青山忠良
江戸時代後期の大名・老中。丹波篠山藩5代藩主。従四位下因幡守、下野守。青山家宗家19代。青山忠裕の四男。江戸幕府 寺社奉行、大坂城代、老中
青山 忠良(あおやま ただなが)は、江戸時代後期の大名・老中。丹波国篠山藩5代藩主。官位は従四位下・因幡守、下野守。青山家宗家19代。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化3年4月10日(1806年5月27日) |
死没 | 元治元年11月15日(1864年12月13日) |
官位 | 従四位下・因幡守、下野守 |
幕府 | 江戸幕府 寺社奉行、大坂城代、老中 |
主君 | 徳川家斉、家慶、家定、家茂 |
藩 | 丹波篠山藩主 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 青山忠裕、小川氏 |
兄弟 | 忠良、幸哉、日野資敬、松平忠誨正室ら |
妻 | 内藤政峻娘、映松院、福亀 |
子 |
忠敏、成瀬正肥、井上正誠、大関増徳、 忠誠、忠惇、太田資功正室、銑姫、郁子、板倉勝運正室、土井利与正室、佐竹義堯継々室ら |
生涯
編集文化3年(1806年)、4代藩主・青山忠裕の四男として誕生した。天保6年(1835年)、忠裕の隠居により家督を相続した。天保8年(1837年)に寺社奉行、天保11年(1840年)大坂城代に就任した。
弘化5年(1848年)、老中首座の阿部正弘が徳川斉昭を重用するのに反発し、旧縁であり斉昭に反目する水戸藩士の朝比奈某を焚きつけ、斉昭と親しい阿部を退けようと陰謀を企てたが、事前に計略が発覚し、忠良は逆に老中を辞任させられ、幕閣を追放された。
文久元年(1861年)、篠山春日神社に能舞台能楽殿を寄進した[1]。翌文久2年(1862年)隠居。家督は次男の忠敏が継いだ。