大関増徳

日本の江戸時代後期~大正時代の大名。江戸幕府老中(丹波篠山藩5代藩主)青山忠良五男で、下野黒羽藩13代藩主大関増昭養子。黒羽藩14代藩主。従三位

大関 増徳(おおせき ますよし)は、江戸時代後期の大名下野国黒羽藩14代藩主。官位従五位下信濃守明治維新後、従三位

 
大関増徳
大関増徳
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 天保10年9月19日1839年10月25日
死没 大正4年(1915年1月27日
改名 鉚之助(幼名)、青山忠可、大関増徳、増式
戒名 本光院殿悟山増智大居士
墓所 栃木県大田原市の大雄寺
官位 従五位下信濃守従三位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家定家茂
下野黒羽藩
氏族 青山氏大関氏
父母 青山忠良、福亀
大関増昭
兄弟 青山忠敏成瀬正肥井上正誠増徳
青山忠誠青山忠惇太田資功正室、
銑姫、郁子、板倉勝運正室、
土井利与正室、佐竹義堯継々室ら
大関増儀お鉱
一戸寛土井利与継室、大沼盾雄室、風野光四郎室ら
増裕侍子
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経歴

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天保10年(1839年)、丹波国篠山藩主・老中青山忠良の五男として誕生した。安政3年(1856年)4月19日、13代藩主・大関増昭の死去により、末期養子として家督を相続した。同年4月25日、江戸幕府13代将軍徳川家定御目見する。安政4年(1857年)12月16日、従五位下・能登守に叙任する。

万延元年(1860年)8月、先々代藩主・大関増儀の娘で正室であったお鉱と離婚する。これに対し、藩主による御家の乗っ取りであるとして家中に強い反発が生じる[1]文久元年(1861年)1月18日、家老益子右近滝田典膳村上左太夫風野五兵衛らにより、座敷牢に監禁される[2]。以後、廃藩置県まで監禁される[3]。同年10月9日、幕府に隠居届を提出して受理され、養子の増裕西尾忠宝の三男)に家督を譲る。家臣により、強制的に隠居(主君押込)させられた。慶応3年(1867年)4月、増式(ますつね)と改名。

大正4年(1915年)1月27日、東京にて死去。享年77。

天保10年(1839年)9月19日に日比谷御門内の丹波篠山藩青山家上屋敷で生まれたとされていたが、近年、青山家中屋敷跡の港区立青山中学校に保管されていた石製の胞衣容器が増徳のものであることがわかり、2006年(平成18年)10月24日、東京都港区により文化財に指定された。現在、港郷土資料館に保管されている。本資料によると、天保10年(1839年)9月17日に誕生となっている。

系譜

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父母

正室、継室

子女

養子、養女


母は側室の「福亀」であることが近年判明した。

増徳は後に仲(福貴)と結婚、長男は陸軍少将・大関釥、六男・一戸寛は一戸兵衛陸軍大将の嫡養子となり、秩父宮雍仁親王皇族附武官となった[6]。その子(孫)小野寺百合子スウェーデン駐在武官小野寺信陸軍少将夫人で『ムーミン』等の児童文学の翻訳を手がけた翻訳家。娘は下総古河藩土井利与夫人、黒羽藩士陸軍少将大沼渉長男盾雄夫人、黒羽藩家老陸軍主計少佐風野光四郎夫人がいる。

脚注

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  1. ^ 八幡和郎 『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 光文社新書 171 ISBN 4334032710、416p
  2. ^ 中嶋繁雄 『大名の日本地図』 文春新書 352 ISBN 4166603523、117p
  3. ^ 笠谷和比古 『主君「押込」の構造 近世大名と家臣団』 講談社学術文庫 1785 ISBN 978-4061597853、129-130p
  4. ^ 後に離縁
  5. ^ 一戸兵衛の婿養子
  6. ^ 浅見雅男 『皇族誕生』 角川文庫 [あ-54-1] ISBN 978-4043944897、148p