逢坂信忢
逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9日 - 1981年〈昭和56年〉1月7日)は、日本の牧師、伝道者、宗教哲学者、社会運動家、郷土史家、著述家。
略歴
編集新潟県中蒲原郡女池新田(現 新潟市中央区女池)の、女池新田、神道寺新田、および小張ノ木新田の戸長を務めていた名望家・逢坂清治の次男として出生[1][注 1]。
1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業[注 2][注 3]、1902年(明治35年)7月に札幌農学校予修科を卒業、1908年(明治41年)12月に東北帝国大学農科大学(旧 札幌農学校)農学科(農政学・農業経済学専攻)を卒業[5][注 4][注 5]。
1915年(大正4年)9月に救世軍に入隊[10]、1916年(大正5年)6月に救世軍士官学校を卒業、中尉に任官、東京銀座小隊長に就任[11][注 6][注 7]、1917年(大正6年)4月に大尉に任官[14][注 8]、1919年(大正8年)春に救世軍を除隊[16]。
1919年(大正8年)から3年間、アメリカのインディアナ州アップランドのテイラー大学、イリノイ州エバンストンのギャレット神学校、ケンタッキー州ルイビルの南部バプテスト神学校に留学して神学を研究[17]。
1921年(大正10年)7月に新潟県において伝道を行うため日本組合長岡基督教会牧師に就任[18][注 9][注 10][注 11]、1924年(大正13年)11月から十日町基督教会牧師を兼任[26]、1934年(昭和9年)3月に十日町基督教会牧師を辞任[27]。
1939年(昭和14年)6月に東北帝国大学農科大学(旧 札幌農学校)の恩師の宮部金吾から招請を受けて札幌独立基督教会牧師に就任[28][注 12]、1946年(昭和21年)7月に札幌独立基督教会牧師を辞任[31]、以後、著述に従事[32][注 13]。
1961年(昭和36年)5月に北海道に来訪した昭和天皇に「北海道開拓精神史の研究」について御前講演を行った[34]。
1981年(昭和56年)1月7日午後11時5分に札幌市の自宅で老衰のため死去[35][注 14]、日本基督教団札幌北光教会で行われた葬儀は北海道大学関係者、北海道知事、札幌市長の会葬・献花もあり、白い菊の花に覆われた荘厳なものであった[37]。
役職
編集表彰
編集関連人物
編集- 逢坂清治 - 父、大地主、逢坂家12代目[48]、新潟県中蒲原郡女池村第4代村長[49]、元新潟県会議員[50]、元中蒲原郡会議員[51]、元鳥屋野村会議員[52]。友人に坂口仁一郎(坂口安吾の父)[53]。
- キリスト教に入信した逢坂信忢を勘当した[54]。が、1906年(明治39年)5月に千葉県の鏡ヶ浦で病気のため療養していた逢坂信忢が肥厚性鼻炎の手術後に出血が止まらず昏睡状態に陥った時、内村鑑三から連絡を受け急いで飛んで来た[55]。
- 逢坂信忢は中学4年生の時、内村鑑三不敬事件を起こした内村に憤慨し、内村を知るため内村が主筆の『東京獨立雜誌』を読むと、内村の思想に感激して内村が卒業した札幌農学校に入学を決め[58]、東京の角筈に住む内村を訪ねた[59][注 18]。
- 宮部金吾 - 東北帝国大学農科大学(旧 札幌農学校)の恩師[61]、内村鑑三の親友、植物学者。
- 内村と有島武郎は「バカにもいろいろあるから気にするな」と逢坂を慰めた[64]。
- 逢坂信忢と同日に札幌独立基督教会に入会した[65]。逢坂は有志の学生や教員などの社会人による有島を中心とした社会主義研究会を結成した[66][67][注 20]。逢坂が結婚する時、有島は婚姻届に証人として署名押印し[70]、仲人を務めた[71]。
- 逢坂はアメリカに留学する前、有島と信仰上の話をした。信仰を捨てた有島は、逢坂は古い生き方をしていると言う。別れる時、逢坂が「自分に真実なことを真実として行う」と言うと、有島は手を叩いて喜び、次のように言った[72][注 21]。
著作物
編集著書
編集- 『暗黑より光明に』山室軍平[序]、警醒社書店、1916年。
- 『苦難の哲理と宗敎』佐藤昌介[序]、不二屋書房、1936年。
- 『クラーク先生詳伝』宮部金吾[推薦の辞]、丸善[発売]、クラーク先生詳伝刊行会、1956年。
- 『ホーレス・ケプロンを語る 北海道開拓の恩人』丸善[発売]、逢坂信忢(私家版)、1956年。
- 『クラーク先生を語る』逢坂信忢(私家版)、1959年。
- 『黒田清隆とホーレス・ケプロン 北海道開拓の二大恩人 その生涯とその事蹟』北海タイムス社、1962年。
- 『ウァルト・ホイットマンを語る 散文家としての彼れ』丸善[発売]、宮崎広志(私家版)、1966年。
- 『荒井郁之助伝 北海道教育の先駆者』北海タイムス社、1967年。
- 『ウァルト・ホイットマンを語る 詩人としての彼れ』丸善[発売]、逢坂信忢(私家版)、1968年。
- 『盲詩人ミルトンを惟う』丸善[発売]、宮崎廣志(私家版)、1969年。
- 『リンカーンを語る』丸善[発売]、宮崎廣志(私家版)、1972年。
- 『クラーク精神とカーライル哲学 「悪魔の糞」を語る』北海タイムス社、1976年。
- 『只この一書 新約聖書梗概』逢坂信忢(私家版)、1978年。
論文
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 逢坂信忢は少年時代、弟の逢坂梅松(のちに大日本帝国海軍少佐、中等学校数学・理科教師)とともに新潟県中蒲原郡沼垂町の寺田徳裕の漢学塾・有隣館に遊学した[2]。
- ^ 逢坂信忢は1895年(明治28年)の中学1年生の時に母親を脳出血で亡くした[3]。
- ^ 逢坂信忢は同級生の山内保次(のちに大日本帝国陸軍少将)と撃剣(剣道)仲間で、ともに撃剣部(剣道部)で活躍した[4]。
- ^ 逢坂信忢は農政学を高岡熊雄に、農業経済学を佐藤昌介に学んだ[6]。また、逢坂は新渡戸稲造が貧しい青少年のために設立した遠友夜学校の教師を務めた[7]。
- ^ 逢坂信忢は痔瘻、肺尖カタル、脚気、胸膜炎、風邪など様々な病気にかかって休学や卒業論文の延期をしたため卒業が遅れ[8]、卒業後も衰弱していたため2年間 故郷で療養していたが、その間も、マラリア、痔核、慢性胃弱、薬物中毒などを患った[9]。
- ^ 小隊は教会に、小隊長は牧師に相当する。銀座小隊があった場所は東京府東京市京橋区南伝馬町3丁目10番地(現 東京都中央区京橋3丁目6番18号)で[12]、現在は東京建物京橋ビルが立っている。
- ^ 逢坂信忢は札幌農学校の関係者である新渡戸稲造、有島武郎、内村鑑三、佐藤昌介たちを次々に銀座小隊で開催する講演会の講師として招請した[13]。
- ^ 逢坂信忢は1917年(大正6年)11月3日に銀座小隊で救世軍人(少尉)の小花郁と結婚式を挙げた[15]。
- ^ 逢坂信忢は按手礼を受けていないので、身分的には牧師ではなく主任伝道師である[19]。また、正式に伝道師として承認されたのは1922年(大正11年)1月である[20]。
- ^ 逢坂信忢は1920年(大正9年)5月に発生した阪之上尋常小学校の火災で類焼した教会堂の新築のため新潟県中学校の同期の会津八一[21]などに援助を依頼した[22]。新築した教会堂は長岡空襲で焼失した[23]。
- ^ 逢坂信忢は1937年(昭和12年)4月にヘレン・ケラーを長岡に招聘した[24]。ヘレン・ケラーに教会堂の前に桜の苗木を植えてもらったが、長岡空襲で焼失した[25]。
- ^ 戦時中、逢坂信忢は札幌独立基督教会の牧師として、宗教団体法により教会の合同を強要する国家の圧力に屈せず、独立を守った[29][30]。
- ^ 司馬遼太郎は逢坂信忢の著書を読んで北海道開拓の指導者であるホーレス・ケプロンやクラーク博士についての知識を得た[33]。
- ^ 逢坂信忢の長女の福島瑞穂は、逢坂は入院していた病院で肺炎を起こし、酸素吸入を受けながらも、急いで駆けつけた妻、子、孫、ひ孫の一人一人と握手をして笑顔を見せたが、それは1981年(昭和56年)1月7日午後11時過ぎのことだと述べている[36]。
- ^ 逢坂信忢は婦人参政権運動も推進しており[40]、市川房枝や久布白落実が逢坂を訪れて新潟県での活動を行った[41]。
- ^ 逢坂信忢は三宅正一らとともに1933年(昭和8年)に中越医療組合病院(現 長岡中央綜合病院)を設立し[43]、1934年(昭和9年)4月に開院した[44]。
- ^ 逢坂信忢は内村鑑三の自伝 How I Became a Christian の和訳を内村の校閲のもと行って内村が主筆の『聖書之硏究』に1910年(明治43年)11月の第125号から連載し始めたが、逢坂が神経衰弱のため1911年(明治44年)1月の第127号を最後に中断した[57]。
- ^ 逢坂信忢は内村鑑三と会見したあとに内村が主催する第1回夏期講談会に参加して精神的に新生した1900年(明治33年)7月26日を受洗日とした[60]。
- ^ 農学を勉強するために札幌農学校に入学したわけではない逢坂信忢は、毎日 授業を欠席して第二農場のチモシー畑で本を読みふけり、出席不足のため諸教授に叱責された[63]。
- ^ 原田三夫は、逢坂信忢は過激な急進的社会主義者であり、逢坂が教育勅語をめぐって橋本左五郎教授と激論を戦わせたと述べており[68]、有島武郎は逢坂の演説を聞いて、「逢坂が社会主義の宣伝を職業とするなら優れた扇動家になるだろう」と評している[69]。
- ^ 有島武郎は逢坂信忢について1908年(明治41年)1月24日の日記に、「夜、逢坂君来訪。教会に於ける態度に就き、祈祷に就き、その他宗教上の諸件に対して談話。余は彼の性格が斯くの如く mould(形成)せられしを憐れむの外を知らず」と書いていた[73]。
- ^ 逢坂信忢は社会主義者だったため就職が困難で、大学卒業後、2年間 故郷で療養したのち、3年間にわたって求職していたが、有島武郎が友人に逢坂を教員として推挙したりして[76]、静岡県志太郡立農学校に嘱託の教授(教諭)として就職することができた[77]。
出典
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参考文献
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- 「逢󠄀坂信忢」『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第2巻』822頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2020年。
- 「逢坂信忢氏」『新潟日報』1981年1月10日付朝刊、19面、新潟日報社、1981年。
- 『青陵回顧録』小林力三・武田慎三郎[編]、新潟県立新潟高等学校、1952年。
- 『新札幌市史 第三巻 通史三』札幌市教育委員会[編]、札幌市、1994年。
- 『北海道年鑑 1962』昭和37年版、北海道新聞社、1961年。
- 『北大百年史 通説』北海道大学[編著]、ぎょうせい、1982年。
- 『写真集 北大百年 1876-1976』北海道大学[編]、北海道大学、1976年。
- 『遠友夜学校』札幌市教育委員会文化資料室[編]、札幌市・札幌市教育委員会〈さっぽろ文庫 18〉、1981年。
- 『昭和九年 日本組合基督敎會便覽』日本組合基督教会本部、1934年。
- 『福音の社會的行者 日本組合基督敎會並同志社關係社會事業家列傳』竹中勝男[著]、日本組合基督教会事務所、1937年。
- 『協同組合を中心とする 日本農民医療運動史 前編・通史』全国厚生農業協同組合連合会[編]、全国厚生農業協同組合連合会、1968年。
- 『新潟県農地改革史 資料 三、農民動靜資料篇 (II)』新潟県農地課[編]、新潟県農地改革史刊行会、1957年。
- 『新潟県史 通史編8 近代三』新潟県[編]、新潟県、1988年。
- 『新潟縣議會史 明治篇一』新潟県議会史編さん委員会[編]、新潟県議会、2001年。
- 『新潟縣總攬』富樫悌三[著]、新潟社、1916年。
- 『やまと錦』小日向忠造[編]、錦益社、1916年。
- 『中蒲原郡誌 下編』新潟県中蒲原郡役所[編]、新潟県中蒲原郡役所、1916年。
- 『中蒲原郡誌 下編』新潟県中蒲原郡役所[編]、名著出版、1973年。
- 『中蒲原郡誌 新潟市編』新潟県中蒲原郡役所[編]、臨川書店、1986年。
- 『新潟県 精髄 中蒲原郡誌〈下編〉』新潟県中蒲原郡役所[編]、千秋社、2000年。
- 『鳥屋野地区の今昔』鳥屋野郷土誌編纂委員会[編]、鳥屋野地区農業協同組合、1980年。
- 『北越詩話 下卷』坂口仁一郎[著]、目黒甚七・目黒十郎、1919年。
- 『静岡縣志太郡誌』静岡県志太郡役所[編]、静岡県志太郡役所、1916年。
- 『暗黑より光明に』逢坂信忢[著]、山室軍平[序]、警醒社書店、1916年。
- 「聖潔の生活を学ぶ」『山室軍平選集 別卷 追憶集』21-24頁、逢坂信忢[著]、山室軍平選集刊行会[編]、山室軍平選集刊行会、1954年。
- 『黒田清隆とホーレス・ケプロン 北海道開拓の二大恩人 その生涯とその事蹟』逢坂信忢[著]、北海タイムス社、1962年。
- 『リンカーンを語る』逢坂信忢[著]、丸善[発売]、宮崎廣志(私家版)、1972年。
- 『街道をゆく 十五 北海道の諸道』司馬遼太郎[著]、朝日新聞社、1981年。
- 『司馬遼太郎全集 56 街道をゆく 五』司馬遼太郎[著]、文藝春秋、1999年。
- 『思い出の七十年』原田三夫[著]、誠文堂新光社、1966年。
- 『宮部金吾と舎生たち 青年寄宿舎107年の日誌に見る北大生』青年寄宿舎舎友会[編]、北海道大学出版会、2013年。
- 『内村鑑三全集 3 1894(明治27年)〜1896(明治29年)』内村鑑三[著]、岩波書店、1982年。
- 『内村鑑三全集 33 日記一』内村鑑三[著]、岩波書店、1983年。
- 『内村鑑三全集 37 書簡二』内村鑑三[著]、岩波書店、1983年。
- 『有島武郞全集 第十一卷 日記二』有島武郎[著]、筑摩書房、1982年。
- 『有島武郞全集 第十二卷 日記三』有島武郎[著]、筑摩書房、1982年。
- 『有島武郞全集 第十三卷 書簡一』有島武郎[著]、筑摩書房、1984年。
- 『有島武郞全集 第十四卷 書簡二』有島武郎[著]、筑摩書房、1985年。