藤原俊兼
藤原 俊兼(ふじわら の としかね)は、鎌倉時代初期の官吏。源頼朝の初期の右筆。官職は筑後権守。日本史Bの教科書類では筑後権守俊兼と表記されることもある。
時代 | 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 筑後権守俊兼 |
官位 | 筑後権守 |
主君 | 源頼朝 |
氏族 | 藤原氏 |
経歴
編集『吾妻鏡』での初出は養和2年(1182年)正月28日条で、俊兼は簀子(すのこ)に控えて、伊勢神宮に奉献される神馬10匹の毛付を記している。元暦元年(1184年)4月23日には、下河辺政義が俊兼を通じて訴え出、頼朝の命により、俊兼が常陸国目代に御書を代書している。藤原邦通と重なりつつも、それと入れ替わるようによく登場し、逆に邦通は右筆としても影が薄くなる。同10月20日条では頼朝御亭東面の廂を問注所とし、三善康信を筆頭に藤原俊兼、平盛時が諸人訴論対決の事を沙汰することになったとある。
元暦元年(1184年)11月21日条。源頼朝に呼び出された俊兼は特に華美かつ派手であり、小袖十余領を着、その袖の褄(つま、端)は重色になっていた。頼朝は俊兼の小袖の褄を切り、千葉常胤や土肥実平の質素さを引き合いに出しながら「お前は才能に富んだ者なのに倹約ということを知らない」「今後は華美を止めよ」と説教して奢侈を戒めた。その場に居合わせた大江広元や藤原邦通も肝を冷やしたとある。
文治2年(1186年)3月6日条では源義経の行方について静御前の尋問を行った。同年8月15日条では、西行の語る流鏑馬の奥義を頼朝が俊兼に書き取らせている。