Wikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組
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「テレビ番組の検証可能性」の追加提案。
編集その1
編集IPから登録したばかりの新参者がこのような提案は恐縮なのですが、「テレビ番組の検証可能性」といった項目、もしくは内容を組み込むことを提案するものです。これは、主に人物に関する記事、中でも「テレビタレント」と呼ばれる人物の記事において参考になればと思うものです。提案のきっかけとしては、タレント記事で「介入前の記事」と「介入後の記事」の編集で、「本人がテレビなどで「発言した」という事実はあっても、「発言した内容が真実である」ことは検証できない」とあったことが、一つのきっかけです。やや大げさながら、このままでは、多くのタレント記事が、名前と性別と生年だけの記事になりかねず、何らかの参考基準があればと思うのです。--ページマイク 2007年3月9日 (金) 07:34 (UTC)
- 検証可能性に沿って記事を書いても「多くのタレント記事が、名前と性別と生年だけの記事になりかねず」とは絶対に成りえないので、意味の無い提案であると思います。ページマイクさんがもう少しいろいろなページを見て、検証可能性というものを理解すれば、分かるはずです。一つ参考に言っておけば「クレオパトラは美女であった」は検証不能ですが、「クレオパトラは美女であったと、多くの文献で述べられている」は検証可能です。「あるお笑い芸人が、飲み屋で~という体験をした」は検証不能ですが、「あるお笑い芸人が、飲み屋で~という体験をした…と××という番組で述べた」は検証可能です。ただし、Wikipediaはトリビア集・発言集ではないので、そういう百科事典的でない記載は削除されるでしょう。--はま 2007年3月9日 (金) 11:03 (UTC)
- その後、井上聡の指摘の版以降を全て見て、また利用者‐会話:PeachLover#井上聡の編集についてもチェックして、若干、印象が変わりました。確かに、あの考えで編集したら「名前と性別と生年だけの記事になりかねず」になります。その意味では、「検証可能な情報のみを書く」という概念が問題なのではなく、PeachLoverさんの方針適用がちょっとやり過ぎの印象です。ともあれ「本人がテレビなどで「発言した」という事実はあっても、「発言した内容が真実である」ことは検証できない」というのは正しく、キチっと「本人が発言した」ことと「事実」を明確に区別して書くべきす(もちろん、書く価値がないトリビア・雑学は削除されるのは別次元の話で)。そしてWikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトで「自主公表物やその他の信頼性に乏しい情報源でも、それらの情報源自身に関する記事においては、情報源として使用することができます。(略)その情報が重要であり、過度に自己を美化するものでなく、第三者によって公表された信頼できる情報源と矛盾していない限り(略)情報源として使用できます」とあるのですから、TVや本人ブロクにおける芸能人の発言も、これに沿って判断できるのではないでしょうか。--はま 2007年3月9日 (金) 12:26 (UTC)
ありがとうございます。現状の解釈で、十二分に事足りることが分かりました。提案は取り下げます。お答え頂いたはまさんをはじめ、色々お騒がせしまして失礼致しました。どうもありがとうございました。--ページマイク 2007年3月9日 (金) 17:43 (UTC)
- 後出しみたいですが、テレビ番組の取り扱いについてのルールを明記するというのは、良い考えだと思います。はまさんは《「あるお笑い芸人が、飲み屋で~という体験をした…と××という番組で述べた」は検証可能です。》とおっしゃっていますが、私としては、番組での発言を後から検証するのは通常は不可能だから、テレビ番組を「信頼できる出版・公表された情報源」と認めることはできない考えています。(録画ビデオが一般に発売されたりしていれば別かもしれませんが)。要するに「出版・公表された」(英語版ではpublishedと言っている)部分の解釈の問題なのですが、この部分の解釈についてコミュニティのコンセンサスを確認して明記しておくことは有意義なことだと思います。いかがでしょうか?--Dwy 2007年3月10日 (土) 07:25 (UTC)
- 本当にすみません。ゴタゴタさせてしまい、申し訳ございません。自己満足で、勝手に閉めてしまいましたが、わたしの持った解釈は、以下の通りです。
- 「Dwyさんの言われる通り、視聴者が、テレビの発言内容の真偽を後から検証するのは、まず不可能です。たとえ後から、わたし一人が電話で本人に確認し、「実はあの発言は嘘」だと知らされても、それを理由に編集することは、他の方々にとって検証不可であり、編集してはいけない。(解説の「X理論」の例に同じ)。
- そのため、テレビで「発言をした」とまでは書ける(検証可能)ものの、「(発言の)内容が事実である・嘘である」とは(たとえ後から個人的に聴いても)書いてはならない(検証不可)。
- さらに、それらをはまさんの言うように、キチっと「本人が発言した」ことと「事実」を明確に区別して書くべきであるということ、加えて気を付けるべきは、そうした細かなことを全て書き込んで、記事が膨れ上がって来ている場合や、いちいち書く価値がない(たとえば「本人が昨日、百円拾った」とか)は、重要でなく論外であるということ。」
- です。--ページマイク 2007年3月10日 (土) 08:47 (UTC)
- 私の考え方は、ページマイクさんと 少し違います。
- テレビでの発言は(その放送を録画したビデオが一般に容易に入手可能である等の例外的な場合を除き)、放送の後、一般人には確認不可能だから、「発言をした」も書けない。
- ついでに言うと、アナウンサーがニュースを読んだような場合は別として、多くの場合、正確な発言内容(「~だ!」と言ったのか、「~だと思うんだけど・・・」)と言ったのか、等々)やそのときの態度・口調(まじめに告白したのか、ふざけて言ったのか、等々)については人によって解釈が分かれることが多く、その場合自分の解釈で記事を書くことはoriginal researchの問題も生じてしまいます。
- です。--Dwy 2007年3月10日 (土) 09:46 (UTC)
ただそれですと、現在Wikipediaに非常にたくさん有る、まだビデオ化される予定のない多くの番組(とりわけ昔のアニメや映画やドラマ等々)の記事内容が、検証不可となってしまい、百科事典としても希少価値の高い、遠く昔のなかなか知り得ない、番組記事まで検証不可扱いになってしまわないかと思うのです。また、Wikipediaでは、個々に出典を求められる機能もあり、内容の存続を希望する側に明示責任があるようです。なお、発言ニュアンスに関しては、Dwyさんの、おっしゃる通りであると思います。--ページマイク 2007年3月10日 (土) 14:44 (UTC)
- 私などから言わせれば、テレビで見たというあいまいな(他の人が後から検証できない)記憶に基づいて書かれた(かもしれない)記事などは、不要だと思うわけです。また「百科事典としても希少価値の高い」というのは、裏を返せば「世の中に無数にあるはずの信頼に足るソースが、そのトピックを取り上げていない=取り上げるだけの価値があると認めていない」ということではないでしょうか。そういうトピックについてWikipediaで書こうとすることはは、ページマイクさんの表現を借りるなら「重要でなく論外」になってしまう可能性が高いと思います。--Dwy 2007年3月11日 (日) 07:23 (UTC)
横から失礼いたします。自分がm:包摂主義者であることを自認した上で発言させていただきます。たとえば、テレビを主たる活動の場としているタレントについて執筆しようとする際には、そのタレントのキャラクターについて述べることになるわけですが、そのときに形容詞などを使って「Aで癒やし系のキャラである」と書くよりは、「AはBという番組において『~』という発言をした。」(~には多くの人が「A=癒やし系」ととるであろう発言を挿入するが、その判断は読者に委ねられる)したほうが、せめて客観的な記述になるのではないかという気がします。テレビ以外に情報がない際にはやむをえない、ということです。自伝を芸能人が出版している場合はそれでよいのですが、「書籍・出版に縁遠い人の記述はまったくなされなくてよい」とは到底思えません。のちのちになってテレビ番組を検証するのは確かに難しいことですが、完全に不可能というわけではありません。テレビ番組は録画していなければ検証できないかもしれませんが、書籍にしても絶版になっていて入手困難といった場合にはやはり困難であることには変わりは無く、テレビメディアの場合だけ特別扱いというのも、あまり合理的ではないと思います。別の視点から言えば、いついつの何という番組で言っていた、と書くことは独自研究となることからの救済手段であるように思います。(もっとも、そのようなtrivia「だけ」を書いている様な項目は好ましくないとも思っています。)--Ich57 2007年3月11日 (日) 07:45 (UTC)
- わたしの基本的な解釈は、Ich57さんに近いです。なるほどDwyさんの言われる、そうした番組ごとの記事は重要でなく、立てる必要はないとされるお立場・考え方もまたありますことを、勿論ご理解いたします。その一方で、現在のWikipediaを見ますと、現状存在しているそうしたジャンル・記事群が今現実に非常に多くあり、なかなか難しいです・・。色々頭をひねったのですが、
- たとえば、Wikipediaで、番組発言が全ての記事で完全禁止となったとして、
- あるいは、Wikipediaで、番組発言が全ての記事で完全許可となったとして、
- 既存の多くの記事が、これまでたくさん議論が重ねられて記事が形成されて来ているものを、今から全記事に一律適用する番組ルールが出来るのは、大きく混乱を招くことになり、やはりこれまで通り、既存の方針を、個々の記事のケースケースで、解釈・議論をされて適用されていくべきだと。はまさんが、最初に提案不要とおっしゃられたのも、方針の中にこれまでずっと無かったのも、そのようなことからだと。
- もちろん検証困難ですが、各局には、番組のマスターテープのようなものが保管されていると思います。NHKなどは、NHKアーカイブとして、局に保管された過去の番組テープを一般にも公開を始めるなど、同様に、ネットを通じるなどして、それこそ誰もが検証可能な時代が来るような方向に向かっているようですので、現時点では・・
- どうでしょうか。必要性を感じ、始めに提案したのですが、深く考えるところ、新たに明文化は不要で、既存の方針を個々の記事で、解釈・議論・適用とする形で良いような・・。すみません、いかがでしょう。--ページマイク 2007年3月11日 (日) 08:49 (UTC)
- 私が申し上げたのは「コミュニティのコンセンサスを確認して明記しておくことは有意義なことだと思います」ということでしたが、コミュニティのコンセンサスが確認できなければ、当面そのままにしておいて、問題があれば個々の記事で議論するということで、仕方がないでしょう。
- 蛇足かもしれませんが、Ich57さんが挙げられた「癒し系」の例は、私に言わせれば非常に問題をはらんでいると思います。Ich57さんがおっしゃっているのは、「癒し系のキャラである」ということが信頼に足るソースによって確認されていないにもかかわらず、投稿者が勝手にそのように判断して、そのような趣旨の記事を書くということに他なりません。これを許容してしまうと、誰でも好きなことが書けることになって、収拾がつかなくなると思います。(Ich57さんが「癒し系」とされた人物について、私が「一見癒し系だが、実は冷たい性格」という趣旨で記述を追加したらどうします?たまたま機嫌の悪かったときの発言とかを選んで拾ってきて掲載すれば、これはそんなに難しいことではないだろうと思います。もし「癒し系」なのか「冷たい性格」なのかで論争になった場合は、どのような基準で捌けばよいのでしょう?)
- 私としては、「癒し系」のような例は、検証可能性がないとして(あるいは、特定の立場を推し進めるために、都合の良い材料を寄せ集めて作成した「独自の調査」であるとして)排除すべきだろうと思います。--Dwy 2007年3月11日 (日) 09:30 (UTC)
そうですね。自分自身投稿した後「あまりいい例ではないなぁ」と感じました。不十分な例で申し訳ありません。私が一応言いたかったことを明確にすると、「いかに客観的に記述するかが問題だが、そもそもその要素自体個々人の主観で決定される性質のものである場合には、その判断の材料のなるものを読者に提供しよう」という趣旨でした。 芸能人の例でいくと、「高飛車な発言をすることが多い」ということは、十分に例を示すことによって(より厳密には、「かつ、下手に出る発言は少ない」事も示さなければなりませんが)完全とはいえませんが、中立性が保証された記事が書けるだろうと思います。そのようなことを記事に書くのはどうかという話もあるでしょうが、バラエティー・トーク番組などでは、各タレントのキャラクターが固定されてる(役回りが決まっている)ことが多く、このような場合の「キャラ」は、たとえば「化学物質の性質」並みに重視されるべきではないかと考えています(もちろん、定説とかがない以上、大変に難しいことになるとは思いますが)。ですから、それについて記すことは無益ではないとは考えています。 (余談ですが、Wikipediaの基本方針は、「検証可能であること」という方針など含めて、結局行き着くのは「中立であること」ではないかと考えます。言い換えれば、「検証可能」であることは、「中立であること」を保証する手段ではないかと考えています。)--Ich57 2007年3月11日 (日) 09:48 (UTC)
- 「検証可能性」が「中立性」を保証する手段であるというのにはあまり賛成できませんが、それは措いておいて、ひとつだけ指摘させてください。「それについて記すことは無益ではない」ならば、既に誰か他の人が信頼に足るメディアで書いているはずです。にもかかわらず、誰も書いていないということなら、あなたが書こうとしていることが本当に正しいのか(世間の人がそう思っているのか)を疑うべきだろうと思います。そして、Wikipediaは百科事典なんだから、疑わしいことは書かないほうが良いのではないでしょうか。--Dwy 2007年3月11日 (日) 09:57 (UTC)
- >「それについて記すことは無益ではない」ならば、既に誰か他の人が信頼に足るメディアで書いているはずです。
- ちょっとこれを公理的に用いることには疑問を感じます。少し、私の記述の主張する度合いが強すぎたかもしれません。もちろん、無制限なゴシップ記事の拡大は私の意図するところではありませんし(というかそれはやめるべきですが)、明確なキャラ(たとえば番組内の役割について)を記述するのは、芸能関係の記事では当然であり(お笑いグループのメンバーについて「ボケ」や「ツッコミ」と書くのの延長程度)、それは書かれてもよいのではないかな、という程度のことです。なんだか本題からずれてきた感があるので、Dwyさんがよろしいようならば、この節は収束、という方向にしたいと思いますが、いかがでしょうか。--Ich57 2007年3月11日 (日) 11:34 (UTC)
Dwyさんの「後出しみたいですが、」で始まっておりますですのに大変恐縮なのですが、一週間の間もログインされておられるようで特に何もなく、これ以外の個別のご議論もユーザーノートでという形で可能ということで、また提議が上がる場合も新規でお願い致しまして、今件案(節)は一旦収束の形で取らさせて頂きたく思います。色々ありがとうございました。--ページマイク 2007年3月18日 (日) 14:01 (UTC)
- 私の方こそ、余計な口をはさんでおいて、その後ほっぽらかしみたいになってしまって、大変恐縮です。私としては、議論して自分の意見を通したいというのではなく、皆さんの意見を聞いてみて、可能であればコンセンサスを探りたいということだったのですが、新たに議論に参加してくださる方もいらっしゃらないようですから、一旦収束ということでよろしいかと思います。--Dwy 2007年3月18日 (日) 15:39 (UTC)
その2
編集誰かしらに「目に触れる機会が努力すればある」、「過去に機会があった」ことを検証性と呼べば問題ないでしょう。機会があったことを証明するのは難しい場合もあるでしょうが、百科事典として充実させることが目的でしょうから、真偽不明としてトピックとして残しておくのも一つの選択でしょう。書いておかなければ無かったことと同じことになってしまいます。--以上の署名のないコメントは、222.4.49.66(会話/Whois)さんが 2007-05-20 04:13 (UTC) に投稿したものです。
- テレビタレントでも、まだ生きている人についてはWikipedia:存命人物の伝記と合わせて判断すべきことでしょう。特に批判的な記述については。--Album 2007年5月21日 (月) 10:51 (UTC)
公共に配信しているメディアの種類によって、検証可能性の評価に大きな差を付けてしまうという事には反対です。これまでの議論にあった様に、お笑い芸人などの発言についてはテレビ番組にしかソースがないという事情があるわけですが、放送メディアと活字メディアの双方で活躍している評論家等の場合でも、放送と活字に差を付けると中立性や正確性が損なわれてしまうケースがあるからです。あくまでもフィクションですが、A,B,C3名の評論家による論争を記述する場合について例を挙げます。
- 評論家Aは、テレビと新聞で評論活動をしている。
- ある日、評論家Aが評論家Bとテレビで競演中に、論争の種になる様な発言aを行った。
- 評論家Bはその時に反論をしなかったが、評論家Cなどが発言aの録画から文字に起こした文章を引用する形で、充分に評判の良い活字メディアで評論家Aを批判した。
- その後評論家Bは、発言aについて、充分に評判の良い活字メディアで批判した。
- こうした批判に晒された評論家Aは、活字メディアでの反論を行わず、テレビやラジオでのみ応戦した。
- 評論家Aの発言は放送でのみ激しく繰り返され、発言aはエスカレートした。
- 評論家Bは、以後この論争には活字メディアでは一切触れなかったが、一転してテレビでのみ発言aに同意する発言を行った。
- 評論家A,Bによるテレビでの発言は、決して言い間違いではなく、内容に確信を持った発言であった。
- 評論家A,Bが活字メディアで発言aに言及しない理由は不明。
- 発言aを巡る論争はトリビアや名誉毀損に繋がる様な口喧嘩の類ではなく、評論家Aは報道番組で公共性を主張しながら言及し、評論家Cなども活字メディアで世論形成上の公益性から論争しているという事を表明している。
この場合、情報源を活字メディアに限ってしまうと、この論争については「評論家BとCが、発言aを批判した。」という事だけが記述される形になってしまいます。これには下記の問題があります。
- 発言aを批判する立場の論調だけが記述されてしまい、中立性が損なわれる。
- 評論家Bが発言aを批判した事だけが記述されてしまい、正確性が損なわれる。
勿論、「テレビなんか信用に足らない。活字にしないAとBが悪い。」というポリシーもありだと思いますが、昨今の放送メディアの影響力によって、百科事典に記述するに足る重要な事象が引き起こされているという事は重視しなければならないでしょう。活字だけを重要視する事は現実的ではありません。
動画による報道や評論を衛星放送等で再放送したり、ネット上に蓄積して配信する事について、技術的な障害は何もありません。障害は権利関係の整備の遅れと、ネット系企業と放送系企業との確執だけです。また、家庭用録画機器の性能は急速に向上しており、目的とする放送内容を後日目にする機会は増えると考えられます。よって近い将来、活字メディアと放送メディアの検証可能性の差は無くなる筈です。テレビやラジオで放送されたという事を「貧弱なソース」とする事は現実的ではないでしょう。勿論、これら自身の正確性や中立性を読み解く事はメディアリテラシーの問題ですから、できるだけ多くの典拠に当たって、記事の正確性や中立性を高める事こそが重要になります。その為にも、メディアの種類によって差を付ける事には反対です。--古鳥羽護 2007年6月20日 (水) 20:06 (UTC)
- 私は、まさに「テレビなんか信用に足らない。活字にしないAとBが悪い」という意見です。というか、もしその論争が百科事典の記事に記述されるほどの重要性があるものなら、「理由はわからないが、活字メディアでは取り上げられていない」という仮定自体が非現実的だと思います。
- 「動画による報道や評論を衛星放送等で再放送したり、ネット上に蓄積して配信する事」については、技術的には充分可能なのかもしれませんが、著作権という大きな法的障害があり、また、「ネット系企業と放送系企業との確執」も依然として解決されていません。「近い将来、活字メディアと放送メディアの検証可能性の差は無くなる」は、ちょっと楽観的過ぎるような気がしますし、本当にそうなる目処がつくまで待ってから議論を始めても遅くないと思います。(本当に「近い将来」にそうなる確信があるなら、その少しの間が待てない理由はないはずだと思います。)--Dwy 2007年6月21日 (木) 06:01 (UTC)
- Dwy氏同様、「テレビなんか信用に足らない。活字にしないAとBが悪い。」と思います。ウィキペディアのソースは信頼性によって取捨選択されるものであって、影響力は無関係です。そもそも番組中にしかソースが無い、あるいはテレビも含めないと視点が偏る、などという事象がウィキペディアの掲載に値するとは思いません。何か具体例があるでしょうか。
- 動画の蓄積云々も異口同音になりますが、近い将来そうなってから考えれば良い事です。今現在の期待と想像を持ち出しても議論は収束しません。- NEON 2007年6月21日 (木) 06:41 (UTC)
レスありがとうございます。DwyさんやNEONさんが仰る様に、放送メディアの検証可能性が活字並になる事については、現時点ではハードルがあります。ただ、多様な公共メディアが情報を配信している今日、単純に出典から放送メディアを切り捨てる事には弊害があるという事もお判りいただきたいのです。
論者の双方が論争する事の公益性を主張していて、百科事典に掲載する程の重要性がありながらも、その一方が放送メディアだけを用いる状況ですが、例えば、一方が他方を非難したいが、発言の責任は放送局に負わせたいという場合があります。(不二家の不祥事に関する過剰報道問題について謝罪したのは暴言を吐いた司会者ではなく局アナでした。)報道番組の場合、報道された事実との切り分けが曖昧な形で評論家の「意見」が挿入される場合があります。つまり評論家の自由裁量で公共に配信できて、かつ報道の一環として扱われるという事です。こうした特徴を鑑みて、特定の問題については放送だけで意見を述べるという戦略はあり得るわけです。
ウィキペディアに論争に関するAとBの意見が掲載されない事、もしくは議論が双方から大手メディアで配信される程に重要であるにも拘らずウィキペディアに収録されない事は、DwyさんやNEONさんが仰る様にテレビでしか意見を述べなかったAとBの責任でしょう。それでは、AとB自身がどういう意見を持った評論家なのかについて不正確な記述になってしまう事も、やはりAとBの責任なのでしょうか?ウィキペディア側の都合で活字のみを採用していては、それこそ「私はそんな意見ではない。」というクレームの元にもなりかねません。逆に、テレビでの暴言が問題になった人物が活字メディアに一言「励ましの言葉だった」と書けば、批判者が「励ましの言葉」に噛み付いている事になってしまい、批判側からのクレームの元になってしまいます。こうした事を懼れて、記述を細らせてしまうしかなくなってしまうのでしょうか?
また、特定の事象について、放送局がニュースやワイドショーを用いたキャンペーンを行う事がありますが、これらを出典にできなくなると、キャンペーンの結果作られた用語だけが一人歩きして、用語そのものについての出自や妥当性が曖昧になってしまいます。放送メディアと活字メディアは、報道に関してはライバル関係にありますので、活字メディア側がその用語を多用しなから出自を明示しない場合があります。また、その用語が流行すると、活字メディアが用語そのものの妥当性を棚に上げたり、本来の意味とは違う形に歪めて使ってしまう場合があります。ここで「その用語の出自は○○という番組で、元々は事象××について番組が△△だと評する為に用いられたものである。」という記述をする事には、充分な意義があります。
今日のメディアの状況を考えると、中立性や正確性を犠牲にしてまで、放送メディアを出典から排除する事には私は反対なのですが、検証可能性がウィキペディアの柱の一つである以上は、放送メディアをどう評価するべきかという議論は、それを統一方針として検討するか、個別のノートで検討するかという事もありますが、もっとなされるべきだと思います。--古鳥羽護 2007年6月21日 (木) 12:34 (UTC)
- テレビを丸ごと排除するというのには反対しておきますが、できればテレビを情報源とすることは避ける、テレビしか情報源がない場合は有効、ただしテレビしか情報源がないようなことで百科事典としての記述に値するかどうかを十分検討する、という感じかなあと思います。例に挙げられている評論家の例で言えば、Bが発言を翻したことはテレビ番組を情報源として記すしかなく、また他に情報源がないからと言って記さないよりは記すべきかと思います。しかしその論争が他のメディアでまったく取り上げられていないのであれば、その論争を、論争の主題となっていることの項目や評論家の項目やその番組の項目の中で、百科事典の項目として掲載する必要がどの程度あるかというのは疑問です(必要な場合もあると思う)。あと、映像と活字の対立ってのは、ちょっと単純化させすぎで、特に大きいメディアは系列てのもあるわけで。番組の性質(ドキュメンタリーかバラエティかワイドショーか)とか、項目と番組との関係とか(テレビ番組の項目なら、テレビ自体を情報源とすることはあるでしょう)、けっこう細かく分けて考えてみないと、と思いました。--Ks aka 98 2007年6月21日 (木) 18:09 (UTC)
活字化されていても、そこに掲載されている情報を辿ったら放送メディアだったってこともあるんだが、これはどうするの?----以上の署名のないコメントは、220.208.188.195(会話/Whois)さんが 2007年6月21日 (木) 18:44 (UTC) に投稿したものです。
- 情報へのアクセスが確保される。放送メディアが取り上げたことを活字メディアも取り上げるという点で、多少の話題性が認められる。ましな活字メディアなら、放送メディアが取り上げた対象について、裏付けを取っている可能性がある分、多少信頼性が高まるし、活字メディア自体のバイアスはあるにしても、放送メディアの取り上げ方についての情報源ともなりうる。ということで、活字メディアを情報源として扱うメリットがあると思います。--Ks aka 98 2007年6月21日 (木) 19:01 (UTC)
ラジオやテレビ放送を情報ソースとして参照している学術論文、報道など五万とあります。小中学生の作文じゃあるまいし、ビデオ撮ってないから確認できない云々に至っては悪い冗談としか思えません。Hermeneus (user / talk) 2007年6月21日 (木) 21:41 (UTC)
放送メディアが配信した事について活字メディアが記述する場合、裏付けを取る事もありますが、Ks aka 98さんが仰る様にバイアスが掛かってしまう事もありますね。例えば、本当は「司会者の暴言について局アナが謝罪した」のに、それについての報道があたかも司会者本人が謝罪したかの様な表現になる(もしくは、「事実上の司会者本人による謝罪」であると判断してその様な表現になる)というケースです。なのでこの場合は、「暴言への謝罪」というトピックの重要性を裏付けるのが「他のメディアによる報道」であって、その謝罪の中身については、番組そのものをソースにするべきでしょう。
また、放送と活字が系列で繋がっている例は確かにありますが、同系列であっても、第一報やスクープ・ドキュメントによってある概念を世の中に提起した事についての「功績争い」という事は起こり得るのです。なので、実際にはある番組が初出であるのに、他の番組や活字メディアが出自を示さずに、あたかも以前から存在した概念であるかの様にその概念を説明する用語を使っている場合は確かにある訳です。場合によっては、系列かつ協力関係にあるメディア同士が世論の「空気」を作るキャンペーンを貼る為に、あえて出自を示さない事もあります。上にも書きました様に、これも番組そのものをソースにするべき事例だと思います。
「中立性」や「正確性」は、書き手のメディア・リテラシーの成果として確立する性質のものであって、その為にはできるだけ多くのメディアを参照しなければならないわけです。
問題は、これらのケースで放送メディアをソースにする場合、「確かに配信された」という事をどの様な形で担保するのかという事だと思います。--古鳥羽護 2007年6月22日 (金) 11:38 (UTC)
- 「悪い冗談」と言われても、ビデオ撮ってないものは確認できないんだから、仕方がありません。学術論文や報道では、査読・情報チェック担当者さえ検証できれば、他の人々はその査読・検証システムを信頼していてよいわけです。しかし、ウィキペディアの場合、限られた査読担当者だけが検証できれば良いというシステムになっていません。みんなが確認できる形になっている必要があります。学術論文や報道でどうしているかは、あまり参考にならないと思います。
- ついでに言うと、テレビでしか入手できない情報というのは、ほとんどの場合「一次資料」でしょうから、「独自の研究」にならないよう、扱いには十分な注意が必要です。テレビ番組を情報源として「Aさんがテレビで○○と言った」と記事に書くなんていうのは、一次資料(テレビ番組の筆記録)の作成みたいなものだから、ウィキペディアでは禁止だと思います。--Dwy 2007年6月23日 (土) 10:33 (UTC)
- 放送メディアであれ、活字メディアであれ、発言や文章をそのまま引き写すのではなくて、意を汲んでウィキペディアの記事の文章に起こしている訳だから、結局メディアの種類の違いにはあまり意味がなくて、両者に共通する「メディアの責任において公衆に配信された」という部分が重要だと思います。また、メディアの種類に拘らず、出来るだけ多くのメディアの情報を総合して、中立的かつ正確にウィキペディアに記述するという事は、「独自の研究」にはあたらないでしょう。そういう姿勢で書かれたものは、他のウィキペディアンにとっても納得できるものになるか、もしくは他のウィキペディアンによってより良い形に直される様なものになるでしょう。--古鳥羽護 2007年6月25日 (月) 14:09 (UTC)
- 「意を汲んで記事に起こす事に大差無い」との事ですが、既に文章化されている活字メディアと、空間を切り取ってお茶の間に転送するだけの放送メディアとでは、執筆者の主観の介在度が全然違います。本当に大差無いと考えているんでしょうか。
- で、「出来るだけ多くのメディアの情報を総合して、中立的かつ正確に」などという事ができるのであれば、WP:VもWP:NORも全部不要です。私も含めて多くの人間はそれができないからこそ、メディアに対する現在の線引きがあります。言い換えれば、衆愚相手にはテレビを除外するデメリットよりもメリットの方が大きいと看做されているわけです。この線引きは例え話や理想論で覆るものではありません。十分な具体例と共に放送メディアの利点を説き、同時に懸案である検証可能性の担保や独自研究の抑止を打ち出さない事には、何時まで経っても合意には至らないと思います。- NEON 2007年6月25日 (月) 15:25 (UTC)
- んーと、「ラジオやテレビ放送を情報ソースとして参照している学術論文、報道」はあります。それらは、学術論文を書く人、報道する機関の責任と、それらへの信頼で成立しています。ウィキペディアは、誰でも編集できるので、学術論文や報道と同一の扱いにはできない、というのが、検証可能性や独自研究といった方針が求めているもの、だと思います。また、学術論文や報道においては、個別の事象、新しい事象を追い、それが価値となることが多いですが、百科事典では、それらと比較して、それほど個別に、あるいは新しいものを追う必要はないはずです。ラジオやテレビを情報ソースとせざるをえない場合もあるでしょうから、ぼくは、情報源として除外するつもりはないですが。
- 古鳥羽護さんのおっしゃるところで、最初の段落については、ほぼ同意します。ぼくなら、「放送はいついつ、どこの局。この件についての報道はなんとか新聞いついつ何面」というような脚注を付けるでしょう。次の段落について、ま、実際はそれほど単純な対立構造ではなくていろいろだったりするわけですが、「系列かつ協力関係にあるメディア同士が世論の「空気」を作るキャンペーンを貼る為に」という部分は、書き手の独自研究とならざるをえないので、そこは省くとして、根拠とされる部分があるテレビ番組だということが明らかなら、それはそれで出典とするのがよいと思います。で、「確かに配信された」という部分は、担保しようがないので、結局のところ、テレビやラジオは検証の難しさがある、ということです。で、確かに配信(というか放送)されたことを、活字でフォローすることができるなら、それは書いたほうがいいと思いますし、そのための努力をしてほしい、と思います。上で挙げた脚注の書き方みたいな感じですね。多くの人が百科事典の記事にふさわしいと思える内容について、テレビやラジオを出典として記述を行うならば、それほど問題は生じないでしょう。あまり百科事典の記事っぽくない項目や、百科事典に載っているけれど学術的な研究が進んでいないような項目を、何とか百科事典にふさわしいものにしようとして、雑誌などはもちろん、テレビやラジオからも丹念に情報を集め、選別し、出典を明示しようとすることを、ぼくは排除したくないと思っています。本当にテレビやラジオでしか取り上げられず、その内容が重要であれば、テレビやラジオを出典としてもよいと思います。重要なのは、テレビやラジオ以外の資料をきちんと漁る努力をするということ、それと、だからといって、テレビやラジオを出典とすれば何を書いてもいい、ということではない、ということ、ではないかと思います。--Ks aka 98 2007年6月25日 (月) 15:33 (UTC)
- 誰がどのような意見を持ってもよいとは思いますが、満足に他の編集者が検証できないので、テレビやラジオの情報は、不可です。単純かつ明確な線引きが必要です。--Album 2007年6月28日 (木) 13:26 (UTC)
- 放送メディアであれ、活字メディアであれ、発言や文章をそのまま引き写すのではなくて、意を汲んでウィキペディアの記事の文章に起こしている訳だから、結局メディアの種類の違いにはあまり意味がなくて、両者に共通する「メディアの責任において公衆に配信された」という部分が重要だと思います。また、メディアの種類に拘らず、出来るだけ多くのメディアの情報を総合して、中立的かつ正確にウィキペディアに記述するという事は、「独自の研究」にはあたらないでしょう。そういう姿勢で書かれたものは、他のウィキペディアンにとっても納得できるものになるか、もしくは他のウィキペディアンによってより良い形に直される様なものになるでしょう。--古鳥羽護 2007年6月25日 (月) 14:09 (UTC)
学術論文でなくとも、大学レベルの論文でもラジオ、テレビ放送などは普通に参照されています。ウィキペディアには大学院レベルの専門知識を持つ編集者も数多くいます。わざわざ底辺レベルの編集者の能力に合わせる必要はありません。ウィキペディアは百科事典編纂プロジェクトであり小中学生の作文の宿題ではないのです。--Hermeneus (user / talk) 2007年6月28日 (木) 21:36 (UTC)
- 例えば、40年くらい前の大手の新聞の地方面に、ある政治家が少年時代に既に政治についての志を述べていた(もしくは政治には全く関心がないと述べていた)事が何らかの形で掲載されていたという事が具体的な出典付きで書かれていたとしましょう。(東国原知事クラスならば、書く意義はあると思います。)ところが地方面なので、大手の新聞と言えども縮刷版には収録されてはいません。書いた人はたまたま古い額縁の中からその新聞を見つけたと主張するわけですが、現実問題として、これを検証するのは困難です。充分に評判の良い活字メディアの重要性の高い記事であってもこういう事態は起こりえます。また、縮刷版に載っている記事だとしても、査読依頼を受けた人にとっては、図書館などでイチイチ確認する事は煩わしい作業となります。
- 確かに放送メディアが出典になる場合、2ちゃんねる等では出典も含めて丸ごと嘘であったのに噂として一人歩きしてしまったという事例がありますが、同じ事をウィキペディアの中で活字メディアを出典にしたと偽って起こす事もできるわけです。つまり、現実問題として、各々のウィキペディアンの「正確に書こう」「中立的に書こう」「出典を明記しよう」という善意を信頼しなければならないわけです。悪意を持って誤った内容や誤った出典を示した場合には、当然、内容自体に疑義が生じる事になるので、他のウィキペディアンに指摘されるなどして、自浄作用が働くわけです。ところが、その項目の出典について充分な知識を持っている専門家のウィキペディアンが数名しか居ないケースでは、主著者がそうした蛮行に走った場合にはどうしようもなくなるかもしれません。そして「執筆や査読ができる専門家のウィキペディアンが少ない」という事は必ずしも「その項目が重要ではない」という事を意味しません。
- この様に考えると、今まで自分が出典を示してきたり、逆に他の書き手から出典を示されたり、査読していた項目のノートでの争いが誰かが示した出典で解決したのを見たりしてきたという経験も、「はたしてこれで良かったのだろうか?」という不安に変わってしまうわけです。典拠が示されているという事自体をどう評価するのかという事になると、表示期限を過ぎていないネット上のニュース記事のURL(リンク先からはあまり歓迎されないそうですが)を除けば、たまたま手元に同じ新聞や雑誌を持っている人が他に居るとか、たまたまその日のニュースで繰り返し報道されているからという感じになってしまうのではないでしょうか?勿論、それでも書き手の心がけとして、雑誌のバックナンバーを取り寄せたり、典拠にした番組そのものについて書いてはいなくても、番組の内容を裏付けるような書籍を探すと言った努力は必要です。しかし、それが示される前の段階で、問答無用で削除するというのはいただけないと思います。分野によっては、(ソックパペットが居ない事が前提ですが)ノートで複数の人の証言が一致した事を以って、決定しているというのが現実ではないのでしょうか? --古鳥羽護 2007年6月29日 (金) 12:33 (UTC)
- えーと私の考えは、上のKs aka 98さんと同じなのですが、
- ノートで複数の人の証言が一致した事を以って、決定している
- とまでは言えない、ですね。その段階では「決定している」なのではなく、せいぜい「確からしそうだ」くらいにしかならないものと認識しておくべきです。その段階では、急いで除去する必要がある(=掲載したままでは記事の信頼性が損なわれる)とは思いませんが、原則としてWikipediaでは「検証可能性」の方を重視すべきだ、という考え方ですので、記述しようとする側が「それでOKだ」としてしまうことには問題があります。具体的に言うと「要出典」の状態にしておくべきもの、つまり「要出典」タグが貼られても、それを剥がせる理由にはならないし、もし長期に亘って、証明作業を怠り「要出典」状態のままだという場合には、「消されても仕方が無い」ものと見なされても、まあ反論は難しいですね。
- もともとの話に戻すと、主なポイントになりそうな論点は二つで、一つは「テレビ番組そのものを信頼できる情報源として扱っていいか」という点、もう一つは「一度しか放映されなかったテレビ番組の内容は検証不能ではないか」という点でしょう。
- まず一つ目の論点ですが、基本的にはテレビ番組も信頼できる情報源になりうる、と私は考えます。確かに、先日問題になった「あるある」のように、信頼できない内容の番組というのもありえるわけでして、その内容を鵜呑みにされると困るケースというのも多々あります。しかし一方で例えば、海外ではBBC製作の自然科学系のドキュメンタリー番組が高く評価されていることを考えていただければよいかと。他の情報源が見つけられないという理由だけでBBCのドキュメンタリーを情報源としている記述を「信頼できない」とばっさり削る人がいたら、私はその人の判断に首をかしげるでしょう。日本でもそこまでは至らずとも、NHK製作の良い番組があったりもしますね。
- したがって、少なくともひとまとめに「信頼できる情報源にはなりえない」という主張には無理があると思います。基本的には、シンプルに白黒付けられる問題でなどありえず、番組ごとにある程度の評価を加味しながら判断する必要があるかと。ちょうど「全国紙を出してる新聞と東スポ」を見分けるようなものですね。ただし、テレビ番組の製作には、通常はその元になった資料があることが多いはずですので、より信頼性の高い情報源を探すというのが、もちろん重要だと思います。その方が、わざわざテレビ番組を情報源に載せることで紛糾するより、問題解決に至るまでの時間も手間も少なくすむと思いますので。
- 次に二つ目の論点ですが、結論から先に言うと「一度しか放映されなかったテレビ番組でしか語られてない内容」について検証性を持たせることは可能だと思います。はっきり言っちゃうと、どうしても載せたいのであれば、最終手段は「信頼できる手法によって、テレビ局に内容確認の質問状を送り、得られた『公式な回答』を根拠として公開できるかどうか」だと考えてます。
- 実際に上でも同様な議論が出てきていますけど、この「一度しか放映されなかったテレビ番組」というのは、「世界に一冊しかない非公開の本」という、検証可能性の問題でしばしば取り上げられる「典型的な極論」に近い部分があるテーマでして。そもそも、そういう事態が実際に起こりうるのか、起こりうるとしても特殊な例外として処理すれば十分で、わざわざ総論的に話し合う必要性はないのではないか、というところが大きいと思います。もちろん、そのテレビ番組の例は、世界に一冊の本の例ほどの極論とは言えない部分があると思いますが。それでもし、このテーマにも敢えて答えを出そうというのであれば、まずその「極論」に対する典型的な答えと同様に、(1) 本当に載せる価値のある情報なら、そのたった一つ以外の情報源にも記載されているはずではないのか、と反論することができると思います。さらにまた、(2)いずれDVDなどが出る可能性があるのなら、それまで待ってから記述すべきではないか、という反論も、番組の種類によってはありうるでしょう。
- そういった議論を十分にこなした上で、それでもなお、どうしてもその記述を「Wikipediaのルールを満たす形で載せるべきだ」と考えるのであれば、その情報を載せたい人が、テレビ局への問い合わせをして、回答を得る。そうして、記述の信頼性を十分に担保してくれるのであれば、私はそれで十分「信頼できる記述」になりうると考えます。ただし、もちろんそれが「信頼できる手法で得られた公式回答であり、その正当性を誰でも確認/検証できる」ことが必須の条件になりますし、実際にこの方法で信頼性を担保しようとするときには、(私を含めた/私以上に)懐疑的/否定的な見方をする人たちを十分に納得させるだけの証拠と議論(討論能力)が必要になると思います。そもそも、これはWikipediaの王道的なやり方ではなく、「例外的なやりかた」を認めさせようという方向性なので、そのためには「例外的な手間」が必要になるのは当たり前のことだと。その手間を惜しむようでは、そのやり方を認めさせることは出来ない、とまぁ、そういうものだと思います。--Y tambe 2007年6月29日 (金) 14:01 (UTC)
- えーと私の考えは、上のKs aka 98さんと同じなのですが、
「信頼できる」という概念は、極めて主観的なものです。この方針で求められているのは単純に「他の編集者が確認できるかどうか」ということです。レベルの問題でもないし、学術論文の基準も関係ありません。方針の本文をよく読んで下さい。直接確認するような手法も不可だとちゃんと本文に書いてあります。テレビやラジオなどの「電波もの」は不可です。--Album 2007年6月30日 (土) 00:00 (UTC)
- うーん、うまく伝えるように説明するのは難しいですね。まず「信頼できる」という概念が主観的だというのは、それは議論の到達点ではなくてスタートラインにすぎないんです。だからこそ実際、この検証可能性においても「信頼できる情報源」というものが重要な位置付けとして明記されているのです。実際、Albumさんが引用してるその文章の最後にも「広く信頼されている報道機関」という概念が出てるではありませんか。我々は「何を『信頼できる情報源』としうるのか」について、常に注意を向けつづける必要があります。「単純な解決がいつでも可能だ」と、思考停止することなく、ですね。
- 次に、検証性の例についてですが、私が上で「最終手段」として主張した事柄は、まさに情報を「他の編集者が確認できる」「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができる」状態にするためにどうすればいいかという一つの手段に他なりません。「テレビ局からの、公表された公式回答」があったとして(実際にそれを得ようとするときには、信憑性や証明手法についての問題や議論が生じると思いますが、ここではオフトピになりますので、それを全部クリアした回答がここに実在すると仮定します)、それと「広く信頼できる報道機関を説得して(あなたの話を)発表してもらう」ということは、結局のところ同じ話なのです。ここでいう「あなたの話」が、単に「○月○日に○○という番組で○○という内容が放送された」という内容に代わるだけで、それを公式回答として公表してもらう、ということですので。--Y tambe 2007年6月30日 (土) 01:42 (UTC)
それは、その情報が「信頼できる情報源から公表、出版」されていないから駄目だという話であって、既に公表、出版されている情報の「直接確認」の話ではありません。既に公表、出版されている情報の出典確認は、ビデオを録って見ようが、テレビ局に電話で問い合わせようが、図書館で古い新聞記事を漁って自分で読んで確認しようが、同じ事です。権威も肩書きも何も無いただの名無し編集者が行う確認作業など全て「直接確認」です。
検証可能性とは、ウィキペディアに記載する内容の正しさは参照されている外部の「信頼できる」情報源(主要メディアの報道、学術論文など)に依存し、ウィキペディア内においては内容の正しさ自体の判定は下さず、信頼のおける資料をちゃんと参照しているかどうかのチェックのみを行う、ということです。小中学生のウィキペディア編集者でも容易に確認できる=「信頼できる」ではありません。Hermeneus (user / talk) 2007年6月30日 (土) 01:21 (UTC)
- 番組内容の「電話確認」などはナンセンスです。その電話が正しい部著につながったかどうか、電話に出た人間がバイトなのか、あるいは警備員だったのか判別しようもありません。「ワタシはテレビで見た」ことも「ワタシは電話で確認した」ことも、確認しようがありません。10人の編集者が同じ内容で10本の電話をするわけにもいきませんし、TV局が答える義務もありません。「TVで見た」も「電話確認した」も、明確に論外です。--Album 2007年6月30日 (土) 01:29 (UTC)
- そんなことを言い出したら、名無しのウィキペディアンごときが何をどう確認しようと全て論外になります。そのほうがよっぽどナンセンスです。
- 検証可能性で求めているのは、その内容が「信頼できる情報源から公表、出版」されていることであって、ウィキペディア編集者が行う確認作業まで公表、出版することを要求するものではありません。Hermeneus (user / talk) 2007年6月30日 (土) 01:37 (UTC)
- そうですね、「電話確認」については多分「公式回答として公表する」ための敷居が高いでしょうね。ただし、電話応対に出た相手に氏名・身分(公式に回答できる立場かどうかの判断材料)を語ってもらった上で、そのやりとりを録音したものが、相手方との合意のもとで公開されたならば、それは十分「公式回答として公表されたもの」として検証の俎上に載せることができるでしょう。
- 実際の確認方法としては、電話確認ではなく、Wikipedia:自著作物の持ち込みで情報元Webページに記載を行わない例に挙げられているような、公式メールアドレスを介した問い合わせを行うという手段に向かうと思います。過去にはメールを介したやりとりによって、著作権に関して確認し解決された実例(例1,例2)が存在しますので。--Y tambe 2007年6月30日 (土) 02:02 (UTC)
- 訳語が悪くて論戦になっていますが、ここでの訳語「公表」は「放映」を完全に含みません。最初から論外なのです。英語版を紹介しておきます。--Album 2007年6月30日 (土) 02:34 (UTC)
「What is a reliable source?」
編集Reliable sources are authors or publications regarded as trustworthy or authoritative in relation to the subject at hand. Reliable publications are those with an established structure for fact-checking and editorial oversight. The reliability of a source depends on the context: a world-renowned mathematician is not a reliable source about biology. In general, an article should use the most reliable and appropriate published sources to cover all majority and significant-minority published views, in line with Wikipedia:Neutral point of view. --Album 2007年6月30日 (土) 02:34 (UTC)
- それは参照されるソースの多くが出版物だからそう簡潔に表現されているだけで、参照できるソースを活字メディアに限定するとなどという噴飯物の主張をしているわけではありません。Hermeneus (user / talk) 2007年6月30日 (土) 03:34 (UTC)
- それはどこに書いてありますか?--Album 2007年7月1日 (日) 09:52 (UTC)
- en:Wikipedia:Notability: Including but not limited to newspapers, books and e-books, magazines, television and radio documentaries, reports by government agencies, scientific journals, etc. 検証可能性を満たさない要因のうちに「出版物以外の形態のもの」などとはどこにも書かれておらず、「publication」の一語だけからそのようなことを含意すると拡大解釈するのは恣意的であり「論外」です。そもそも「publish」はウェブコンテンツなどにも広く使用される言葉であり、雑誌や新聞のような旧来の活字出版物に限定されるものではありません。もし本当に活字媒体に限定するのあれば、「print material」などのより明示的な用語を使用して具体的に禁じる旨を記しているはずです。
- WP:Vで問題にしているのは、査読制度などのチェック機能を備えた社会的に定評のある第三者機関から発表されたものではない、自費出版の独自調査の類いです。「テレビ放送は一般ウィキペディア編集者が確認しづらいからreliableじゃない」などというような議論はなされたこともありませんし、そのような噴飯物な理由で削除された例もありません。だいたい学術論文でも主要報道メディアでも非活字ソースは幾らでも参照されているのに、ウィキペディアでだけ使用不可能などとは意味不明です。Hermeneus (user / talk) 2007年7月3日 (火) 23:12 (UTC)
- 英語版のこちらの議論では、「テレビ番組がvalid sourceであることは間違いないが、実際の問題として、入手困難なビデオを出典として怪しい情報を書かれたら、どうすれば良いのか?」のような論調になっています。アメリカでは、日本よりテレビ番組のビデオの入手が容易のようなのでen:Wikipedia talk:Verifiability/Archive 16#Verifiability of television_episodes、それも議論に影響を与えているかもしれません。私としては、少なくともビデオが入手できないようだと、やはり「検証不能」と言わざるを得ないのではないかと思います。(でないと、前述の「怪しい情報」を除去できなくなります。)--Dwy 2007年7月4日 (水) 13:09 (UTC)
- そこでも指摘されているように、れっきとしたソースが存在し入手可能である以上は、入手難易度がどうあれそのソースが正当なものであることに変わりはありはありません。また、ソース入手の困難さの問題は別にテレビに限った問題ではなく、非活字媒体イコール入手困難でもない以上、発表媒体の形態のみをもって検証不可能性の根拠にすることはできません。いずれにしろ、英語版ウィキペディアには非活字媒体であるがゆえに検証不可能とし排除するような方針はありませんし、入手難易度が高いが故に検証不可能とし排除する方針も存在しません。Hermeneus (user / talk) 2007年7月4日 (水) 14:05 (UTC)
- Hermeneusさんも「れっきとしたソースが存在し入手可能である以上は」とおっしゃっていますが、問題は「入手不可能」と「入手困難」との間の線をどう引くかだと思います。--Dwy 2007年7月5日 (木) 06:28 (UTC)
- 横から失礼します。「入手不可能」と「入手困難」の線引きは、「入手不可能」は文字通り不可能ですが、「入手困難」の場合は条件さえ充たせば入手可能である事だと思われます。--社 2007年9月21日 (金) 23:39 (UTC)
- 同様に横からですが。「入手不可能」だろうと「入手困難」であろうと日本語版での満足に検証することができない事には、変わらないと思います。 同時に、満足できる検証可能物の内容が『事実かどうか』は、確か求められていなかったはずなので、重要なことであれば誰かが書いているでしょうし、どうしても内容を書きたいなら無ければ最終的には、自己責任において、自分で出版して検証可能物を作り出して自著物投稿たっていいわけです。 そうした除去の結果、有意義な内容が残らなくなるのであれば、第三者がそのことを重要と考えていないという事ではないでしょうか。 暴論ですが、Wikipediaの中で『出典確認と認定者(committer)』の関係を作ることが難しい以上、例えば現在、満足できる検証可能な出典があるものでも後の時代に検証できなくなるのであれば、それは、その時代には沿わない削除されるべき記事でしょう。例えそれが、イエス・キリストだろうが日本だろうが。 ボーダーラインは厳しく(検証可能性の厳守)。ラインすれすれ(例えば、ネット上の新聞記事)や、インパクトが弱いもの(例えば、八女提灯)は甘く。 それが私が望むものです。--秋月 智絵沙(Chiether) 2008年1月17日 (木) 01:13 (UTC)
- 横から失礼します。「入手不可能」と「入手困難」の線引きは、「入手不可能」は文字通り不可能ですが、「入手困難」の場合は条件さえ充たせば入手可能である事だと思われます。--社 2007年9月21日 (金) 23:39 (UTC)
- Hermeneusさんも「れっきとしたソースが存在し入手可能である以上は」とおっしゃっていますが、問題は「入手不可能」と「入手困難」との間の線をどう引くかだと思います。--Dwy 2007年7月5日 (木) 06:28 (UTC)
- そこでも指摘されているように、れっきとしたソースが存在し入手可能である以上は、入手難易度がどうあれそのソースが正当なものであることに変わりはありはありません。また、ソース入手の困難さの問題は別にテレビに限った問題ではなく、非活字媒体イコール入手困難でもない以上、発表媒体の形態のみをもって検証不可能性の根拠にすることはできません。いずれにしろ、英語版ウィキペディアには非活字媒体であるがゆえに検証不可能とし排除するような方針はありませんし、入手難易度が高いが故に検証不可能とし排除する方針も存在しません。Hermeneus (user / talk) 2007年7月4日 (水) 14:05 (UTC)
- 英語版のこちらの議論では、「テレビ番組がvalid sourceであることは間違いないが、実際の問題として、入手困難なビデオを出典として怪しい情報を書かれたら、どうすれば良いのか?」のような論調になっています。アメリカでは、日本よりテレビ番組のビデオの入手が容易のようなのでen:Wikipedia talk:Verifiability/Archive 16#Verifiability of television_episodes、それも議論に影響を与えているかもしれません。私としては、少なくともビデオが入手できないようだと、やはり「検証不能」と言わざるを得ないのではないかと思います。(でないと、前述の「怪しい情報」を除去できなくなります。)--Dwy 2007年7月4日 (水) 13:09 (UTC)
- それはどこに書いてありますか?--Album 2007年7月1日 (日) 09:52 (UTC)