有馬頼端

江戸時代中期の武士。久留米藩世子。

有馬 頼端(ありま よりなお[1])は、筑後久留米藩第8代藩主・有馬頼貴の子。世嗣と定められたが、家督を継ぐことなく没した。

 
有馬 頼端
時代 江戸時代中期
生誕 安永8年6月27日1779年8月9日
死没 文化元年12月22日1805年1月22日
改名 長作(幼名)[1]
別名 東作[2]
官位 従四位下、上総
幕府 江戸幕府
筑後国久留米藩世子
氏族 摂津有馬氏
父母 父:有馬頼貴 母:高木氏
兄弟 頼董頼善頼端頼体頼久木下俊芳 ほか
正室:堀田正順の娘・八十
有馬頼徳(長男)、細川興建(次男)、有馬一知(三男)、娘(鷹司松平信敬正室)、娘(丹羽長富正室)
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生涯

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安永8年6月27日1779年8月9日[3][4]、有馬頼貴の三男として出生[1][3](夭折した男子が1人いるため、四男と記されることもある[4])。母は高木氏[1][5]

兄の頼善が狂気によって廃嫡されたため[4]寛政5年(1793年)3月25日、父頼貴の嫡子となる[1][6]。同年9月15日、将軍徳川家斉に拝謁する[1]。同年12月26日、従四位下上総介に叙任する[1]

しかし、家督を継ぐことなく、文化元年(1804年)12月22日に没した[3][7]。享年26[4]

頼端の死により、頼端の長男の新太郎(のちの有馬頼徳)が久留米藩の嫡子と定められた[4]

家族・親族

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正室の佐倉藩堀田正順の三女、八十[3]。 『平成新修旧華族家系大成』には、子として以下が記載されている。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第四百六十九
  2. ^ 篠原(1981年)、p.572
  3. ^ a b c d 平成新修旧華族家系大成』上、p.60
  4. ^ a b c d e 篠原(1981年)、p.53
  5. ^ 篠原(1981年)p.571
  6. ^ 篠原(1981年)p.53では、「3月28日」としている
  7. ^ 篠原(1981年)p.572によれば、これは届け出上の日付で、実は12月16日没という

参考文献

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