真宗大谷派名古屋別院
名古屋市中区にある仏教寺院
(東本願寺名古屋別院から転送)
真宗大谷派名古屋別院(しんしゅうおおたにはなごやべついん)は、愛知県名古屋市中区にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院。真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。開基は、東本願寺第十六代法主 一如[1]。通称は、「東別院」、「東御坊」、「名古屋東別院」、「東本願寺名古屋別院」。
真宗大谷派 名古屋別院 | |
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本堂 | |
所在地 | 愛知県名古屋市中区橘2-8-55 |
位置 | 北緯35度9分8.09秒 東経136度54分7.05秒 / 北緯35.1522472度 東経136.9019583度 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 真宗大谷派 |
寺格 | 別院 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 元禄3年(1690年) |
開基 | 一如 |
別称 | (名古屋)東別院、東御坊 |
文化財 | 紙本墨画淡彩四季山水図(重要文化財)梵鐘(市文化財) |
公式サイト | お東ネット |
法人番号 | 6180005000245 |
沿革
編集元禄3年(1690年)、尾張藩第2代藩主・徳川光友より織田信秀の居城・古渡城の跡地約1万坪の寄進を受けて建立された。尾張国の6つの寺が、この地に布教の拠点を置くことを本山に願い出たが、当初は他の寺から猛反対を受けた。
文化2年(1805年)、五代惣兵衛が本堂を再建した。惣兵衛はこのためだけに真宗へ改宗し、さらに本山である東本願寺に多額の寄進をしたことにより、使用する材木の調達を一手に請負うことに成功。
文政6年(1823年)、新たな本堂が竣工した。この年、本山の御影堂と阿弥陀堂が焼失。緊急の措置として、別院(当時の呼称は「名古屋御坊」)の古御堂が東本願寺の本堂とされた。
明治7年(1874年)5月1日から6月10日にかけて開催された、「名古屋博覧会」の会場としても使用された。同博覧会では名古屋城天守の金鯱や地元の名産が展示され、好評につき、当初5月31日までの予定であった会期は10日延長された。
昭和20年(1945年)3月12日、名古屋大空襲の被害を受け、本堂をはじめ、ほとんどの施設が焼失した。現在の本堂は、戦後再建されたものである。
伽藍・境内
編集- 山門
- 当初の山門は宝暦7年(1757年)建立。現在の山門は、昭和20年(1945年)の空襲による焼失後、昭和43年(1968年)に再建された。釈迦如来像(中央)、弥勒菩薩像(向かって右)、阿難尊者像(向かって左)を安置。
- 本堂
- 当初の本堂は元禄15年(1702年)建立。2度の再建後、昭和20年(1945年)の空襲で焼失。現在の本堂は、昭和41年(1966年)の再建。
- 対面所
- 毎月5日(1月のみ10日)〜28日まで、名古屋教区内外の布教使による法話が行われる。1階に名古屋別院総務部・財務部を置く。
- 名古屋教務所
- 教区会、門徒会、院議会などを開催する。各種講座の会場としても用いる。
- 教化センター
- 仏教図書館。真宗・仏教関連書籍や視聴覚教材の閲覧、貸し出しを行う。
- 納骨堂
- 信徒の遺骨を納める。毎年7月15日、納骨法要が行われる。
- 鐘楼
- 名古屋市の指定文化財。元禄5年(1692年)鋳造。総高177.5cm、口径108cm。
- 東門
- 建立年代を記した史料はないが、文化2年〜6年にかけて行われた工事(既述)に合わせ、江戸時代後期に建立されたものと考えられている[2]。戦災を免れた境内最古の建造物。接続する土塀と合わせて、登録有形文化財となっている。
- 豊本説教場跡
- 現在の名古屋市中区栄に設置されていた別院の説教場の碑。名古屋高速道路建設工事の際に出土し、境内に移設。明治26年(1893年)建立。
- 明治天皇行在所旧址碑
- 明治天皇が行幸した際に、別院が行在所として使用されたことを記念して建立。
- 明治天皇名古屋大本営碑
- 昭和9年(1934年)6月1日建立。
- 明治23年(1890年)に陸軍・海軍合同の軍事演習を名古屋で行った際、この地に大本営を設置したことを記念。
- 昭和8年(1933年)11月2日に、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき、史蹟として文部大臣の指定を受けた(全国の他の「明治天皇旧跡」とともに昭和23年6月29日に史跡指定解除)。
- 住田智見講師句碑
- 昭和42年(1967年)、住田智見の生誕100年を記念して建立。
- 伊豆山権現参拝の折に詠んだ句「白毫の 光尊し 夜半・秋」を刻む。
- 住田智見は、明治元年(1868年)に祐誓寺(名古屋市熱田区)で生誕。大谷大学を卒業後、真宗大学教授、大谷大学学長を歴任した。また、真宗専門学校(現同朋大学)を創設した。昭和13年(1938年)死去。
- 古渡城址碑
- 前述の通り、境内地は古渡城の跡地と伝えられる。織田信秀は那古野城を息子信長に譲り、自らは古渡城を居城とした。天文15年(1546年)、信長はこの城で元服したといわれる。天文17年(1548年)に廃城。
年表
編集- 元禄4年(1691年) - 徳川光友、古渡城跡地を「名古屋御坊」建設地として寄進
- 元禄15年(1702年) - 本堂竣工
- 文化2年(1805年) - 本堂再建開始
- 文政6年(1823年) - 本堂竣工
- 文政10年(1827年) - 「閲蔵長屋」創設(現在の学校法人尾張学園。名古屋大谷高等学校、豊田大谷高等学校などを擁する)
- 明治4年(1871年) - 「名古屋本願寺」に改称
- 明治6年(1873年) - 「名古屋管刹」に改称
- 明治7年(1874年) - 名古屋博覧会開催
- 明治9年(1876年) - 「名古屋別院」に改称
- 明治11年(1878年) - 明治天皇の行在所として使用
- 昭和20年(1945年) - 名古屋空襲により全焼
- 昭和37年(1962年) - 本堂再建開始
- 昭和41年(1966年) - 本堂竣工。機関紙「名古屋御坊」創刊
- 平成2年(1990年) - 名古屋別院開創300年・開基一如上人300回忌勤修
文化財
編集- 重要文化財(国指定)
- 紙本墨画淡彩四季山水図 六曲屏風一双[3]
- 登録有形文化財
- 東門及び土塀[4]
- 名古屋市指定文化財
- 梵鐘[5]
アクセス
編集参考文献
編集- 『尾張名所図会』 第二巻 東本願寺 掛所、1844年
関連項目
編集外部リンク
編集- お東ネット 真宗大谷派名古屋別院(東別院) 東別院会館 名古屋教区 教化センター
- 東別院会館案内 - 東別院ホールなどの利用案内
- from NAGOYA - 東本願寺名古屋別院
脚注
編集- ^ 東本願寺…正式には「本願寺」。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第十六代法主」と表記。
- ^ “登録有形文化財(建造物)の登録について (資料2)真宗大谷派名古屋別院東門及び土塀” (pdf). 愛知県 (2020年4月1日). 2023年5月3日閲覧。
- ^ “紙本墨画淡彩四季山水図”. 愛知県. 2013年5月26日閲覧。
- ^ “真宗大谷派名古屋別院東門及び土塀”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2023年5月3日閲覧。
- ^ “市指定文化財”. 名古屋市 (2012年10月19日). 2013年5月26日閲覧。