椿蓁一郎

日本の教育者・官僚

椿 蓁一郎(つばき しんいちろう、1850年10月9日(嘉永3年9月4日[1] - 1935年昭和10年)9月10日[2])は、幕末桑名藩士明治期の教育者内務官僚三重県師範学校長、官選県知事小樽区長。旧姓・塚田、旧名・丈夫[1]

椿蓁一郎

経歴

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江戸八丁堀の桑名藩邸で同藩士・塚田長平の二男として生まれ、同藩士・椿重三郎の養子となる。藩校・立教館で学んだ。戊辰戦争では幕府方として転戦した。その後、桑名に帰るも、1973年に上京して東京師範学校で学び[3]1874年1月、同校を卒業[4]

1874年2月、文部省三等訓導任官。1875年9月、度会県師範学校二等訓導に就任。以後、同校監事兼一等訓導、三重県師範学校長を歴任。1880年2月、地方官に転じ三重県四等属となる。以後、三重県飯高郡長兼飯野郡長、兼多気郡長を歴任。1887年2月、再び三重県尋常師範学校長に就任。1888年8月、高等師範学校教諭に転任。同年9月、文部省普通学務局兼務、同省視学官となる。1890年2月、第五高等中学校幹事に転じた。1891年8月、女子高等師範学校教授に就任。以後、文部省視学官、華族女学校幹事、文部省参事官、兼華族女学校教授などを歴任[1]

1895年9月、再び地方官に転じ愛媛県書記官となる。以後、沖縄県書記官、兼臨時沖縄県土地整理事務局事務官などを経て、1900年1月、和歌山県書記官に就任[1]

1900年10月、和歌山県知事に昇格。県内寺社の整理統合、南海鉄道全線開通などに尽力[3]1903年6月、秋田県知事に転任。前々任の武田千代三郎知事の「造林百年計画」の実施に着手した。1904年11月、知事を休職となる[5]1905年11月18日、小樽区長に就任し[6]1908年10月に辞職した[7]

栄典・授章・授賞

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外国勲章佩用允許

編著

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  • 千賀性海共編『初學人體問答』加藤長平、1877年。
  • 庄井弘共編『筆算新書大全』桂雲堂、1879年。

脚注

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  1. ^ a b c d 「北海道小樽区長候補者中椿蓁一郎市長就任ノ件」
  2. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』819頁。
  3. ^ a b 『新編日本の歴代知事』737頁。
  4. ^ 近代デジタルライブラリー 東京高等師範学校一覧. 明治30-32年
  5. ^ 『新編日本の歴代知事』168頁。
  6. ^ 『官報』第6719号、明治38年11月21日。
  7. ^ 東京朝日新聞』1908年10月13日朝刊、2頁。
  8. ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
  9. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  10. ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
  11. ^ 『官報』第7992号「叙任及辞令」1910年2月16日。

参考文献

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  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年。
  • 内閣「北海道小樽区長候補者中椿蓁一郎市長就任ノ件」明治38年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-019-00・任B00418100
公職
先代
津田純一
三重県師範学校長
三重県尋常師範学校長
1887年 - 1888年
三重県師範学校長
1887年
次代
桑原護一
校長心得
先代
大平孝則
三重県飯高飯野郡
1883年 - 1887年
次代
土居光華
先代
永島雪江
三重県多気郡
1886年 - 1887年
次代
土居光華
先代
(新設)
三重県師範学校長
1879年 - 1880年
次代
野沢玄宣