細川興建
日本の江戸時代後期の大名。筑後久留米藩世嗣有馬頼瑞(8代藩主有馬頼貴長男)長男で、常陸谷田部藩7代藩主細川興徳養子。谷田部藩8代藩主。従五位下長門守
細川 興建(ほそかわ おきたつ)は、江戸時代後期の大名。常陸国谷田部藩8代藩主。官位は従五位下・長門守。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政10年11月21日(1798年12月27日) |
死没 | 安政2年12月16日(1856年1月23日) |
改名 | 台作(幼名)、興寛(初名)、興建 |
戒名 | 興令院建章智道 |
墓所 | 栃木県芳賀郡茂木町の能持院 |
官位 | 従五位下・長門守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶 |
藩 | 常陸谷田部藩主 |
氏族 | 摂津有馬氏、谷田部細川家 |
父母 | 父:有馬頼端、養父:細川興徳 |
兄弟 | 有馬頼徳、興建、尚、有馬一知、益 |
妻 | 細川興徳養女 |
子 |
興貫、嵯久(次男)、加藤泰壮、寅二郎、松浦脩正室、細川立則正室、 南部信民継室、赤松範静室、松井盈之室、小笠原政徳室 |
生涯
編集寛政10年(1798年)11月21日、有馬頼端(筑後国久留米藩8代藩主・有馬頼貴の長男)の次男として誕生した。常陸谷田部藩7代藩主・細川興徳の婿養子となり、天保8年(1837年)の興徳の死去により家督を継いだ。
養父・興徳の遺志を受け継いで、二宮尊徳の尊徳仕法と藩医・中村勧農衛を中心とした藩政改革を行ない、緊縮財政政策、徹底した倹約、村落の再建などを推し進めて、いくらかは成功を収めたといわれる。嘉永5年(1852年)12月16日、家督を長男の興貫に譲って隠居する。
系譜
編集父母
正室
子女