしょうか。その手順をすっ飛ばしてないというのでしょうか。乱暴なやり方ではないのでしょうか。自身が感じることを相手に納得してもらう行動から始めたというのでしょうか。
まあ行動の妥当性はこのサブ節(BLPではGENREF形式は認められないか)の本題ではないので、その点について話を膨らませるなら、別の節にでもしていただければと思います。みっちさん提示の論点についてDwyさんがどのように考えているか、このサブ節の本題についての考えをコメントしていただきたいものです。本題についてコメントした上で少し脱線というならともかく、本題へのコメントもなく脱線コメントだけをするのは、避けていただきたく存じます。私が≪「少し見れば見つかる情報ならGENREFでいいじゃないか」という私の立場≫と書いたように、みっちさん提示の論点への説明は、どちらかといえばGENREFではなくINCITEを強く推す立場の方が説明するのが妥当だと思います。--NISYAN(会話) 2012年9月8日 (土) 21:55 (UTC)- Vigorous Actionさんの白紙化が多少唐突だったとしても、善意にとって「礼儀正しい議論」から始めていれば、今頃は、個別の出典表示が必要でないと合意された記述は復帰され、どの記述にINCITE方式の出典が必要かも合意ができて、問題は解決、記事の質も向上、万事めでたしめでたしで終わっていたはずです。でも実際には、いきなり「ルールの悪用」という非難から始まって[2]、こちらでの議論でもその非難に賛同する方が結構いらっしゃる。私の視点から見れば、「そんなごく当たり前のこと」がちゃんとできない日本語版ウィキペディアの現状こそが本件の核心であり、それが皆さんにとって「脱線」にしか見えないとすれば、何度でもその点を説明して分かってもらわなければならないと思うのです。--Dwy(会話) 2012年9月9日 (日) 04:18 (UTC)
- コメント 誤解しているように思う一点だけ説明します。この議論は前節「本方針を根拠とする、記事の白紙化について」から派生して発生した、「BLPではGENREF形式は認められないか」という議題について話し合う場所です。(節分けをしたのは私ではありませんが、)私は元より、過去に発生した白紙化や差し戻し、およびそれらの行為に対する非難についてのコメントを意図的に避け、「BLPではGENREF形式は認められないか」という議題に集中するようにしてきたつもりです。Dwyさんが脱線ではなく核心と思っている事柄を説明する上で用いた≪本件≫とは、白紙化や差し戻しという行為を中心とした話のことですよね?それであれば、それは本節の議題ではなく、前節「本方針を根拠とする、記事の白紙化について」の議題です。話し合う場所が違うから脱線と言っているのです。別段私は、Dwyさんが核心だと思っていることを前節で話し合うことを否定しているわけではありません。本節で、本節に関係のないことだけを話すのをやめてくださいと言っているだけです。「2012年9月8日 (土) 15:49 (UTC) 」の発言のどこに、本節「BLPではGENREF形式は認められないか」に直接関係のある内容が含まれているのでしょう?そういうことを言っています。
もちろん、両節は密接な関係にありますから、本節をメインに前節を少し話すとかはあってもいいでしょう。Ks aka 98さんのように、両方織り交ぜつつ(半々以上で本節に直接関係のあることを話す)なら、別に本節で構いません。しかし、前節に関することだけを話すなら、前節でお願いします。--NISYAN(会話) 2012年9月9日 (日) 16:08 (UTC)
- コメント 誤解しているように思う一点だけ説明します。この議論は前節「本方針を根拠とする、記事の白紙化について」から派生して発生した、「BLPではGENREF形式は認められないか」という議題について話し合う場所です。(節分けをしたのは私ではありませんが、)私は元より、過去に発生した白紙化や差し戻し、およびそれらの行為に対する非難についてのコメントを意図的に避け、「BLPではGENREF形式は認められないか」という議題に集中するようにしてきたつもりです。Dwyさんが脱線ではなく核心と思っている事柄を説明する上で用いた≪本件≫とは、白紙化や差し戻しという行為を中心とした話のことですよね?それであれば、それは本節の議題ではなく、前節「本方針を根拠とする、記事の白紙化について」の議題です。話し合う場所が違うから脱線と言っているのです。別段私は、Dwyさんが核心だと思っていることを前節で話し合うことを否定しているわけではありません。本節で、本節に関係のないことだけを話すのをやめてくださいと言っているだけです。「2012年9月8日 (土) 15:49 (UTC) 」の発言のどこに、本節「BLPではGENREF形式は認められないか」に直接関係のある内容が含まれているのでしょう?そういうことを言っています。
- NISYANさんのおっしゃる「本題」については、これまでの発言に対して大して付け加えることはありません。英語版の方針が「疑問が呈された」記述についてINCITE方式での出典明示を要求していること、更には、「思いがけない疑問を呈される危険」に備えてに全ての題材についての出典表示を行うことを推奨していることは、既に指摘済みです。日本語版の方針が英語版のコピーである必要はありませんが、日本語版以上に大勢の人たちが時間をかけてしっかり議論した上で出した結論ですから、充分参考にすべきだと思います。
- みっちさんに対しては、みっちさんがおっしゃるような「検証可能性」を確保するだけで「質においても…史上最高の百科事典」が本当に実現すると思うのか?と質問したいです。どこの誰とも知れないウィキペディアの編集者が書いた記事が「史上最高の百科事典」になりうる唯一の道は、みんなで徹底的に検証しまくって記述を改善していくことしかないのではないでしょうか?そういう「検証」を可能にするためには、Inline Citationは必須だと私は思っています。--Dwy(会話) 2012年9月9日 (日) 09:25 (UTC)
- Vigorous Actionさんの白紙化が多少唐突だったとしても、善意にとって「礼儀正しい議論」から始めていれば、今頃は、個別の出典表示が必要でないと合意された記述は復帰され、どの記述にINCITE方式の出典が必要かも合意ができて、問題は解決、記事の質も向上、万事めでたしめでたしで終わっていたはずです。でも実際には、いきなり「ルールの悪用」という非難から始まって[2]、こちらでの議論でもその非難に賛同する方が結構いらっしゃる。私の視点から見れば、「そんなごく当たり前のこと」がちゃんとできない日本語版ウィキペディアの現状こそが本件の核心であり、それが皆さんにとって「脱線」にしか見えないとすれば、何度でもその点を説明して分かってもらわなければならないと思うのです。--Dwy(会話) 2012年9月9日 (日) 04:18 (UTC)
- コメント いきなりそんな非難をすることはありませんし、いきなり「ルールの悪用」というつもりはありません。仮にそう感じたとしても。相手に「礼儀正しい議論」から始めるように問いかけるところから始めます。そんなごく当たり前のことをここ「Wikipedia‐ノート:検証可能性」で話をする必要はないはずなのですが。
- 「ルールの悪用」と言いたくなる気持ちは分からなくもないですが、いきなりそういう非難をすると無駄な喧嘩になってしまいますから、まずは礼儀正しい議論によって「少し見れば見つかる」ことを相手に納得してもらうことが必要になるでしょう(そのためには、結局「ここを探せ」と情報の所在を示してやるしかないような気がします)。その手順をすっ飛ばして、いきなり「ルールの悪用」と言ってしまうのは(NISYANさんがそういうことをなさるとは思いませんが、もしそういうことをする人がいれば)、「白紙化」以上に乱暴なやり方だと思います。--Dwy(会話) 2012年9月8日 (土) 15:49 (UTC)
- コメント 「少し見れば見つかる情報ならGENREFでいいじゃないか」という私の立場から説明するのは何ですが、こうかもしれないと思っていることを。
- コメント 口を挟んで申し訳ないのですが、気になるので。容易・困難という相対的な表現と可能性の有無という絶対的な表現を混同していることが、議論がかみ合わない要因の一つになっていると考えます。方針議論なのですから言葉は厳密に使っていただけませんか。困難と不可能とは異なるもので、Hmanさんがおっしゃるような事例は検証困難の度合いが大きいとはいえるかもしれませんが、だから不可能といってよいことにはなりません。手当たり次第に見ていったとして、運良く1冊目でヒットするかもしれないし、20冊目でヒットするかもしれないが、そのどれかに該当する記載がある限り検証は「可能」でしょう。なお、項目に直接関連する文献やある程度の知識があれば、どれのどこに書いてあるかだいたい見当が付く場合もあるので、「困難性」とて一概にはいえません。ではなにが「検証不可能」かというと、挙げられた出典が錯誤や虚偽の場合です。これは本文だろうが脚注だろうが「参考文献」だろうが、挙げた出典に当の記載がなければ見つけようがない。要するに、限定範囲の広い狭いの差はあっても、出典提示方法によって可能が不可能になったりその逆になったりはしないということです。--みっち(会話) 2012年9月7日 (金) 11:12 (UTC)
- コメント そこは単純に程度問題ですね。BLPに限らず、5行や10行の記事で、参考文献が薄い文献1-2冊の場合は検証困難または不可能とまでは言えません。ですが数十キロバイトの記事で分厚い文献が数冊、十数冊、となりますと、対応関係は把握不可能と申し上げてよく、出典が明記されているとはちょっと見なせないでしょう。そう言った程度問題のお話であれば、段落ごとや節ごとの出典提示も許容されるものではあるはずです。加えて申し上げれば、現段階ではGeneralでよかろうと見なせる記事でも将来的に記事の規模が拡大する可能性がある題材の場合はその時に不都合が発生するかたちになる訳で、やはり事情を説明した上で「推奨」としておくべきものでしょうね。また、存命人物の個人情報に該当するものについては一般論より更に踏み込んで、できるだけ細かく付ける方向に舵を取るべきでしょう。--Hman(会話) 2012年9月5日 (水) 07:58 (UTC)
- コメント仮にGENREF形式の出典が認められないとしたら、検証可能性を満たすには一行一行出典を示していかないとならないね。それは記事の可読性を著しく劣化させるし、一つの出典、例えば公式サイトのプロフィールページを読めば載ってあることをひとつひとつINCITEで示すのは手間がかかるし、冗長すぎる。もちろん論議を呼ぶ題材なら、その手間をかけるべきだろうけど。それにGENREF形式とINCITE形式を複合させた略記脚注法(SFN)も使えなくなるのは困るね。--Afaz(会話) 2012年9月5日 (水) 06:02 (UTC)
- コメント もう一度同じことを表現を変えて言いますが、その解釈が正しいのであれば、GENREF形式の出典を許容する旨のルールなど空文に過ぎません。それであれば、目指すべきはINCITE形式の出典必須、最低限INCITE形式の出典推奨だと思います。そのほうがWikipedia参加者全体コストの軽減だと思います(執筆時のコストだけでなく、ここでの議論に参加するコストなどトータル含めての話です)。
- NISYANさんにとってはどこに情報源があるのか自明であっても、他の人が必ずそれに気が付くとは限りません。情報源の所在に気が付かない人が記述の信頼性に疑問を呈してくることがあっても、それは仕方がないことです。例えば、en:Wikipedia:Citing sourcesでは、次のように言っています。
- コメントVigorous actionの行為を「疑問を呈した」ととるのはどうかな。彼は出典がないから単純に白紙化しただけで、ひとつひとつ吟味して疑問を呈したわけじゃない。「疑問を呈する」にはそれ相当の根拠がいるし、何から何まで「疑問を呈する」ってはっきり言ってありえない。--Afaz(会話) 2012年9月2日 (日) 10:15 (UTC)
- コメント 情報ありがとうございます。そうであれば、そして、外部リンク節で示される情報は(GENREF形式の)出典足り得ないという認識の利用者さんが依然として一定数以上いらっしゃるなら、先に書いたように、GENREF形式の出典であることを明示するために、参考文献節に公式サイト類への外部リンクを置いておこうと思います。白紙化までいかないものの、公式サイトのプロフィールなどを見もせずに編集除去されたらたまりませんので。
- コメント「英語版はGENREFはBLPではだめ」って英語版にそんなルールないですよen:Wikipedia:MINREF#When_you_must_use_inline_citations。"When a reliable source is required"、「信頼性のあるソースを要求されるとき」の節にあるように"Anything challenged or likely to be challenged"「疑問が呈されたか、疑問が呈されそうな」場合、inline citationを使って出典を示さないとならない。プラス、ソースなし(または貧弱なソースしかない)contentious material「論議をよぶ題材」は議論なしに即座の除去が可能というルールがあるだけですen:Wikipedia:Biographies of living persons#Reliable sources。検証可能性を満たすにはGENREFでもINCITEでもどちらでもOKですよ。--Afaz(会話) 2012年8月30日 (木) 00:44 (UTC)
- コメント ≪英語版はGENREFはBLPではだめ≫ってあたりは、日本語版に取り入れていくのがいいと思います。≪存命人物記事に対するWP:GENREF方式での出典を認めるか≫というところが日本語版利用者間でNGという共通認識となれば(*1)、私も≪テクニカルな方法で出典のない状態を避けよう≫などと考えません。もっとも、そもそもテクニカルなどとは思っていませんでした。美化したものでも批判的なものでもない、データ的な記述について、公式サイト、とくにプロフィール欄で確認できることを出典がないと判断するのが妥当とは私は考えていませんでした。もちろん、公式サイトにも記載されていないような疑わしきことにはWP:INCITE形式の出典が必要と思っています(参考発言)し、データ的な記述であっても、例えば本名や生年月日や国籍出身などという、しばしばB-2案件と判断されるようなものについて公式サイトのプロフィールで確認できないというなら、除去ないしは削除されるべきであろうとも思っています。
- (インデント戻しますね):どっちもどっちだと思いますよ。唐突であり、事前の説明があれば、悪用と言われることも差し戻しされることもここで議論に時間を費やすこともなかった。それを認めず、正当化し、それに説得力がないと受け取られているから、ここまでこじれているわけです。百科事典の記事としては異様であり、通常はそのような編集をしていない、あるいはしていたら白紙化荒らしとみなされることが多い編集を継続してしようとするときに、説明をするという「そんなごく当たり前のこと」ができてなかったのはVigorous Actionさんも同じです。Dwyさんが、Vigorous Actionさんの白紙化に問題がなく、それをルールの悪用と捉えることが問題だと考えていて、他の人が白紙化に問題がると考えている。その意見の食い違いの根拠が、WP:Vの理解にあるのであれば、Dwyさんは説明ではなく、相手の意見を受け止めて対話をするべきだと思いますよ。これまでのやりとりは、誰が悪いとか、何が当たり前かとかいう話じゃなくて、そのような対話なのだと思っていましたが、違うの?
- 質も量も世界一の百科事典を、誰でもが編集できるかたちで作ろうとしているのですけれども、では、検証しまくる人のためにインラインを必須とすることで「みんな」が集まるか、という視点が欠けているんじゃないでしょか。書く人がいなくなれば、実現しませんよ。検証しやすいから、ということで、面倒を執筆者に押し付けるような考え方には賛同できません。検証する人に十分な能力があれば、その記事で使われている情報源は、よほど珍しいものでなければ、察しがつくものも多いだろうし、他方、インラインで示されていても検証が難しい資料も少なくない。検証するなら、その資料を確認するのだから、インラインが好きならインラインに修正すればいいんです。Dwyさんは、検証しまくって頂ければよいですし、ほかにもその作業を担う人もいるでしょう。
- Dwyさんの 2012年9月1日 (土) 00:44 (UTC)以降の流れってことだと、インラインで出典が示されていなければ信頼できなくて、それが疑問が呈されたか、疑問が呈されそうな場合にあたるから、インラインで出典を示さないとならないってのは、論理がループしてますよね。どんな些細な情報も、思いがけない疑問を呈される危険はあり、疑問が呈されれば、最終的には除去されてしまう危険があるから、疑問をもたれないように出典を示しておくことは推奨されるでしょうが、それは義務ではなく、またどんな些細なことでも疑問を呈される可能性があるから、どんな些細なことにも出典をつけなければならないとはかかれていません。ここはそうじゃなくて、内容として疑問が呈されたら、インラインで示せ、と読むべきでしょう。たとえば存命人物の伝記については、そうすべきだ、ということなら理屈としてはわかりますが、それにしてもWikipedia:存命人物の伝記でも、そこまでを求めているわけではない。--Ks aka 98(会話) 2012年9月9日 (日) 09:41 (UTC)
- こちらも別に誰が悪いなんて話はしているつもりはないんで、「どっちもどっち」とか言われると、なんかピントがずれてるなと思います。いずれにしろ、「どんな些細なことにも出典をつけなければならない」なんてことは私は言っていないので(「推奨されています」という英語版の方針は紹介しましたが)、誤解しないでいただきたいです。
- それから、調べた資料(当然手元にあるはず)をインラインで示すのはそれほど大した手間ではないはずです。それくらいのことが面倒だと感じるなら、最初から百科事典の編集なんかに手を出すべきではないでしょう。書き手の人数ばかり多くても仕方がありません。本当に必要なのは、ちゃんと方針に従って書いてくれる人だけです。
- あと、私の考えでは、検証しまくる役目を担うのは既存の書き手の人たちではなく、むしろ読者の人たちが中心になると思います。確実な情報を必要とする読者が、それぞれ記事の情報を検証した上で使用していく…そういう使い方をするなかで、誤りに気付いた人が記事を修正していく…そういうイメージです。でも、「確実な情報を必要とする読者」を集めるのは今のままでは無理で、ウィキペディアの記事の質をもう少し上げる必要があるでしょうね。--Dwy(会話) 2012年9月9日 (日) 15:16 (UTC)
- Dwy(会話) 2012年9月9日 (日) 04:18 (UTC)は誰が悪いって話に読めますよ。それをことさらとりあげて、その是非について話を続けるつもりはないです。
- どんな些細な情報も、思いがけない疑問を呈される危険があり、最終的には除去されてしまう危険さえあるからです。という一文を含むen:Wikipedia:Citing sourcesを紹介したのはDwyさんの 2012年9月4日 (火) 19:55 (UTC)で、情報源の所在に気が付かない人が記述の信頼性に疑問を呈してくることがあっても、それは仕方がないことですとおっしゃっています。その記述も、「どんな些細なことにも出典をつけなければならない」というつもりではなかった、ということで受け取りました。
- Dwyさんのイメージは、今の日本語版の状況からかけ離れていると思うんですよ。それは将来像として共有できるけど、記事の質をそういう水準にまで上げるにはまだまだ時間がかかるし、読者が修正してくれるようになるのは、また別の時間がかかります(掲載はちょっと先ですが、そういう原稿を某所に提出しています)。Dwyさんが必要としている、としているのは、最初から方針に従って書いてくれる人、ではないですか? そういう人以外を排除するのではなく、ある程度の余裕を持たせながら、方針に従って書けるようになっていくのを期待する必要があると思いますし、いくつかの方針やガイドラインでは、ウィキペディアはそういうものだとして書かれています。悪用と呼ばれるのは、そういうコンフリクトが生じるからですよね。WP:Vを根拠にして、悪用呼ばわりを否定するなら、よほどWP:Vが意図している通りのものじゃないと。WP:Vは、誰かが書いた記事にけちをつけるためのものじゃなくて、自分で書く人に向けて書かれてるように読めますが、いかがですか? 書く上では、情報源を示すことが求められる。情報源を示さずに書かれてしまったからといって削除するのではなく、加筆し、補い、修正し、あるいは執筆者にアドバイスをすることが期待されている。--Ks aka 98(会話) 2012年9月9日 (日) 17:49 (UTC)
- コメント自分も、Dwyさんのイメージは、今の日本語版の状況からかけ離れていると思う。秀逸な記事を書きたいのなら、その基準としていいが、一般の記事のグレードでは過剰要求すぎる。「インラインで示すのはそれほど大した手間」ではないよ。相当な手間だ。FAやGAにするというモチベーションでもがないかぎり、一般の人はそんなことはしない。一般の記事では疑問をはさまれた時にすればいい仕事ぐらいにしておかないとウィキペディアは成り立たない。Dwyさんのイメージでやりたかったらもっと別のサイトでやるべきだ。--Afaz(会話) 2012年9月10日 (月) 00:30 (UTC)
- 今回の件では、白紙化という極端な手法に対する Yassie さんの気持ちに共感するところはもちろんあるのですが、こと「存命人物」に関わっては「疑わしきは書かれた側の利益に」が優先されます。出典が必ずしも記述の妥当性を示し得ない場合もあることから、ケースバイケースだと考えていました。しかし、こういう機会をとらえて管理者が方針をなし崩しにするコメントをするのは、むしろ白紙化よりも問題であり看過できないと考えて上にコメントした次第です。その結果、ウィキペディアの質向上という重い命題についてお尋ねがありましたので、即席で不十分な考察ですが以下にお答えしておきます。なお、今回の具体的な対処法については、下で Ks aka 98 さんが提案されている内容で概ね異論ありません。
- 私が述べたような「検証可能性」を確保するだけでウィキペディアの質が向上するのか、ということに関しては、私はそうはいっていません。おそらく、Dwyさんと私の考え方の最大の相違点は、この「検証可能性」の位置づけで、私はDwyさんほどには「検証可能性」に頼ってはいないということです。私は「中立的な観点」や「独自研究を載せない」という別の方針とも照らし合わせて記事のバランス・妥当性を検討する必要があると思っています。もちろん「検証可能性」も方針であり、記述除去が明記されていることから不適切な記述を取り除くにはとくに便利な方針ですが、その「便利」さゆえに、なんでもかんでもこれで対処しようとして拡大解釈を生んでいます。「脚注にあらずんば出典にあらず」というのはその典型でしょう。
- 「検証する立場から言えば、GENEREF方式は非常に不親切なやり方」とのことですが、「やり方が不親切だから検証不能」というのはすでに述べたように論理の飛躍です。さらに、こういう一方的な意見は必然的に「執筆する立場からいえば、楽して検証するためにインライン方式を強制しようとするのは非常に横着なやり方」という反論を生み出します。こうして、脚注表示を面倒がる利用者と文献を読むのを面倒がる利用者同士の対立が各所で展開されている。これらの対立は、主として記述除去が焦点となっていて、もっぱら消す消さないとか出典タグを付ける付けないとかという二元論に終始する。こんな発展性のないことで争っている間は、記事の質の向上などないと思います。
- 記事を質の高いものにしようとするなら、(ものにもよりますが)検証の際に単に対応する出典があるというだけでは足りない、というのが私の考えです。その記述がどういう文献のどういう文脈で述べてあるか、記事本文にどう反映してあるかが重要でしょう。例えば、文献ではある批判を引用して、その後にその批判に対する反論が展開されているのに、記事には前半の批判部分だけを採り上げて書いている、というような場合は「中立的な観点」に照らした検討が必要ですし、出典と出典を組み合わせて「独自の見解」になっていないか、という検討も必要です。これらはピンポイントで対応関係だけ確認したのでは見過してしまうでしょう。
- そもそも「検証しまくる」のであれば、参考文献を読むことを避ける理由はないはずです。読みまくって検証しませんか。文献を読み、新たに持ち寄って、より妥当性の高い記述を提案するなら、消す消さないの二元論から脱して、建設的な議論になっていくでしょう。まあ言うは易し、行うは難しではあるのですが、ウィキペディアの質的向上とは、そういう「共同作業」の営みから生まれると考えています。--みっち(会話) 2012年9月10日 (月) 11:44 (UTC)
- 亀レスで申し訳ありませんが、「インライン必須」というのは英語版の方針にはっきりそう書いてあるのを紹介しただけで、私の「解釈」ではないことを、もう一度申し上げておきます。
- WP:V、WP:NOR、WP:NPOVの三大方針は相互補完的なものであり、一体のものとして解釈すべきということになっていますから、「検証の際に単に対応する出典があるというだけでは足りない」というみっちさんのご意見には全面的に同意します。ただ、みっちさんに伺いたいのは、出典がインライン方式で明示されていない状態(=記事の中の個々の記述に対応する個々の出典が明確になっていない状態)で、一体どうやったらWP:NOR(=記事の記述に編集者自身の解釈や勘違いが混ざっていないか)を検討できるかということです。
- A:「参考文献に載ってる資料、全部に一応当たってみたけど『○○はいつも赤いシャツを好んで着ていた』を裏付けるようなものは見当たらないな。」
- B:「そこの部分を最初に加筆した△△さんの会話ページに問合せを入れてみたけど、反応ないし…」
- C:「日本公演の時に赤いスーツでステージに上がったという報道が元になっているんじゃないだろうか?」
- D:「いや、むしろ『○○の伝記』のXXページに出ている、○○の母親は○○が子供のころ赤い服ばかり着せていたというのが根拠になってる可能性が高いと思うよ。」
- A:「『全部に一応当たってみた』とは言ったけど、斜め読みの所も結構あるから、見落としてる可能性も否定できないんだよね…」
- GENREFの出典で無理に検討しようとするなら、どうしてもこういうやり取りになってしまうのではないでしょうか?みっちさんのおっしゃる「共同作業」というのはこういうことではないですよね?--Dwy(会話) 2012年9月15日 (土) 12:07 (UTC)
- コメント別に「インライン必須」とは書いてないよ。Dwyさんの翻訳がそうとれるものになっているだけだけど。「インライン必須」なのは先に示した「Wikipedia:MINREF#When_you_must_use_inline_citations」の4つの場合だけです。ただ、英語版に書いている書いてないで水かけ論になってもしょうがないけど。それと、そのやり取りはまさにこのウィキペディアの共同作業だと思うけど。何の問題もないでしょ。疑義を示して、出典を示した人の反応がなければ除去すればいいだけのことです。除去して反応があればそこから続くわけです。それが無駄だと思うならウィキペディアに参加しないことです。--Afaz(会話) 2012年9月20日 (木) 00:33 (UTC)
- だから、en:Wikipedia:MINREF#When_you_must_use_inline_citationsの4つの場合には「インライン必須」と書いてあるんでしょ?
- en:WP:Vで出典が要求される場合(「Wikipedia:MINREF#When_you_must_use_inline_citations」の4つの場合の最初の3つ)は、「インライン必須」
- en:WP:BLPで出典が要求される場合(「Wikipedia:MINREF#When_you_must_use_inline_citations」の4つの場合の最後の1つ)は、「インライン必須」
- ちゃんと書いてあるし、Afazさんもちゃんと読んでいるのに、なんで「別に『インライン必須』とは書いてないよ」なのか理解不能です。--Dwy(会話) 2012年9月21日 (金) 15:24 (UTC)
- コメントAfazさんと同趣旨のコメントを考えていましたが、すでに書いたことの反復にすぎない(つまり答えはもう出ている)ため遠慮していました。--みっち(会話) 2012年9月20日 (木) 08:07 (UTC)
- みっちさんからは、「出典がインライン方式で明示されていない状態(=記事の中の個々の記述に対応する個々の出典が明確になっていない状態)で、一体どうやったらWP:NOR(=記事の記述に編集者自身の解釈や勘違いが混ざっていないか)を検討できるかに対する答えを期待していたのですが、良く考えたら答えがあるはずもないので、これ以上は突っ込みません。--Dwy(会話) 2012年9月21日 (金) 15:24 (UTC)
- あると思いますけど、いいですよ、それでも。文献を読みこんだ上で判断できない方に脚注が何の役に立つのかよくわかりませんが、Dwyさんはそうお考えということで。私も突っ込まないことにします。--みっち(会話) 2012年9月22日 (土) 04:28 (UTC)
- みっちさんからは、「出典がインライン方式で明示されていない状態(=記事の中の個々の記述に対応する個々の出典が明確になっていない状態)で、一体どうやったらWP:NOR(=記事の記述に編集者自身の解釈や勘違いが混ざっていないか)を検討できるかに対する答えを期待していたのですが、良く考えたら答えがあるはずもないので、これ以上は突っ込みません。--Dwy(会話) 2012年9月21日 (金) 15:24 (UTC)
- コメント別に「インライン必須」とは書いてないよ。Dwyさんの翻訳がそうとれるものになっているだけだけど。「インライン必須」なのは先に示した「Wikipedia:MINREF#When_you_must_use_inline_citations」の4つの場合だけです。ただ、英語版に書いている書いてないで水かけ論になってもしょうがないけど。それと、そのやり取りはまさにこのウィキペディアの共同作業だと思うけど。何の問題もないでしょ。疑義を示して、出典を示した人の反応がなければ除去すればいいだけのことです。除去して反応があればそこから続くわけです。それが無駄だと思うならウィキペディアに参加しないことです。--Afaz(会話) 2012年9月20日 (木) 00:33 (UTC)
- 英語版はGENREFはBLPではだめってなってるんですよ。それ以外にも、(他人の)自己公表物も絶対だめとか。BLPの出典は他の記事よりも厳しめにするというのはおそらく多くの人が賛同するのではないでしょうか。ですから、そういうテクニカルな方法で出典のない状態を避けようとするのは止めた方がよいのでは。--Bugandhoney(会話) 2012年8月29日 (水) 22:28 (UTC)
- というわけで、考えてみました(そのため、インデントは上の発言よりも左から発言が始まるようにしました)。「BLPではGENREF形式は認められないか」という問いがちょっとざっくりしすぎてるように思います。
- その人物自体、また記事中で扱われる主要な要素についてを主題とした第三者による書籍や包括的な記事などが複数あって、記事に書かれている主な事柄はそれらの情報源に共通して記載されていて、検証可能な場合に、全体的な情報源としてこれらを列挙するという方法は認められるでしょう。詳細なところでは、どの資料に書かれているかということをインラインで示すことにはなるでしょう。共通して書かれているものは、それだけ信頼性も高いでしょうから、そうしたものだけを書く、という姿勢も否定されるものではないと思います。
- それとは別に、基本的な事柄について、少なくともこれくらいは読んだほうがいい、記事に手を出すなら特に、というような基礎資料は、GENREFのところで挙げておくのが読者や他の執筆者の益になります。ただしこの場合は、特定の記述に対応付けなくてもいい情報について、だいたいのことがわかるし、そういうところの情報源になっているというような意味でしか、情報源としては認められないと思いますが、それでも闇雲に何十というレベルで全部の情報源を並べただけのGENREFを、GENREFの代表として扱って排除するのはよくない。
- たとえば特に著名な政治家や経営者、スポーツ選手であれば、複数の第三者的な書籍などが存在します。こうした職業であれば、本名や出身地などの情報は、特別な事情がなければ、基礎的な情報として公開されています。しかし、ウィキペディアの人物記事は、それほど広く知られているわけではない女優やモデル、音楽家などを含みます。こうした人物の場合、本名や出身地、あるいは過去の芸名などは、非公開のものを掲載していた場合、問題を生じる可能性があります。
- 一般に、人物記事の基本的な情報は公式サイトや人名録、名鑑などで得られますが、どの程度得られるかは確かではありません。本名や出身地や生年月日といったものでさえ、そうです。一方で、これらの情報は、間違っていた場合に、大きな被害をもたらす可能性があります。だから、記事に書かれている基本的な事柄で「公式サイトを見ればわかるようなこと」が、本当に公式サイトに書かれているのだということを示すために、記述と情報源を丁寧にひもづける必要があるということじゃないでしょか。そして公式サイトをGENREF(または外部リンク)で挙げているだけだと、読者は、そこで公開していると受け取る可能性は高いでしょう。そこが問題になってくる。
- これを回避するためには、本名や出身地などの基礎的な情報については、情報源として公式サイトをGENREFで書くだけでは足りない、ということになります。一般的な情報だからGENREFでもいいだろうとか、書かなくてもいいだろうという判断をしがちだけれども、そこが間違いの元なんだろうと思います。公開されていなかったんじゃないかと考えて疑問を呈することは妥当であり、公開されていない情報を書くことはchallengedだから、インラインが必要になる。インラインではなくとも、テンプレや冒頭部で脚注へ導いて、そこで何がどこで得られるかを書くという形でもいい。対応付けができているかどうかが重要。
- そして、基礎的な情報は百科事典の記事として存在したほうが好ましく、正しいものであることが望まれるのですから、外部リンクまたはGENREFで公式サイトなどが示されていたのならば、疑問を呈する前に確認して、正しい情報に修正し、公式サイトに書かれていないことがあれば除去するのが「当たり前」だと思います。修正にあわせて、公式サイトが「外部リンク」にあったならば、情報源として扱われるセクションにも追加する。そういうことではダメなのかな。--Ks aka 98(会話) 2012年9月9日 (日) 09:44 (UTC)
- コメントすいません。ウォッチリストに入れそこないました。この話題の提案者みたいになっていることに今気付きました。「英語版のBLPではGENREFは禁止されている」というのは語弊がありました。Dwyさんにフォローしてもらえたようですけど、正しくはBLPではインライン形式を必ず使わなければならない、でした。GENREFとインライン形式の共用はありでしょう。GENREFのみはだめです。ですから、外部リンクの公式プロフィールを参考文献に入れてBLPの検証可能性を形式的に満たす、というのは認められるべきではないでしょう。BLPでは他の記事よりも一段高い検証可能性が要求されて当たり前だと思います。
- それで、Vigorous actionさんによるページ白紙化ですけど、ウィキペディアコミュニティに混乱をもたらした、という点に関しては咎められるべきだとは思いますが、個別の白紙化自体にはなんら問題はないです。出典のない記述に出くわしたときの対処法はWP:NOCITEで決められていて、そこには存命人物の伝記に関するものであったり、あるいはウィキペディア管理者から要請があった場合は削除するようにします、指摘したい箇所が疑わしくかつ有害である場合、記事から除去してください、存命人物について、とくに否定的な記述に関して出典の無い記載や出典が乏しく論争となる記載は全て、記事とノートの両方から直ちに取り除かなければなりませんとあります。つまり、BLPにおける出典のない記述は除去が基本です。さらに、ウィキペディアには出典を示す責任は掲載を希望する側にという原則もあります(ここにも存命中の人物に関する記事あるいは情報の場合、情報源が明示されていない情報は直ちに除去してくださいと書いてあります)。検証可能性はウィキペディアの大原則なのであって、投稿画面には毎回百科事典の記事では必ず検証可能性を満たすようにしてくださいというメッセージが表示されます。サポートするガイドラインが多数あるVigorous actionさんによる個別のページ白紙化と比べると、出典がないことを理由に除去された記述をそのまま改善することなく出典なしで復帰させるのはどう考えても重篤なガイドライン違反です。出典の追加はその記述を復帰させたい人の責任で行うべきです。出典を簡単に見つけることができるというのであればなおさらです。--Bugandhoney(会話) 2012年9月24日 (月) 23:21 (UTC)