池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日1840年6月25日〉 - 大正元年〈1912年10月11日)は、日本武士米沢藩士)、官僚実業家

いけだ なりあき

池田成章
生誕 1840年6月25日
出羽米沢
死没 (1912-10-11) 1912年10月11日(72歳没)
山形県
職業 米沢藩士
置賜県判事
両羽銀行頭取
子供 池田成彬
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三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬は長男。

経歴

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出羽米沢藩士五十騎組香坂昌邦の子として生まれ、同じく藩士の五十騎組池田峰蔵[1]の養子となった。藩校興譲館に学び、上杉茂憲小姓となった。町奉行、江戸留守居役を歴任。当時茂憲の側役として麻布邸に起居し、甘糟継成と行動を共にし、ここで慶應義塾福澤諭吉小幡篤次郎シーボルトを初めとする人物らと知己を得た。

明治維新後は廃藩置県に伴い置賜県判事となる。1881年(明治14年)5月に茂憲が沖縄県令に赴任するのに従い、10月に沖縄県権少書記官となる。翌1882年(明治15年)1月に事務官判事となる。1883年(明治16年)に茂憲が沖縄を離れるのと共に東京に戻り、翌1884年(明治17年)に大蔵省御用掛となる。

1886年(明治19年)に大蔵省を辞任し、米沢に戻り事業を開始する。1888年(明治21年)末まで米沢中学校(現在の山形県立米沢興譲館高等学校)の初代校長も務めている。両羽銀行(現在の山形銀行)の創立に関わり、1896年(明治29年)に初代頭取に就任し、1907年(明治40年)まで務めた。

主君の茂憲に終生忠誠を尽くし、1896年(明治29年)に茂憲が米沢に戻ったときの居宅として鶴鳴館(現在は上杉記念館として公開されている)の建設に当たったのも成章であった。

家族

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脚注

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  1. ^ 五十騎池田家は、諸士略系譜にて越後御譜代とあることから出羽池田氏流ではない。

外部リンク

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