有馬頼徳

江戸時代後期の大名、久留米藩第9代藩主

有馬 頼徳(ありま よりのり)は、筑後久留米藩の第9代藩主。久留米藩有馬家10代。

 
有馬 頼徳
有馬頼徳像(篠山神社蔵)
時代 江戸時代後期
生誕 寛政9年6月22日1797年7月16日
死没 天保15年4月3日1844年5月19日
改名 新太郎(幼名)、頼徳、水鴎(法号)
別名 華山、月船
戒名 大良院殿前鴻櫨卿譲渓道温大居士
墓所 東京都渋谷区広尾の祥雲寺
官位 従四位下、侍従上総介、玄蕃頭、左少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
筑後久留米藩
氏族 摂津有馬氏
父母 父:有馬頼端、母:玉清院(吉田氏)
兄弟 頼徳細川興建一知、益(丹羽長富室)
正室:徳川斉敦の娘・幹姫智光院
側室:お綱(松濤院)、立石氏(宝寿院)
美(牧野貞一正室)、頼永亀井茲監、謳(前田慶寧正室)、頼咸松平直克、竹子(土屋寅直正室)、娘(松平頼煕正室)
養女:媛(大給松平乗羨娘、有馬氏貞正室)
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生涯

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寛政9年(1797年)6月22日、久留米藩嫡子・有馬頼端(第8代藩主・頼貴の三男)の長男として生まれる。頼瑞は頼貴の世子だったが早世したため、頼徳が祖父頼貴から世子に指名され、文化7年(1810年)には従四位下・侍従・上総介に叙位・任官された。文化9年(1812年)に祖父が死去したため家督を継ぎ、玄蕃頭に遷任される。

しかし財政難のため、就任早々の幕府による関東河川の手伝い普請で領民に臨時税1192を課したり、文化13年(1816年)には経費を3割縮減した緊縮財政や家中からの米献納を命じたりして、財政改革に取り組んだ。一方で、「月船」「水鴎」といった号を持ち、自らの趣味に没頭した。文政2年(1819年)から、久留米城内に柳原御鷹場を作り始め、さらに能楽を何度も開くなどして財政をさらに悪化させた。このため、文政6年(1823年)には江戸からの帰国中に旅費不足に陥り、急遽国許の大庄屋中から5000両を送金させる事態に陥る。翌文政7年(1824年)から、役所整理などの経費節減による財政改革を開始したが、同年から文政11年(1828年)まで毎年洪水または不作に見舞われるという不運も重なった。しかも、こうした中で文政8年(1825年)に柳原の庭園が完成した際には、『柳原八景詩歌』を編纂させている。文政10年(1827年)からは御用金を取り立て、文政11年には上米の増額と万事3か年の省略を命ずるなどしたが、借金はさらに膨れ上がり、天保2年(1831年)には人別銀17446両を徴収した。こうした過酷な取り立てをきっかけに、天保3年(1832年)からは亀王組による国中を巻き込む一揆が起こる有様だったが、同年には場内に焼物窯を開き、柳原焼と称して写し物の製作をさせるなど、趣味への出費が減ることはなかった。

天保2年(1831年)に左少将に遷任される。晩年の天保9年(1838年)には大洪水で大被害を受けたにもかかわらず、諸国巡見使の接待に1万両を費やし、さらなる財政悪化のために家臣へ増上米を命じた。翌天保10年(1839年)8月には、江戸城西ノ丸の普請を命じられ、10月にはとうとう柳原鷹場を取り壊した。天保15年(1844年)4月3日に江戸で死去した。享年48。跡を四男の頼永が継いだ。

系譜

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参考文献

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・篠原正一編著『久留米人物誌』久留米人物誌刊行会、昭和56年