筑後国
日本の令制国の一つ
(筑後国府跡から転送)
筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の福岡県の南部に属する。7世紀末までに成立した。
筑後国 | |
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■-筑後国 ■-西海道 | |
別称 | 筑州(ちくしゅう)[注釈 1] |
所属 | 西海道 |
相当領域 | 福岡県南部 |
諸元 | |
国力 | 上国 |
距離 | 遠国 |
郡・郷数 | 10郡54郷 |
国内主要施設 | |
筑後国府 | 福岡県久留米市(筑後国府跡) |
筑後国分寺 | 福岡県久留米市(筑後国分寺跡) |
筑後国分尼寺 | (推定)福岡県久留米市 |
一宮 | 高良大社(福岡県久留米市) |
領域
編集沿革
編集筑紫国(つくしのくに)の分割によって、筑前国とともに7世紀末までに成立した[1]。
戦国時代は、筑後の守護は大友氏であり、その勢力下にあったが、実際に筑後を支配し統括したのは筑後十五城と呼ばれた大名分の国人領主たちであり、筑後南部(下筑後地域)は蒲池氏、田尻氏、黒木氏が、筑後北部(上筑後地域)その他は星野氏、草野氏、問註所氏その他の大身が割拠した。
江戸時代は、筑後北部は有馬氏(摂津有馬氏)の久留米藩、筑後南部のうち柳川市やみやま市など大半は立花氏の柳河藩、大牟田市は柳河藩と親類関係にある三池藩であった。
近世以降の沿革
編集国内の施設
編集国府
編集国府は御井郡(三井郡)に存在した。国府の位置は、江戸時代に久留米藩の学者である矢野一貞によって、三井郡合川村に推定された。1961年(昭和36年)に、九州大学考古学研究室によって初めて阿弥陀遺跡の発掘調査が行われ、瓦や礎石列・築地跡か見つかったことから、国庁の存在が確実になった。その後の発掘調査で、国庁は1期から4期と御井郡内を転々としたことが判明している。
- I期国庁
- 古宮・田代遺跡。7世紀後半に造営された。深い溝を設けるなど軍事的な色彩が濃い。
- II期国庁
- 8世紀半ばに阿弥陀遺跡へ移転。礎石を有し、工房や国司館を備えている。藤原純友の乱によって破壊。
- III期国庁
- 10世紀前半に朝妻遺跡へ移転。大宰府政庁(Ⅲ期)よりさらに大規模な平面プランをもっていた。
- IV期国庁
- 11世紀後半に横道遺跡へ移転された。以降、文献上には12世紀後半まで記述が残る。
1996年(平成8年)に、「筑後国府跡」として国の史跡に指定されている。現在、阿弥陀遺跡に石柱と解説パネルがある。また、横道遺跡は久留米市立南筑高等学校校内にあたり、当時の建物の柱列が復元されている。
国分寺・国分尼寺
編集- 筑後国分寺跡 (久留米市国分町、北緯33度17分43.06秒 東経130度32分16.47秒 / 北緯33.2952944度 東経130.5379083度)
- 久留米市指定史跡。現在は日吉神社境内と重複する。推定寺域は約150メートル四方で、講堂跡・塔跡・築地跡が確認されている。室町時代から近世初頭にかけての移転と伝える護国山国分寺(久留米市宮ノ陣、北緯33度19分37.65秒 東経130度32分6.64秒 / 北緯33.3271250度 東経130.5351778度)が、その法燈を伝承する。
尼寺跡は未詳であるが、僧寺跡の北方約200メートルの西村地区の地に推定される。
神社
編集- 三井郡 高良玉垂命神社
- 比定社:高良大社 (久留米市御井町)
- 三井郡 豊比咩神社 - 久留米市内に論社が複数社ある。
- 比定論社:高良大社 (久留米市御井町)
- 比定論社:豊姫神社 (久留米市上津町)
- 比定論社:豊姫神社 (久留米市北野町大城)
- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[3]。
- 総社:味水御井神社 (久留米市御井朝妻、北緯33度18分40.72秒 東経130度32分55.96秒 / 北緯33.3113111度 東経130.5488778度)
- 一宮:高良大社 (久留米市御井町、北緯33度18分5.83秒 東経130度33分57.28秒 / 北緯33.3016194度 東経130.5659111度)
二宮以下はない[3]。
安国寺利生塔
編集- 安国寺 - 福岡県久留米市山川神代。
- 利生塔 - 今は廃寺の淨土寺(福岡県大川市酒見)内に設置。
筑後十五城
編集大友氏幕下にあった15の国人領主家。
→詳細は「筑後十五城」を参照
地域
編集郡
編集10郡(延喜式)
- 御原郡(みはらぐん)
- 生葉郡(いくはぐん)
- 竹野郡(たけのぐん)
- 山本郡(やまもとぐん)
- 御井郡(みいぐん)
- 三瀦郡(三潴郡)(みづまぐん)
- 陽咩/八女郡(やめぐん)・・・延喜式までに上妻郡と下妻郡に分割。
- 上妻郡(かふづまぐん)
- 下妻郡(しもつまぐん)
- 山門郡(やまとぐん)
- 三毛郡(三池郡)(みけぐん)
江戸時代の藩
編集人物
編集国司
編集筑後守
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平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては筑前守および筑後守を同様に扱われた。
- 713年 - ? - 道首名(※初代筑後権守)
- 886年 - ? - 高丘宿禰五常(※筑後介)
- 970年前後 - 平維将(※筑前肥後守)
- 972年 - 975年? - 平惟仲(※筑後権守)
- 975年 - 977年? - 平親信(※筑後権守)
- ? - ? 平範季
- 1000年? - ? - 藤原広業(※筑後権守)
- 1017年? - 1019年? - 高階成章(※筑後権守)
- 1159年前後 - ? - 平家貞 父は平範季。
- 1160年? - ? - 平貞能 父は平家貞。
- ? - 1180年前後? - 波多野遠義(※筑後権守)
- 1180年前後? - ? - 橘遠茂(※筑後権守) - 平家家人
- 1186年 - ? - 藤原俊兼(※筑後権守)
- 1191年前後? - ? - 源仲頼 - 若宮社歌合に参加
- 1274年前後? - ? 草野教員(※筑後権守)
- 1274年前後? - ? 大友頼泰(※筑後権守)
- 1350年代? - ? - 阿蘇惟澄(※筑後権守)
- ? - ? - 蒲池治久(※筑後守)
守護
編集鎌倉幕府
編集- 1206年 - 1213年 - 大友能直
- 1241年 - 1272年 - 北条時章
- 1272年 - 1277年 - 大友頼泰
- 1277年 - 1281年 - 北条宗政
- 1286年 - 1288年 - 少弐盛経
- 1295年 - ? - 宇都宮通房
- 1305年 - 1315年 - 宇都宮頼房
- ? - 1333年 - 北条氏
室町幕府
編集- 1333年 - 1349年 - 宇都宮冬綱
- 1349年 - 詫磨宗直
- 1363年 - 1364年 - 大友氏時
- 1364年 - 大友氏継
- 1375年 - 島津氏久
- 1375年 - 1391年 - 今川貞世
- 1391年 - ? - 大友親世
- 1401年 - 1426年 - 大友親著
- ? - 1446年 - 菊池持朝
- 1446年 - 1466年 - 菊池為邦
- 1466年 - 1469年 - 菊池重朝
- 1469年 - 1482年 - 大友親繁(寛正年間に既に半国守護であったとする説もある[4])
- 1482年 - 1484年 - 大友政親
- 1484年 - 大友親豊(義右)
- 1499年 - 大友親治
- 1501年 - 1516年 - 大友義親(義長)
戦国時代
編集戦国大名
編集- 蒲池氏:大友氏の下で柳川城を本城とし、筑後筆頭大名と言われた。大友氏没落後、龍造寺隆信に敗れ、大名としては滅亡。その他の国衆は、筑後十五城を参照。
- 大友氏:豊後を本拠とし、筑後守護も兼ねる。筑後においては龍造寺氏との戦いに敗れ衰退。
- 龍造寺隆信:本拠は肥前。1581年蒲池氏を滅ぼしたが、隆信は1584年に沖田畷の戦いで戦死、肥前に後退した。
豊臣政権の領主
編集- 小早川隆景・秀秋:筑前・筑後・肥前1郡37万1300石(名島城)、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、備前岡山藩51万石に移封)
- 小早川秀包:久留米13万石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦いの後、改易)
- 立花宗茂:柳河13万2千石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦いの後、改易)
- 筑紫広門:山下1万8千石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦いの後、改易)
武家官位としての筑後守
編集江戸時代以前
編集江戸時代
編集筑後国の合戦
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 川添昭二・武末純一・岡藤良敬・西谷正浩・梶原良則・折田悦郎『福岡県の歴史 (県史)』山川出版社、1997年12月20日、4頁。ISBN 978-4634324008。
- ^ a b 福岡県統計年鑑 平成22年
- ^ a b 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 586-587。
- ^ 木村忠夫「大友氏の豊後支配」(初出:『熊本史学』42号(1973年)/所収:八木直樹 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻 豊後大友氏』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-122-6)
参考文献
編集- 角川日本地名大辞典 40 福岡県
- 旧高旧領取調帳データベース