松平直諒
日本の江戸時代後期の大名・俳人・画家・書家。出雲広瀬藩(出雲松江藩分家)8代藩主松平直寛長男で、広瀬藩9代藩主。従五位下佐渡守
松平 直諒(まつだいら なおあき(なおよし))は、出雲広瀬藩の第9代藩主。直政系越前松平家広瀬藩分家9代。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化14年10月5日(1817年11月13日) |
死没 | 文久元年9月5日(1861年10月8日)? |
改名 | 大助(幼名)→直諒 |
戒名 | 嶺(俳号)、玉峯(画号)、浩斎(書号) |
墓所 | 島根県安来市広瀬町城安寺 |
官位 | 従五位下、佐渡守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶、家定、家茂 |
藩 | 広瀬藩 |
氏族 | 越前松平家 |
父母 | 父:松平直寛、母:内藤政韶の娘 |
兄弟 | 松平直巳 |
妻 |
正室:宣姫(松平義和の娘) 継室:銑姫(青山忠良の娘) |
子 | 大橋某室、松平定法室 |
経歴
編集有能で、俳諧・絵画・書道を嗜むなど多趣味な人物で、歴代藩主のほとんどが江戸に定府していたのに対して、直諒は嘉永3年(1850年)に父が死去して家督を継ぐと、ただちに国元に入って製糸業や製油業、和紙、鋳物、陶器、織物(広瀬絣)等の産業奨励、文化の奨励などを行い、領民に善政を敷いた名君であった。このため、領民も直諒を暖かく出迎えたという。文久元年(1861年)9月5日(異説として7月19日)に広瀬にて死去した。享年45。跡を弟の直巳が継いだ。
直諒の文化政策の遺構は、現在においても広瀬町に現存している。直諒だけが歴代で唯一、広瀬町に墓所が存在する。