源湛
平安時代前期の公卿。源融の長男。従三位・大納言。子に源寄、源准(掃部頭、宮内少輔、子に源散(従五位下、宮内少輔)、源寛筭(寛算))、源若(従五位下、中務丞)、源添(外衛)
源 湛(みなもと の たたう)は、平安時代前期の公卿。嵯峨源氏、左大臣・源融の長男。官位は従三位・大納言。
時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 承和12年(845年) |
死没 | 延喜15年5月21日(915年7月6日) |
官位 | 従三位、大納言 |
主君 | 清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 嵯峨源氏 |
父母 | 父:源融、母:藤原総継の娘 |
兄弟 | 湛、泊、昇、望、副 |
妻 | 不詳 |
子 | 寄、准、若、添、藤原時平室[1] |
経歴
編集清和朝の貞観5年(863年)無位から従五位下に叙爵。のち、備後権介・備前権介・侍従・土佐権守を歴任。貞観18年(876年)従五位上・左兵衛佐に叙任されると、以降清和・陽成・光孝・宇多の四朝の17年間に亘って武官を務める。
この間、光孝朝の元慶9年(885年)右近衛少将、仁和2年(886年)正五位下、宇多朝に入ると仁和4年(888年)五位蔵人、寛平2年(890年)従四位下・蔵人頭兼右近衛中将、寛平4年(892年)左近衛権中将と順調に昇進し、寛平5年(893年)参議に任ぜられて公卿に列した。
議政官を務める傍ら、弾正大弼・刑部卿などを兼帯し、寛平8年(896年)従四位上、昌泰4年(901年)正四位下と昇進を重ね、延喜8年(908年)従三位・中納言に叙任される。延喜9年(909年)陸奥出羽按察使に任ぜられ、延喜12年12月(913年1月)に致仕を請うが許されず、翌延喜13年(913年)正月に大納言に至る。
延喜14年(914年)8月に致仕を許され、翌延喜15年(915年)5月21日薨去。享年71。最終官位は致仕大納言従三位。
官歴
編集注記のないものは『日本三代実録』による。
- 貞観5年(863年) 正月7日:従五位下(直叙)
- 貞観9年(867年) 2月29日:備後権介
- 貞観10年(868年) 正月16日:備前権介
- 貞観12年(870年) 2月14日:侍従
- 貞観16年(874年) 正月15日:土佐権守[2]
- 貞観18年(876年) 正月7日:従五位上[2]、12月26日:左兵衛佐[2]
- 貞観19年(877年) 正月15日:左衛門佐[2]
- 元慶7年(883年) 2月14日:越中守
- 元慶9年(885年) 正月16日:右近衛少将、越中守如元
- 仁和2年(886年) 正月7日:正五位下
- 仁和3年(887年) 2月17日?:止越中守[3]。12月3日:禁色、昇殿[2]
- 仁和4年(888年) 11月27日:五位蔵人[4]
- 仁和5年(889年) 正月16日:讃岐介[2]
- 寛平2年(890年) 正月7日:従四位下[2]。日付不詳:右近衛中将[3]。2月27日:兼内蔵権頭[2]、9月20日:蔵人頭[2]
- 寛平4年(892年) 正月23日:内蔵頭[2]。2月21日:左近衛権中将、止内蔵頭[3]
- 寛平5年(893年) 正月11日:兼備中守[2]。2月16日:参議[2]
- 寛平8年(896年) 正月7日:従四位上[2]。2月15日:弾正大弼[2]
- 寛平9年(897年) 正月14日:兼讃岐権守[2]。5月25日:刑部卿、止大弼[2]
- 昌泰2年(899年) 正月11日:兼美濃権守[2]
- 昌泰4年(901年) 正月7日:正四位下[2]
- 延喜4年(904年) 正月25日:伊予守[2]
- 延喜7年(907年) 2月29日:近江権守[2]
- 延喜8年(908年) 正月12日:従三位、中納言[2]
- 延喜9年(909年) 正月11日:陸奥出羽按察使[2]
- 延喜12年(912年) 12月22日:請致仕不許[2]
- 延喜13年(913年) 正月28日:大納言[2]
- 延喜14年(914年) 8月13日:致仕[2]
- 延喜15年(915年) 5月21日:薨去(致仕大納言従三位)[2]
系譜
編集『尊卑分脈』による。